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第3話 りんどう姫は、涙目になる。

 九十七、九十八、九十九……。

 百、と冬夜とうやが口の中で呟くのと、竜胆りんどうが冬夜の胸から顔をあげるのはちょうど同時だった。予想よりは短かかったが、一分と四十秒、しっかり冬夜の胸で号泣した竜胆の顔は、ぼろぼろである。

 「……ひっく。ううう。うええええ……」

 しゃくりあげ、また、泣き出す。

 冬夜は常に八枚ほど装備しているハンカチを取り出し、竜胆の頬に当てた。左の手で前髪を撫で、耳の後ろに手櫛を通す。竜胆は冬夜のそのしぐさが好きだった。何度か繰り返してようやく泣き止む。

 「……なんで、受けて立っちゃったの……?」

 冬夜が頭をぽんぽんしながら言うと、竜胆は揉んだ布のようになった顔を冬夜に向けた。

 「だってえ……花奈ちゃん、冬夜のこと、子分とかいうから……冬夜は許嫁だもん。子分じゃないもん。間違ったこと言ったら、ごめんなさいしなきゃいけないんだよお……」

 「あの時にそう言えばよかったのに……」

 「……花奈ちゃん怖くて、なんかわかんなくなっちゃった……」

 竜胆がまた顔をくしゃっとしたので、冬夜はもう一度抱き寄せる必要に迫られた。

 第十八体育準備室。小さな窓から入ってくるわずかな陽光が、殺風景な部屋を薄い橙色に染めている。将来的に授業として導入予定のエクストリームスポーツ関係の設備が格納されるはずの小部屋だが、今は空いている。そこの鍵を、竜胆はいつも持ち歩いていた。

 ここ以外にも彼女だけが出入りできる部屋がいくつかある。理由は不明だし、冬夜も訊ねないが、彼女の父親がこの学園の重要な出資者であることが関係しているのだろう。

 竜胆は、花奈に大見得を切った冬夜の腕を掴み、弁当もそのままにしてこの部屋に連行した。途中で複数の生徒が気の毒そうな顔をしてそれを見送った。冬夜への同情は、生徒たちの共通理解だった。

 入るなり、竜胆は冬夜にしがみつき、泣いて泣いて今に至る。

 「……そして僕も、なんで、煽っちゃうかなあ……」

 竜胆を胸にかかえたまま、冬夜は天井を見上げて嘆息した。

 「……っぐ。ごめんね、ごめんね……」

 「はいはい、お鼻かんで。そろそろ行くよ、もう着替えしないとでしょ?」

 「……うん……くしゅっ」

 体育は五限だが、水泳のため準備時間が設けられている。ただ、あと二十分ほどで着替え、準備を終えなければならない。

 普段の部活のときには、冬夜は、女子更衣室の出入り口付近で待機している。それだけを聞けば変質者とも思えるが、荷物を手に山のように持たされている状態で待つのだ。クラスメイトたちは常に憐れみの色を浮かべた視線を冬夜に向けた。

 そして着替えが終わったら一度、手を握る。状況が許せば移動し、ぎゅっとする。そして冬夜はプールサイドに走り、竜胆がプールのどこにいても見える位置に陣取り、念を送るのだ。こうした努力が竜胆を女帝ならしめていたのである。

 努力は授業での水泳においても変わらない。この学校は大型のプールが二面あるため、男女が分かれてそれぞれのプールで練習となるが、冬夜は常に竜胆の視野に収まる場所にいる必要がある。もちろん今日の五限も、そして花奈との対決の瞬間も、冬夜は確実に、はっきりと、竜胆の視野の中にいる必要があるのである。

 「誰もいないよ」

 竜胆が扉をあけ、左右を見回して振り返った。竜胆と冬夜が二人きりになること自体は校内周知の事実だが、姫モードが解除された瞬間を冬夜以外に知られるわけにはいかないのだ。運悪くそれを知る者があったとすれば、梧桐院家が動くことになる。

 「先に行って。僕もすぐ着替えてプールで待ってるから」

 「うん」

 竜胆がてててっと走ってゆく。しばらく待って、冬夜も廊下に出た。

 やれやれという顔をしながら更衣室に向かう途中で、同じクラスの男子たちに出会った。更衣室とはまったく違う方向だ。しかも、水泳の準備はしていない。全員、ジャージ姿。

 「あれ、なんで着替えてないの?」

 冬夜が聞くと、ひとりが残念そうな表情を浮かべた。

 「プールの設備がひとつ、壊れたんだって。一面は使えるけど、準備に時間かかる女子に使わせるって。俺たち男子は、持久走だってさあ。久しぶりに泳げると思ったのになあ」

 「お前は女子目当てだろがよお」

 「なっ、ばか」

 じゃれる男子たちを前に、冬夜は硬直していた。

 持久走は、校庭のトラックで行われる。もちろん屋内プールの建物の外だ。校庭からプールのなかは見えない。プールからも同様である。

 つまり、竜胆は、冬夜のすがたを見ることができない。

 「……りん、ちゃん……」

 遠くを見るようにして、冬夜はこぶしを握った。

 そのころ、竜胆は着替えている。

 更衣室の照明は暗くはなく、室内はむしろ、清潔なあかるい白に満たされている。ただ、その白を染める光を発しているのは、竜胆なのである。やや伏せた目に、深い自信と誇りを湛えた瞳がしずかにひかる。遠巻きに囲む友人たちのため息。

 視線を気にせずタオルを手に取り、竜胆は出口に向かって足を出した。

 と、その時。ドアが開いて、水泳指導の教員が顔を見せた。

 「えーと、今日はプールがひとつしか使えません。女子は第二プールじゃなくて第一プールを使いますので気をつけてくださいね」

 「えっ、男子はどうするんですか」

 誰かが聞くと、教員はグラウンドの方向を指差した。

 「持久走だそうです」

 ぱさり。竜胆の手からタオルが落ちた。



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