第1話 りんどう姫は、最強である。
ぱん。
大きな音に、教室の全員が振り返った。
掃除テーマとよばれる校内音楽がかかっている。清掃の時間なのだ。サボる生徒も多く、教室のなかに残っているのはわずかな人数。真備 冬夜が無意識にかぞえたところ、せいぜい十人。女子が多い。
その十人のなかには、いま、りんどう姫に鋭く頬を打たれた川森 芽衣も含まれている。
明るい髪色。朱色の胸元リボンに、おなじ朱色ベースのタータン膝上プリーツ。この学校の制服ではあるのだが、芽衣が身につけているとどこかのアイドルグループのユニフォームに見えてくる。
頬をおさえて呆然としている芽衣の正面には、りんどう姫、梧桐院 竜胆。彼女も同じ服装だ。制服だから当然である。が、芽衣が星だとすれば、梧桐院さんは月、スーパームーンだな、と、冬夜はかんがえている。
竜胆は小さくため息をつきながら、芽衣の頬を打った手をおろした。
芽衣はしばらく黙って瞳を潤ませていたが、やがて我に返ったのか、あるいは本性を思い出したのか、顔を赤くして叫んだ。
「……いったあい! なにすんの、このくそおんな!」
竜胆は、足元に転がる小さなバケツに手を伸ばし、拾った。先ほどまで水が入っていたが今は空だ。水は竜胆の背中あたりから下を濡らし、その足元に水たまりを作っている。
かけたのは、芽衣である。竜胆にわざとらしく突き当たり、大袈裟に驚いてバケツを投げつけてみせたのだ。あらあ、ごめえん、と笑いながら言う芽衣に、竜胆は即座に振り返り、その勢いのままに手のひらを叩きつけた。
「……浅ましい。やるなら、正面から来なさい」
竜胆の強い視線を真っ直ぐに向けられた芽衣は、ぐっと息を飲むような表情を浮かべ、それでも声を上げた。
「ヒロヤくんに! 色目つかって! あんたなんて……!」
「色目……? ああ、ヒロヤくんって、お手紙を下さった人ね。読まずにその場でお返ししたけど、それはわたしが責められるべきことなのかしら」
「……その、澄ましたつらが、むかつくって言ってんの!」
今度は芽衣の手のひらが飛ぶ。竜胆は目を逸らさず、その動きを捉えている。が、避けない。わずかに引いて衝撃を和らげ、そのまま受けた。受けて、芽衣の目をじっと見つめ続ける。
はあ、はあ、と肩を上下させ、芽衣はしゃがみ込んで、泣き出した。
「あああああっ、あああ……」
竜胆はひとつ、大きな息を吐き、冬夜のほうを向いた。ウルフカットの裾がふわりと揺れる。少しあがった目尻。色の薄い、しかし強い光をはなつ瞳が冬夜を見据えている。電流に打たれたように、冬夜は固まった。
「冬夜さん、行きましょう。今日も練習、お付き合いいただけるんでしょう?」
再び芽衣を冷たい目線で見下ろし、手近にあった雑巾をとってさらさらとそのあたりを吹いて、あとお願いしてよろしいかしら、と皆に言葉を投げてからバッグを手に取った。濡れている制服を気にする様子もなく大股で教室を出てゆく。冬夜も慌てて自分のバッグをとり、後を追った。
静まり返り、芽衣の啜り泣きだけが響く教室で、女子たちはひそひそと声をかわした。
「……りんどう姫、きょうも怖かったね……」
「……冬夜くんもかわいそう。いくら許嫁っていっても、さあ」
「小学校のときから、ずっとあんな感じらしいよ……シモベ、だよね」
「うん、女王さまに踏んづけられる、シモベ」
その声は、廊下を早足で歩く竜胆と、冬夜の背中には届いていない。
「待って……待ってよ、りんちゃん」
りんちゃん、といわれ、竜胆は急に立ち止まり、振り返った。眉を逆立てて口元を引き結んでいる。
「あっ。ご、ごめん、いやいや、ちょっと待って……」
竜胆は、走り出した。冬夜はうう、とうめいて後を追う。昇降口に至り、竜胆はシューズロッカーから乱暴に靴をとり、ひっかけて走る。冬夜は部活で使うシューズしか置いておらず、紐を結ぶのに手間取った。遅れて校舎を出ると、竜胆の姿はもう見えない。
ずいぶん探してから、そよそよと緑の葉がゆれる校庭の隅、大きな柿の木の下で竜胆を見つけた。用具倉庫に隠れて校舎からは見えない場所だ。そこで背中を冬夜に向けて、立ちつくしている。
冬夜は恐る恐るその背に近づき、手を伸ばした。
と、振り返る、竜胆。
大粒の涙。
くしゃっと、幼児のように歪められた表情。
「あうあ。うううあああああ」
冬夜は竜胆の肩に手を置こうとして、いったん引っ込め、背中に回した。ぽんぽんと叩くと、竜胆の泣き声のボリュームが一段階、上がった。
「あああ。怖かったよお。めいちゃん、怖いよお。なんであんなこと言うの。りん、そんなの知らないもん。バスケ部の人なんて、興味ないもん。りん、冬夜しかいらないもん」
ひといきに言い、竜胆は、冬夜の胸に顔を押し付けた。
学園の女帝とよばれ、成績は常にトップ。小学校から続けている飛び込み競技では五輪出場を見込まれ、最近では芸能界の誘いもあったという最強のヒロイン、りんどう姫。
そして彼女は、冬夜の生まれた時からの、許嫁だ。
名家の後継者として両親は竜胆を厳しくしつけ、彼女もそれに応えた。決して酷い家庭環境ではなかったが、それでも溜め込んだものを吐き出す先は必要だった。
幼い頃からずっと、いつでも一緒にいた両親の親友の息子、冬夜。竜胆は彼にだけ本音を見せ、愚痴を聞かせ、そうしてついに、冬夜の前でしか姫になれない体質となった。
頑張ったあとは、冬夜にぎゅっとしてもらわなければ、動作不能におちいる。
「……はあ……」
りんどう姫を抱きしめながら漏らすため息の回数を、冬夜は、ここ数年数えている。
たしかその数は今日で、八千三百二十七回目だ。