③
その日の夜、食事も済んで一休みしている時間にリーレンの家の玄関がノックされた。母親が応対に出ると、扉の外にはセオタスが立っていた。
(誰か来た……何か、胸騒ぎがするわね)
自室にいたリーレンは、少し考えて窓を開ける。ほどなく母親から声がかかった。
「セオタスが、あなたに話があるのですって。聞いてらっしゃい」
家の中では話せないことなのか、半ば押し出すようにリーレン達は外に出された。居間で茶を飲む父親の表情が険しいような奇妙な様子なのが気になる。
「何なの、もう夜だっていうのに外で話って……」
「……あ、流れ星」
セオタスはまた空を見上げて、すぐには本題に入らない。今は家の外に出ている町人はおらず、星空の下に二人きりだ。胸騒ぎが増すばかりで、リーレンは早くこの状況を脱したかった。
昼間の態度に怒っているようには見えないから、言いかけたことを話しに来たのかもしれない。
(想像がつかないわ。父さんも、セオタスも様子が変)
山の夜は冷える。何か羽織ってくれば良かった。リーレンは、星を見る頬を目線で刺した。
「それで、話って?」
「ああ……昼間も言おうか迷ったんだけど……いや、もっと前から言おうとはしてたんだ」
ようやく顔はリーレンを向いたが、セオタスの目線があさっての方向にあることだけは、感覚でわかる。宵闇が互いの表情を隠して、苛立ちも緊張もうやむやだ。
「はぁ、情けないな。いつもこんな風になる」
大きな溜め息で、幾分緊張を吐き出せたのだろうか。セオタスは一歩前に踏み出した。
「リーレン。昼間、僕に早く落ち着けって言ったよね。僕だってその気がないわけじゃないんだ。今までに縁談だってあったし」
せまい町でのことだ。誰に誰との縁談があがって、上手くいったかいかないか、情報はあっという間にまわる。ただ、セオタスの縁談が流れたのは、彼にいささか頼りない性分があるからか、単に女性との相性が良くなかったせいか、理由までは知り得なかった。
「でも、家庭を持ってここに根をおろしたら、一生……」
「まだ鳥に憧れを抱くの?」
天を仰いだセオタスが、言葉の最後まで口にしてしまったら。今の状況はまずいと思い、リーレンは鋭い声色で制した。ざわついているのは胸の内だけではない、闇の中にいくつかの気配を感じる。
「何を夢見ているんだか。あなた年上なんだから、私より長いこと、自分のあるべき世界を考えてきたんでしょう」
コンスリンクトに生まれた者は、ここで生きて死ぬ。掟が身にしみるのに、充分な時間を過ごしてきたはずだ。なのに、セオタスはリーレンと目を合わせると両肩をつかんで、きっぱりこう言い放った。
「考えたさ。考えて、考えて、どうしても嫌だった。この狭い世界が。そして思った。君となら外でも生きていけるんじゃないかって」
「え?」
リーレンは、自分に脱走の意思がないと装うために、コンスリンクトの住人としてセオタスに説教したつもりだった。意外な言葉に眉が寄る。
「リーレンこそ、空を眺めて何を夢見ていたんだ。僕と同じく、外の世界じゃないのか」
これは揺さぶりをかけるための演技だろうか。だとしたら、周囲の気配は長老を含めた大人達だ。
(少し、賭けになるけれど。ここを出るなら今が好機だわ)
「……離して。私が見ているのは現実よ」
セオタスの手を払い、数歩の距離をとる。
「あなたと一緒に山を降りるつもりはないわ。身の程は弁えている」
この際、セオタスの言う事が彼の真意か演技かはどうでもよかった。もし前者であれば、空ばかり見ていた自分に責任を感じる。せめて、彼が咎められることのないよう計らいたい。
「じゃあ、どうして何か探すような目をしてたんだ。鳥でもない、星でもない、何があるっていうんだよ」
「随分と私のこと、よく知っているわね。お目付役ごくろうさま」
「違うよ、確かに長老に頼まれはしたが……僕はリーレンのことが、昔からずっと」
「生まれたてで言葉を話した私のことが?」
これ以上、セオタスに話させるのはまずいかもしれない。リーレンはここまで言われてやっと理解した。彼は、リーレンのことを好いている。
「あなたは知っているでしょう。私が生まれた時は、もう4つになっていたはずよ。わざわざ、奇妙な生まれの女を選ぶことないじゃない」
「覚えているのか、そのことを」
セオタスは少し驚いたようだが、引き下がるつもりはなさそうだ。
「まあ、変わった子だなと思ったけど、成長すれば誰だって喋る。今になっては、奇妙なところなんてないよ」
「いいえ」
ぴしゃりと言い放ち、リーレンはまっすぐにセオタスの目を見る。
「セオタスがどう思っていようと、私には、心に決めた人がいるの。そして、やるべき事がある。だから、さようなら」
「……その、別れの言葉は、コンスリンクトに対してのものか?」
暗闇から、しわがれた声が響いた。途端にいくつもの松明に火が灯され、リーレンとセオタスを照らしていく。
「長老!」
セオタスは今の今まで周囲の気配に気付いていなかったようだ。声の主を見て冷や汗をかいている。建物の影から出てきた、長老を含む数人の大人達が二人を囲んだ。場の緊張感が高まると、リーレンの家から両親が顔を出す。
「もう隠し立てはしません。私はコンスリンクトを出て行く。今まで、お世話になりました」
リーレンは一人一人の顔を見て、最後に両親の方を向いて頭を下げた。この状況でどうやって出て行くのかと、皆が身構えている間に、掌に魔力を集中する。
この術に呪文はない。コンスリンクトの皆は、リーレンを中心に緑色を帯びた光が広がるのを見た。
(この方法なら、たぶん追手もかからない。誰も傷つけずに済むわ)
光がやむと、リーレンは静かに歩き出した。だが、町人はひとりとして動かない。眩しさから目を守ろうと、手を体の前に出したままの姿だ。セオタスだけは構えもせずに呆然としているが、長老達と同様、呼吸による肩の上下動もない。松明から煤が出る事もないし、何より炎の揺らぎがない。玄関には両親がいるので、リーレンは家の裏にまわり、開けておいた窓から部屋に入る。そして以前からまとめておいた荷物を背負って出た。