①
目覚めた時、私は人間だった。見慣れない木造の天井、心配げな表情をした人の輪、その中心で私は首を傾げた。頭が重い。
「ここはどこ?」
疑問を口にすると、人々は恐怖に表情を染めかえた。……ああ、そうだわ。私は今、赤ん坊なのだから、口がきけるのはおかしい。
納得してしばしの後、また首を傾げる。なぜ私は言葉が話せるの? 他人事のように、今の自分を「人間だ」と確信しているのは? まるで、少し前まで全く違う存在であったような感覚。一体、私はどのような状況に置かれているのだろう。
「ここは、どこなの?」
誰も疑問に答えないから、重ねて尋ねた。青ざめた人々の中から、ざわつく諸々の声に交じって「コンスリンクト」の名が聞こえる。
厄介なことになったわ。どうしてこんな所に。コンスリンクトは、山奥に住む民の町。人間の中では強い魔力を持ち、魔術を扱える者達が、その他の国々から隠れるように暮らしている。無用に干渉するものではないから、隠れる理由は謎に包まれていた。確か、神界では彼らのことを……神界? 私はそこにいた?
そうだ。私は、アイナンカルデだった。
意識がはっきりすると同時に、アイナンカルデの頭には膨大な記憶が押し寄せてきた。神界の天秤として、規律を犯した者を裁いた日々。永遠に続くと思われた日常が壊れ、自ら規律を犯した日。そして、人の身に堕ちる罰。人としての命が尽きる時に戻るはずの記憶だ。ヤヌクスが術式に巻き込まれたことと、関係があるのだろうか。
ならば、彼も神の記憶を持ったまま、人間に転生しているはずだ。人間に堕ちた者を、主神が気にするはずもない。彼を探そう。アイナンカルデがそんな希望に胸を踊らせたのは、このコンスリンクトがどのような場所か知るまでの短い間だった。
生まれた当初から蘇り始めた記憶は、膨大な情報量でもって彼女の幼少期を埋めた。リーレンと名付けられ、言葉を話す赤ん坊という気味の悪い生まれを覆うほど、無口でぼんやりした子供として過ごした。
新たな名で呼ばれることに慣れる頃には記憶の波が落ち着き、コンスリンクトはまるで「檻」だと思うようになる。魔術を使う民が山奥に隠れたのは、術を兵力として利用されることを嫌ったためだ。不純物の掃討や生活の助けに使う分にはいいが、国々が魔術師を取り合って争い、魔術を武器に戦を起こすのでは世が乱れる。だから、この地に生まれた者は唯一絶対の掟を守って生きる。
外界に出てはならない、それだけ。神であった過去、法典そのものと言われたアイナンカルデは、リーレンとなった今も、たったひとつの掟によってコンスリンクトに縛られていた。
「はあ……」
溜め息か欠伸か、吐息をもらすリーレンの手を引いて、母親は微笑む。
「リーレンはお空が好きね。いつも上を見ているわ」
「とりが、いたよ。大きくなったら、私もお空を飛べるかな?」
温かな手を握り返しながら、子供らしい言葉を選ぶ。ただ、鳥になって空を飛べたなら、という想いは本音だった。コンスリンクトに生まれた者は、この場所で生きて死ぬ。鳥に生まれ変わっていれば、ヤヌクスを探して、どこへだって行けたのに。
(あなたは、どこにいる? ヤヌクス……)
意識を空に広げ、彼の気配を探してみる。これまで幾度も試みたが、まだ見つけた事はない。
「え?」
小さな違和感が口から零れた。首を傾げる母親には、鳥を見失ったと取り繕った。
魔術師の町に生まれたからには、魔術の素養が備わっているのはわかっていた。きっと神の時分と同じように、炎や風を操れるだろう。
(でも、あの感覚は。空が重く感じる……導管知覚? そんな馬鹿な。私は人間なのに?)
魔術は魔力の高い人間には扱えるが、封印術や幻術等は神族だけのものだ。下界や神界を繋いでいる穴の状態を知る導管知覚も、人間にはないとされてきた。
(神の力が、残っている。やはり転生の術式は不完全だったんだわ)
空の重さは、上空に存在する神界の肥大化を示している。神界最高の魔力を誇ったアイナンカルデが転生し、世界を巡る養分のバランスが変わったことも一因と思われる。
ヤヌクスを見つけることは出来なかったが、日を追うごとにリーレンの中で導管知覚が確かになった。更に蘇る記憶もあった。人間の時の流れに不慣れなこともあり、あっという間に幼少期が過ぎていく。
少女と呼べる年頃になったリーレンは、大人も含めて誰より魔術に秀でていた。実際に生きた年月の大きな差のせいか、同年代の子供達からは浮いた存在だ。皆が習う護身のための棒術は下手なほうだが、それが悔しいというより、何か明確な目標に向かって真剣に取り組むから尚のこと。集まってお喋りするのが好きな少女達にとって、リーレンはただ「変わった子」だった。
「ねえ母さん。森へ散歩に行ってきてもいいかしら」
「また?」
「木に囲まれているのが好きなの。何か、ついでに用事をあずかるから。いいでしょう?」
このとき、リーレンは16歳。早い者は家庭を持ち始める年頃になっていた。ところが彼女に浮いた話はなく、森に通ってばかりいる。その理由の半分は、リーレンが生まれてすぐに言葉を話したことだ。子供達は知らなくても、親世代が覚えていた。気味の悪い赤子は、育ってみてもやはり風変わり。縁談を持つにしても、皆がリーレンを避けた。
いつか、転生したヤヌクスを見つけ出すつもりでいるリーレンにとって、そんな事はどうでもよかった。今日も無事に母親から花摘みを頼まれ、軽い足取りで森へ行く。
たったひとり、森で何をしているのかというと、実は散歩ではない。町人に隠れて、封印術の行使を試していた。この十数年の間で、神界は更に肥大し重さを増している。変わらない状況は、主神が何も手を打っていないことを示していた。気付いた者が動くしかない──封印術を、穴の調整に応用できないか試して、可能ならば実行に移す。掟を破ってでも町を出ようとする意思は、ヤヌクスに会うため、世界の安定のために強くなる。
(世界のどこかで……待っていてくれるかしら? ヤヌクス)
空を見上げるリーレンの表情はいつも、どこか後ろめたいような翳りがあった。再び大きな掟を破ること、それも私情をはさんでとなると、罪悪感がつのる。
「ヤヌクス……」
目を閉じ、愛しい名を呼ぶ。前世の終わりの燃えるような感情は、未だ冷めない。
(あなたに会いたい。でも、それだけじゃないわ。多少の距離があっても、私を共同体から追い出しはしない……コンスリンクトの皆を、守りたいのよ)
リーレンは神には祈らないが、指を組んで強く手を握る。穴の異常の解決に尽力することを、自らに約束した。
(たったの十数年で、感情移入してしまうものね)
小さく溜め息をつき、森を後にする。そんな日々の中で、リーレンの封印術は着実にかつての精度を取り戻していった。