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 よく晴れた空を久しぶりに見上げて、ヤヌクスは目を細めた。天界を隠す雲を背景に、鳶達が旋回している。重い気分とかけ離れた空模様こそ、今の自分にはぴったりのような気がした。

 彼はこれから暫くの間、神都市郊外の塔に幽閉されることになっている。時には下界へ遊びに行くような生活は、しばらくできない。

 自らの行動が招いたことだから、罰は受け入れる。退屈な日々に向かう足取りは重く、つい溜め息がこぼれた。その度に、ヤヌクスを囲んで歩く衛兵達は身を硬くする。手枷で魔力を封じられていても彼は高位神、衛兵は下級神だから、緊張するのが道理だ。普段の心持ちなら「逃げやしないよ、世話かけるね」と、笑ってひとこと言えたのだが、同じような罰を受けるであろうアイナンカルデを思うと、そんな余裕は持てなかった。

(また、会えるかな? アイナンカルデ……)

 口に出せなかった名前を心の中で呼び、一歩一歩を踏みしめる。いつも北地区でヤヌクスと戯れていた小鳥達が、次々と肩にとまってさえずり、また飛んでいく。

「ヤヌクス様、なるべく早くお帰りになってね」

「退屈なら、空を見ていてください。お歌を届けに参りますよ」

 皆が生きている間には戻れそうにない。ヤヌクスは微笑み、目線で礼を言うばかりだった。

 間もなく塔に着こうという頃、旋回していた鳶の一羽が急降下してきた。くちばしに何かくわえている。白い布のようなものの正体に気付いた瞬間、鳶からの報せを受け取りに、ヤヌクスは空へ飛び立つことにした。高く澄んだ口笛の音が響く。

 魔力封じの手枷は、神々が持つ術を使わせないためのものだったが、彼の動物と語らう能力は術ではない。口笛は大鷲を呼び寄せた。日頃、よくヤヌクスを背に乗せて飛んでいる大鷲は、何のために自分が呼ばれたか、すぐに理解した。まずは衛兵を掠めるように飛ぶ。

 広げた片翼が己の身の丈を越える鳥が突然襲ってきたのだ。衛兵は怯み、迫るくちばしに目をつむる。身構えた中で硬質な音を聞いたが、誰も武器や鎧に衝撃を感じなかった。

 くちばしが捉えたのは、ヤヌクスの左右の手を繋ぐ鎖だ。衛兵が目を開けても既に遅い。彼は大鷲の足に掴まって飛翔していた。

「すまないね」

 言葉は衛兵に向けても、心は目線の先に向いている。届け物は、鳶から受け取って握りしめた。

「間に合ってくれ……」

 他に鳥の言葉を解する者がいなかったのは偶然だろうか。空へ逃れたヤヌクスが、主神の居城へ向かって行くのを、衛兵達は成す術なく見ていた。

 ヤヌクスが郊外を歩いている頃、アイナンカルデもまた、衛兵に囲まれて歩いていた。ただし、向かう先は城であった。二人の罪は同等ではない。神界の法典にある最も重い刑罰、堕神がアイナンカルデに言い渡されていた。執行するのは主神とその妻、ネーブルサニア。

 これまで幾度も立ち会ってきた。人の身に堕ちて、短い生涯の最後に神の記憶を戻される、その瞬間の悔いが罰なのだそうだ。

 法典の文字としては知っている。だが、主神の命でフィエネがまとめた書物を、もう信じる気になれない。

(私は今、微塵も後悔などしていないもの)

 静かに歩く女神は、ただ前を見つめていた。

 城内に、頑強な扉を据えた、いくつかの「穴の間」がある。下界や天界と繋がる主要な穴は、その部屋の中にあった。比較的安定した穴を選び、そこが執行場所となる。今回選定を担ったのは、アイナンカルデの下につく準高位神のディルだ。しばらく空位を埋める彼女の、初めて代行する業務がこれでは、さすがに心苦しい。扉の外で待っていたディルを前にすると、アイナンカルデの顔は悲しげに歪んだ。

 伏せられた長い睫毛を見つめる目線は一瞬途切れ、小さく「どうして」と呟く。しかしすぐに自律神としての凛とした声色を取り戻し、穴の間の扉を開いた。

「間もなく、執行の時間です」

(私情を挟まないのがあなたらしいわね、ディル。私も今は、あなたに情を向けるのはやめましょう)

 アイナンカルデも表情を改め、目を合わせることなくディルの前を通り過ぎた。

 中では、術式の準備を整えた主神とネーブルサニアが待っていた。密会を目撃し警笛を鳴らしたシェムハンノと、ヤヌクスの尋問をしたフィエネも立ち会う。最後にディルが穴の間に入り、衛兵達が扉を閉じた。

 ここは、部屋といっても天井がなく、穴のある空間をくりぬいた中庭のような所だ。中央の抜け落ちた地面の下は空で、遠くに見える下界の景色を遮るように、穴が黒と紫の渦を巻いていた。安定した下降流に向かって、緩やかな風が吹く。

「規律神、アイナンカルデよ。お前をこの名で呼ぶのも最後となろう。罪状は、対極神との接触、及び公共の場での手袋の着用不備。そして第一規律の侵犯。刑は、堕神」

 淡々と事項を読み上げる主神の声を聞くアイナンカルデは、平常心に見えた。それが何故だか癇に障るらしく、シェムハンノの眉間に皺が寄る。

「お前は長く神界に貢献してきた。刑を執行する前に、何か望みがあれば聞いてやろう」

 主神の目配せで、ネーブルサニアは術への集中を始めている。望みを聞くとしても叶えるとは言っていないから、これは気休めだろう。思いを巡らせても虚しいだけだ。

(でも、もしかしたら)

 堕神の執行で、主神が罪人に酌量を見せるなど、初めてのことだ。期待しないように気をつけながら、望みを口に出してみようと思った。

「それなら、ひとことだけ」

 白い布の髪飾りを、枷が付いた手で外す。花弁に似た形のそれは、風にひらひらと揺れた。気流が変わる瞬間を狙って指の力を抜くと、舞い上がってどこかへ飛んだ。髪飾りが見えなくなった頃、アイナンカルデは微笑む。

「ヤヌクスに……ありがとう、と」

「バカじゃないの? 堕神の原因になったヤヌクスに礼なんか言って」

 対極神への伝言という願いを聞き、眉を吊り上げたシェムハンノが口を挟む。つかつかと歩み寄り、鋭い目で睨んだ。

「あんたなら、素直に頭を下げりゃあ、今まで通り高位神でいられるでしょ? 自分の立場を忘れてる」

「シェムハンノ……」

 静かに口を開いたアイナンカルデは、瞬間、意識を主神に向けた。それから目の前の女神と目を合わせ、たった一言、

「あなたには、分かるんじゃなくて?」

と、問いかけた。

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