④
深夜。神都市の中央、主神の城を囲む環状広場にたたずむ影があった。裸足の彼は足音もなく、もう行きつけとなった噴水のそばにいる。柳の葉がさらさらと揺れ、燃えるような赤毛も風を感じていた。
これまでも、必ず会えるわけではなかった。今日、彼女が来なかったとして、それも日常のひとつだ。ただ、すぐに来るような気がするのか、噴水まわりのベンチに座りはせず、空を見上げて立っている。
(君の天秤は、どちらに傾いているんだい?)
こつこつ、聞き慣れた足音は、いつもより小さい。彼の耳だから拾えるような微かなものだ。これには、気付かないことにしよう。
石畳を駆けていく鼠が、月光に照らされる白い肌を見たと囁いていった。心の中で問いかけた、答えがそれだと理解した。
(そうか)
一心に星を見上げるふりで立つヤヌクスの後ろに、アイナンカルデが近付いていく。思い詰めたその表情よりも、白く細い指先が月の光を集めている。神族の掟として身に着ける手袋が、なかった。
素肌のままの手を結べば、心の内が互いに流れ込むという。神族のその体質は自我の崩壊を招くと、主神によって掟が作られた。心身を守る手袋の着用。対極神の接触と並ぶ、最も重要な禁忌だ。
脱力したままのヤヌクスの手から、するりと手袋が外される。彼は、避けないことを選んだ。震える手は少し冷たく、大きな掌に正体を伝えてくる。彼女もまた、目の前にいる者の正体を知っただろう。
「やはり……君は」
その時、甲高い警笛が鳴った。同時に辺りは眩しい程に照らされ、物陰から槍を構えた者達が駆け出してくる。特殊な形状から、魔力を封じるための槍だとわかる。これほどの数で囲まれたら、いかにアイナンカルデといえども逃れるのは難しい。いや、もとより逃げる気はなかったのか、ヤヌクスと引き離されることに、抵抗もしない。
「ごめんなさい……」
拘束され、連れて行かれる二人は、姿が闇に消えるまで、互いの目を見つめていた。アイナンカルデの謝罪の言葉が、鎧の音に紛れてヤヌクスに届いたが、何を謝っているのか、彼にはわからなかった。
禁忌を犯したのは、こうして捕まるためではなかろう。アイナンカルデが法典を離れ、自らおこした行動の意味を、ヤヌクスはしばらく考えていた。
分厚い金属の手枷は、まじないを染み込ませた革の袋と一体になっている。術を得意とする神をも拘束できる道具だ。罪を裁く堅牢な石造りの部屋は薄暗く、これといって面白いものはない。だから考え事をしていたのだが、いくら唸っても答えは出ない。彼女は手袋を外し、自分が誰なのか伝えることを選んだ。自分はそれを受け入れることを選んだ。置かれた状況はその結果で、次の選択の時を待つのみだった。
(俺は、ずっと知りたかった。けど、知ってどうするかまでは考えてなかったな。興味を引くつもりでいて、俺の方が彼女に夢中みたいだ)
部屋の外に、誰かの気配がある。扉の前に控えている衛兵が礼をし、鎧の擦れる音がした。ヤヌクスを裁くためにここへ来るのは規律神ではないはずだ。主神か、あるいは他の高位神か。
「や、意外そうだね。ヤヌクス」
気軽に扉を開け、入ってきたのは文芸神フィエネだ。こんな時でも、普段どおりの楽しげな笑みを浮かべている。
「そりゃ驚くさ。フィエネは規律よりもこっちに近いからな」
黄色い手袋と、抱えられた分厚い法典をちらと見て、ヤヌクスは肩をすくめた。フィエネが治める地区は西北西だから、北に位置するヤヌクスに近く関わりも多い。
「ヴィンツェスター様は、どっちかっていうとアイナンカルデにご立腹だからね。それに、私に嘘は通用しない。下手な弁明はやめてよ」
「わかってる」
明朗な女神の術は、なるほど尋問におあつらえ向きだ。地区が対極であるとか近いとか、やはり大したことではない──ヤヌクスは心中で主神を睨む。
「確かなことはひとつ。彼女が掟を破ったのは、俺のせいだよ」
フィエネは口の端を引き上げ、法典の表紙を開いた。
また別の部屋では、アイナンカルデと主神ヴィンツェスターが顔を合わせていた。馴染みの場所で、初めて裁かれる側の椅子に座る女神の表情は静かだ。主神と目を合わせずに、机上に置かれた法典を、見るともなく見ている。
「忠告は、した。これほどの大罪を犯すとは思っていなかったぞ」
「対極神との接触及び公共の場での手袋の着用不備。高位神という立場から推し量ると、神都市外への追放か……堕神に相当するでしょうね」
自らの罪状を淡々と並べ、アイナンカルデは目線を上げた。あとひとつ、禁忌とされる行為を口にしないのは、それを罪と考えてはいないということか。もとより険しい表情の主神が、眉間の皺を深くした。
「引き離すのが遅ければ、そのように自我を保ってはいられなかったのだぞ。あれは自殺行為だ」
「いっそ、壊れてしまえばいいと思っていたわ」
アイナンカルデが目を落とす手も、分厚い手枷と革袋で拘束されている。
「もっと前に、壊れていたのかもしれないけれど」
それがいつの事を指すのか、アイナンカルデは答えなかった。一切の罪を認め、どんな罰も受け入れると言う。自らの裁きにおいても法典が絶対とする姿勢は規律神らしいが、椅子を失うのは確実だ。最後のけじめなのかもしれない。
細く長い息をつき、主神は裁きを下した。