③
神都市の中央にそびえる主神の居城には、東西南北の四方に門がある。白い石で積まれた建物が頑強だという他に、その造りは侵攻される恐れのない事を示していた。遠い昔に神界を二分した争いは終わり、主神ヴィンツェスターの統治によって世界は安定して廻っている。
南門への階段を上る途中、声をかけられてアイナンカルデは立ち止まった。
「あれっ、アイナンカルデ?」
振り向くと、濃いオレンジ色の髪や真っ赤な服が眩しい女神がいた。今日は天気がいいから、余計に色彩が目に痛い。
「フィエネ。あなた西門の方が近いでしょうに、こちらに来るなんて珍しいわね。また下界で遊んでいたの?」
「失礼しちゃうね、遊んでるわけじゃないよ〜。だいたい珍しいのはそっちでしょ、誰かと思った」
フィエネは指先で髪を弾く。アイナンカルデは「大袈裟ね」と鼻で笑いながら、さらりと髪をほどいた。普段どおり、左耳の前あたりの髪に飾りを結び直す。
「これで私らしいかしら? さあ、行きましょう」
文芸を司る女神は、変わった物事にぶつかると話の種として面白がる。アイナンカルデは早く話を切り上げたかった。それ以上何か問われることはなかったが、フィエネは意味深長に微笑んでいた。
会議を終えて自分の区画に戻る時、下界と繋がる穴がざわついた。優れた導管知覚を持つアイナンカルデは、いくつかの穴がある中庭に寄っていくことにした。「穴の間」と呼ばれるその場所は、しばしば不純物と戦う場所でもある。途中、すれ違った者から視線を感じたが、構わず歩くことにした。
「シェムハンノ、今日も怖い顔してるねえ。ご機嫌ナナメかな?」
「別に。いつもと変わらないわ」
フィエネの陽気な声とシェムハンノの不貞腐れた声が聞こえた。廊下で立ち話を始めたのだから、会議前のようにフィエネが絡んでくることもない。アイナンカルデは足早にその場から離れた。
法典に則った裁きを下し、いつもの散歩をする。時々不純物の掃討に出ることもあれば、真夜中に広場の噴水を訪れることもある。少しだけ変化した日常は淀みなく流れて行く。しかし、互いの名を伏せたまま重ねる逢瀬は、少しずつ互いの正体に迫っていた。
それまで、自由とは何かなどと考えたことはなかった。アイナンカルデの司る規律と正反対なら、自由神の治める区画は皆が勝手気ままで、無法地帯のようだと思っていた。
(彼は、ある程度の節度を持っている……けれど、それは彼が名を伏せることを選んだに過ぎない。越えると決めた一線は、躊躇なく越えるでしょうね)
規律に従うかどうかさえ、彼は選ぶ。選んだ道を歩くなら、獣に食われようが落とし穴に落ちようが受け入れる。そういう生き方が部下達に浸透しているから、ヤヌクスは高位神に位置づけられ、区画を与っているのではないか。
(真実を知った時、あなたはどうする? 私……私は……)
「どうした?」
「あ……少し、ぼうっとしていたわ。疲れているのかしら」
本当は、夜中の広場で彼に会えると、疲れは消えてなくなる。些細な嘘が積もり積もって、アイナンカルデの心を傾けていく。
(仮に名を聞いて、彼がヤヌクスであったら? 法典の通り裁きを受け、金輪際、会わない。ヤヌクスでなければ、今まで通り。それだけよ)
罪を重ねているかもしれないという分銅。知らないことを言い訳に、彼に会いたいと願う分銅。自由の定義など法典には書いていないけれど、彼は誰より自由だと思う。その性分に好感を持っていると、アイナンカルデは認めざるを得なくなった。
「今夜は雲が多いわね。そろそろ、帰りましょう」
先に名乗れば相手も名乗るだろう。事実を明らかにすればいい。そんな現実の重さでは釣り合いが取れない。心の中の天秤が狂っている。
「雨は降らないと思うけど。あまり夜更かしは良くないね、ゆっくりとおやすみ」
そっと髪に触れる手に、胸が高鳴る。手袋ごしではあっても、温かいような気がした。見つめあう一瞬で、言葉は溶けてしまった。今夜もアイナンカルデは名乗れない。
「おやすみなさい……ごきげんよう」
噴水の近くで柳がざわめき、何枚かの葉が風に飛ばされた。中には紫の煙に触れ、黒ずんで地面に落ちる葉もあった。
ある日、アイナンカルデは主神に呼び出されて登城した。穴の異常でも不純物の大量発生でもなく、ただし用件は「急ぎ」だという。
「ヴィンツェスター様。規律神アイナンカルデ、ただいま参じました」
謁見の間に入る挨拶に普段と違う緊張を読み取り、主神はわずかに眉を寄せた。軽く手を降って入り口の下級神を下がらせ、玉座に座る主神、横に控える妻のネーブルサニア、そしてアイナンカルデの3人だけが部屋に残る。
「アイナンカルデ。呼ばれた理由は──」
高い位置の窓から風が入ってこない。震える睫毛は見逃してもらえない。
「──わかっているようだな」
黙っているネーブルサニアも、哀しげな目でアイナンカルデを見る。誰の口から告げられることもなく、事実は固まった。対極にある高位神の接触は、あってはならない事態。明るみになれば主神を絶対とする神都市が揺れる。それを避けるため、主神は言葉の裏だけで、アイナンカルデに釘を刺すのだ。
「わきまえよ。これまで通り、分相応に。規律神よ、頼りにしているぞ」
(頼りに……ね。呪いのような言葉だわ)
主神に対し、今までにないような感情がこみ上げてきた。「彼」に出会って、やはりアイナンカルデは変わった。それが良い変化なのかどうかは、自らが決めようと思う。
「はい」
凛とした声色に、もはや迷いはなかった。
下城の時、門を出た下り階段にシェムハンノがいた。煙管から吸い込み吐き出される紫の煙を、アイナンカルデは風を操って受け流す。
「あんたは、相応しくない」
背中にかかる低い呟きに振り返ることなく、どんどん階段を下りていく。アイナンカルデが去った後、煙管が折れて地面に落ちた。