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「いいね、なかなか順調じゃないか」

 ガゼットがそう言ったのは、冒険者として暮らす中での些細な幸運を指してのことだった。この旅では、町や村に立ち寄れば、いつも宿を確保できている。たまたま宿が混み合う時期にぶつかると、せっかくの町を出て野宿をしなければならない、あるいは酒場でのんびり飲み明かすことになる。そんな道程が続いたら、いかに旅慣れていても疲れてしまう。

「どこが順調なの? 私が先を見越していれば、回り道せずに済んだのよ。本当に全て上手くいっていれば、今頃……目的地に着いているわ」

 震える声は、抑えきれずに零れたようだった。リーレンはガゼットの言葉を、今回の旅についてのものと思ったのだ。波瀾万丈である方が冒険として面白い、そんな気持ちがないこともないが、さすがに世界の異常を冒険のスパイスにするのは憚られる。

「自分で蒸し返すのかい? 俺は気にしてないよ」

 世界中、冒険心をくすぐる噂や場所があれば、どこへでも行ったり来たり。寄り道は大いに結構。その姿勢がリーレンには理解できないらしい。

「そんなに思い詰めるな、時間は進むばっかりなんだから」

 テタ西の山でも同じ事を言った。リーレンは己の不手際を許せず、悔いることがある。世界の危機ならば、そうやって落ち込む間も惜しいのではないか。だからガゼットは手を差し伸べる。前はこっちだと。

「当たり前よ!」

 そっと肩に置いた手は、払いのけられた。喚くリーレンは涙を流していて、しかしその目はガゼットを捉えてはいない。

(そうか、君は前を見ている。とても遠い所を。自分の歩幅も、余力も度外視だ)

 私がやらなくてはならないと、リーレンは言う。彼女の他に誰も出来ないことだからだ。持ちきれないと知りながら背負った荷物を、分けてくれればいいのだけれど、今はその気がないようだ。

「あなたがいても! 私の不安は私のものよ。あなたには分からない、分かりようが、ない……っ」

 苦しげに訴えたリーレンは、急にその場で倒れ込んでしまった。

「リーレン!」

 抱き起こすと、気を失っている。ひどく顔色が悪く、まだ涙を零していた。これ以上の負担が心にかかるのを、体が拒否したのだろう。

「どうして……こんなになるまで、言ってくれない」

 ガゼットの表情に悔しさが滲む。傍にいるのに。荷物なら、一緒に持ってやるのに。豊富な旅の経験から、彼女を導いているつもりになっていただけなのか。

「おい兄ちゃん。その子、大丈夫なのかい」

 二人の言い争いを見ていた宿泊客が、そろりと声をかけてきた。

「ああ、騒がせてすまないね。色々あって……疲れているんだよ」

 リーレンを抱えて立ち上がり、少し笑って見せる時には、ガゼットの頭の中は切り替わっていた。これからは、一人で背負わせない。


 思い返せば二十数年前、人間に生まれ変わった頃から、二人の荷は重さが違っていた。ガゼットはヤヌクスとしての記憶を持っていたが、現在の神界が確立する前のことを思い出したのは最近だ。一方リーレンは、全ての記憶と高い魔力、挙げ句には封印術まで持っていて、重くなる空を見続けてきた。

(二十年。神であった頃にも、寸時と同等とは思わなかったな。よく今まで耐えてきたね)

 リーレンを部屋のベッドに寝かせると、ガゼットは廊下に出て物思いにふけっていた。今は扉一枚の距離がほしい。彼女が目を覚ませば、物音がするか、壁の中を行き来する鼠たちが教えてくれる。

(君は、何故分かってくれないのか、とは言わないんだね。理由は明白だから。寂しいものだな)

 部屋の扉に背中を預けて、細く長い息をつく。力を持ち過ぎたゆえに、やはりリーレンは神の意識が強いような気がする。アイナンカルデが役目に疑問を持ち、揺らいできた時には、まっさらな彼女に会えると期待したものだが、転生を経ても自分の成すべき事を追いかけている。

(俺は、リーレンに会いたい)

 素の彼女を見てみたい。ガゼットが冒険者になった理由の半分だ。リーレンの新たな一面を求めている。規律神の隙間に見えた表情に、今も心惹かれていた。

(唯一まともに会えた君が、不安を分けられないと泣く姿、か。きっと、俺にどうして欲しいって話じゃないんだろう)

 溜め息が増えるばかりだ。リーレンにとって自分が必要な存在かどうか、疑問が頭を掠める。ただ、ガゼットに彼女の傍を離れる気はなかった。誰かがそこにいなくては、壊れてしまいそうで。

 部屋に戻ると、窓からの夕日に照らされたリーレンは、まだ気が付いていなかった。少し早いと思いつつも、ガゼットはふたつあるベッドの間に置かれたサイドテーブルにランプを用意した。日が落ちるとともに室内は柔らかな光に満たされる。

「ん……」

 揺らぐ火を見ながらガゼットがうつらうつらしていると、微かな声を漏らして、リーレンが気が付く。瞬間、どこにいるのか分からなくて、せわしなく瞳を動かした。

「あ……っ」

 表情を恐怖に染めて、リーレンは頭の上まで布団を被った。その音でガゼットも目が覚めた。うつ伏せで小さく身を縮めているのか、こんもりした布団が震えている。

「リーレン、どうした? 気分が悪いのか?」

 背中をさするつもりで触れると、リーレンは飛び上がるようにびくりとして、更に小さくなる。

「天井が……落ちてくる……っ、床が、崩れるっ」

 あまりに震えて言葉が不明瞭だが、ずいぶん怯えた様子だ。地震は起きていないし、そこまで古い建物にいるわけではない。

「……アイナンカルデ」

 布団に口を寄せ、ガゼットは大事にその名を呼んでみる。彼女の他、誰に聞かれることもない囁きしか、動転した心を鎮める手段が浮かばなかった。

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