③
港町に泊まった時にも見かけたが、宿には客の暇つぶしのために貸本が備えられている。リーレンは読書で気を紛らわせることにした。
(神話……ここにも全巻あるのね。コンスリンクトにもあった本だし、本当に浸透しているわ……ん、これは?)
貸本の棚には、流行を少し過ぎた小説や、古くから廃れない名作などが並んでいた。装丁がきれいな新しい本も数冊あり、中のひとつが目についた。背表紙には「裏神話」とある。著者不明としてある神話と違い、これにはきちんとエンニフ著と記されている。恐らくは人間の空想小説だが、リーレンはこれに引きつけられた。
読む本を決めると、宿の受付前のちょっとした空間で読む事にした。読書のために、1人掛けのソファがいくつか置いてあるのだ。ランプを貸してもらい、窓を正面に見るソファに腰掛ける。ここなら出入り口から離れているし、酒場と行き来する客が通ってもさほど気にならないだろう。宿泊用の部屋と違ってカーテンがないので、窓ガラスには明かりの中で本に目を落とすリーレンが映し出された。
何枚かページをめくり、一度手を止める。見開いた目は、しばらく同じ見開きの上をうろうろした。ひゅっ、と短く息を吸い込む唇は震える。それから、再び読み進めるテンポはずいぶん早く、一言一句をしかと読んでいるようには見えない。半分もいかない所で突然本を閉じると、リーレンは口元に片手をやってしばらく考え込んだ。
(どういうこと? これは、この話は)
掌は汗をかいているのに冷たい。心拍が早まって気持ちが悪かった。顔を上げると、鏡のようになった窓に引きつった顔が映っている。その向こうに、戻ってこないリーレンを探しにきたガゼットがいた。
「ここにいたのか……どうした、顔色が」
「大丈夫」
リーレンは硬い声で言って、ガゼットの横をすり抜けて受付にランプを返しに行く。
「本を、部屋でゆっくり読んでも構わないかしら」
了承を得ると、ガゼットに部屋へ戻ろうと促す。先刻の苛立ちは吹き飛んでいた。
「何があったんだ?」
部屋のテーブルについても、リーレンは混乱しているように見えた。ガゼットの問いかけはゆっくりした口調で、それだけでも少しは落ち着きを取り戻せた。
「この本……ガゼットは読んだことがある?」
「裏神話? 知らないな、元から本を読む方じゃないし」
テーブルの上の本を見て、ガゼットは小首を傾げる。著者のエンニフも記憶にない名だそうだ。彼から見て逆位置、リーレンが自分で見て正位置になる置きかたをしていることから、まだ平常心にはほど遠い事が察せられた。
「まだ読み終わってはいないけど、これ……多分、私達の話よ」
小さな声は、震えている。一瞬、ガゼットは言われた意味がわからなかった。
「対極の神が出会い、禁忌を犯す物語」
どんどんページをめくったのは、詳しく読まずとも、その物語が記憶として自分の頭にあったからだ。規律神と自由神が逢瀬を重ね、やがて互いの正体に気付いて行く。会うのはいつも広場の噴水、柳の木がある場所。人間が空想で著したにしては、事実と噛み合い過ぎた。
「もし……堕神の刑を受ける所まで同じだったら。エンニフって、誰なの」
恐る恐る、さっき閉じた先のページを開く。やはり、紙上には記憶そのものが綴られていた。禁忌を犯した対極神は、主神に刑を下される。規律神は堕神。自由神は幽閉。執行の時、自由神は規律神のもとへと飛んで行く──。
「ん、白紙?」
乱丁か、2人の神が空に投げ出された場面の次は白いページになっていた。もう一枚めくると、こんなことが書いてある。
「遠い遠い、昔のこと。禁忌を犯した愛の行方は神すらも知らない。これは、私の父が著した物語を再編したものである。原文の結末部は焼失し、しかし我が手で書き直すこともはばかられた。我が父に敬意を表し、また読む者の心を尊重し、物語はここまでとする。この本を手に取った方々に、それぞれの結末を」
あとがきのようだった。本を閉じ、二人は渋い顔をしている。表紙の著者名をまじまじと見つめ、ガゼットはだんだん前屈みになった。
「やはり、これは史実を書いたのかもな」
裏神話を手に取ると、向きを変えてリーレンから見て逆さとなるように置く。著者名を、本来の読み方と逆順で一文字ずつ指差す。
「F、I、E、N、N、E……アナグラムでもないけどさ。あいつなら、わざとやりそうだ」
「フィエネ……」
懐かしい文芸神の顔が、脳裏に浮かぶ。彼女はいつも快活に笑うが、悪戯っぽい目はいつも他人を観察していた。腹の中では何を考えているやら。
「どういうつもりなの……」
単に、面白かったから書いたのか。「父」というのが主神を指すなら、書くように指示された可能性もある。リーレンとガゼットに、何らかのメッセージを伝えようとしているのかもしれない。どれでもない、ということも有り得た。
「会って、聞いてみるのが一番いい。目的地は変わらないだろ?」
「そうね。上ったついでに、聞いてみましょう。穴のことほど、重要でなければいいわね」
神界へ。天井を見るリーレンの表情は険しい。自分達が出会った経緯が人目に晒されていると思うと不快だった。
「そんな顔しなくても大丈夫さ。誰がこれを本当の出来事だなんて思う。まったく、余計な心配を増やして憎たらしいな」
装丁を指先で叩いたガゼットは、この本を持って行ってしまおうか、などと冗談を言っている。実物を突きつけたとしても、いつも通りに笑うフィエネしか想像できなかったから、リーレンはかぶりを振る。元通りに返そうと、ガゼットから本を受け取った。そのときは、少し笑うことができた。
(ガゼットの言う通り、余計な心配だわ。今は穴のことで手一杯だし、フィエネのお遊びならば気を揉んでも無駄ね)
貸本の棚に返すことで、裏神話を心の隅に追いやろうと決めた。




