②
アイナンカルデは、他の高位神と比べて忙しい立場にあった。規律を犯す者があれば裁き、不純物の掃討に駆り出されることもある。近頃は、世界を繋ぐ穴の様子が不安定で、彼女の導管知覚も頼りにされる。それでも淡々と仕事をこなした。本当は散歩の時間が削られたりなくなったりするのは嫌なのだが、長い時を生きて来たから、忙しさは永遠でないことは知っている。これも一時のことと、割り切っていた。
ひとつ気になるのは、散歩中に出会った無礼者の笑顔が脳裏から消えないこと。夜、眠ろうとすると不意に思い出して、しばしば真夜中の環状広場に足を運んだ。柳の下のベンチで少しぼうっとするだけだが、睡眠時間を削るこの行動にどんな益があるのかと考えが至ると、心は落ち着かない。休む時に休まなければ、役目に支障が出るではないか。
「どうして……」
口をつく疑問の答えを、自分で用意出来ないから苛立つ。あれから彼には会っていないし、今後、会うことがあるかもわからない。掟の、破ってはならない理由は全て説明出来るのに、自分の行動の根源を彼の者に聞いてみたいなど、おかしなことだった。
月が雲に隠れ、アイナンカルデは眉をひそめる。上の天界と繋がる穴が、方々で蠢いていた。気が休まらないのはそのせいだと自分に言い聞かせ、寝所へと戻った。
ある晩、アイナンカルデはまた環状広場を訪れた。昼間、北方に開いた大規模な不純物排出口を感じ取り、主神に制圧を進言したのだが、部隊が発った後に神都市の中でも排出口が開いたのだ。こちらは規模こそ小さいものの、手強い不純物が溢れていた。アイナンカルデも掃討に参加し、結果執務に遅れが出た。北方の排出口が収束したのも、つい先刻だ。いつもより遅くまで気を張っていたせいか、強張った神経が眠りを妨げる。細く長い溜息をついた。
「お疲れのようだね」
突然かけられた声に驚いて、アイナンカルデはいつものベンチから立ち上がる。傍の柳の下に誰かがいた。
「あなた……以前の」
普段は誰もいない深夜、それに彼は裸足だから足音もなく、気付かぬうちに現れていたのだ。鮮やかな赤毛の男は、やはり無礼だ。
「また会えて嬉しいよ。こんな時間にどうしたんだい?」
「あなたこそ。どうやら北方に出向いていたようだけど……寄り道しないで休むのが先決ではなくて?」
アイナンカルデは、男が以前と違い剣を腰に差していることに気付いた。不純物を掃討して来たのに違いない。ベンチに再び腰を下ろすことはせず、早く話を切り上げようとした。
「ご苦労様。おやすみなさい」
今夜は袖を引かれはしなかった。ただ、歩き出した背中を声が追ってくる。
「よく、ここへ来るのかな」
真夜中に。と、口にしなかった言葉が分かって、瞬間アイナンカルデの歩みが止まる。振り向きかけて口をつぐみ、黙って去ることにした。忙しい日々を、更に非日常へ傾けてはいけないと考えたのだ。
「そうかい」
男は呟いて微笑むときびすを返し、環状広場を後にした。
赤毛の男が帰る地区は、主神の居城の真北。アイナンカルデとは正反対にあたる場所だ。広場から地区に入るとすぐ、数匹の狼が彼をとりまいた。身の回りの世話をする下級神もすぐに現れる。
「お帰りなさいませ、ヤヌクス様」
「ただいま。夜中までご苦労だね、休んでいてもよかったんだよ」
下級神に剣を預けて微笑む。剣を受け取る者もまた微笑み、自分が待ちたかっただけだと答えた。
この地区では、皆が自由に過ごしていた。それは自分勝手の蔓延でも無法地帯でもなく、己が責任のもとで行いを選択する気風だ。誰よりも自由を体現するのが赤毛の男──高位神ヤヌクスであった。
この時、彼らは気付いていたのだろうか。環状広場で会った相手が、対極神だということに。
ヤヌクスは、気まぐれに夜中の環状広場を訪れるようになった。必ず会えるわけではないが、姿を見つければアイナンカルデと話をする。生真面目で自分に厳しいにも関わらず、彼女は特に窮屈さを感じさせずに生きている。それがヤヌクスにとっては興味深く、魅力的に思えたのだ。にじみ出る「これが私だ」という確信、それが徐々にぐらついていく様子を見ると尚更気になる。
(君は誰だと尋ねるか……否か)
同じ迷いを互いに抱えているのは、ふと目が合えばわかった。
(万が一の場合、知らなかったでは済まされない。でも)
気持ちは柳の葉とともに揺れて、いつの夜も答えが出せない。
初めて会った時に名を尋ねていれば。朝、鏡の前で髪を梳かしながら反省するのが、もはや習慣のようになっている。アイナンカルデは最近多くなった溜め息を飲み込んで、普段おろしている長い後ろ髪をひとつに束ねた。少しは気分転換になる。この日は高位神が集まる会議があるから、妙なことに気を取られてぼうっとしていてはまずい。
「私は登城するわ。戻るまで、近く裁定のある案件をまとめていて」
「は、はい。かしこまりました、アイナンカルデ様」
長く執務を手伝う下級神は、珍しく髪型を変えた主に戸惑ったが、いつものように送り出した。日々の機嫌の変化さえ小さい主にも、髪型を変えたい時があると知り、ほんの少し親近感を覚えた。
そう、少しでいいから近い存在であればと思っていたために、女神の異常に気づかなかったのだ。