②
ずっとこの日を待っていた。もう、掌から想いが流れ出すことはないけれど、二人は同じ気持ちだった。
「会いたかったわ……ヤヌクス」
伝わっているとわかっていても、リーレンは言いたかった。言葉を交わせる、触れられるということが嬉しい。
「俺もだよ」
抱きしめていた腕をゆるめ、ヤヌクスは身を屈める。リーレンと目の高さを合わせると、濡れた瞳に微笑みが映った。涙を拭う指は優しいが、リーレンは心の内で首を傾げる。
(どうして呼んでくれないの? アイナンカルデ、と……)
すっと真剣な表情に改め、ヤヌクスは低く呟いた。
「俺の名はガゼット」
「え?」
「君の、新しい名を教えてくれ」
「何を言っているの、私は……」
「気をつけたほうがいい」
戸惑うリーレン目の前に人差し指を立て、ヤヌクスは──ガゼットは、短い言葉で世界の現状を示した。
「この世界には、神がいる」
神話は世界中で読まれ、人々の信仰は厚い。そんな中、自分達がかつての名で呼び交したら。異端な者として世間から疎外されるだろう。リーレンははっとした。
「そうね……私はリーレン。会えて嬉しいわ、ガゼット」
世界が終わる前に。どちらからともなく手と手をあわせ、指を絡めた。
不純物を寄せ付けないほど、再会の幸福に心が満たされていたが、日没とともに空気が冷たくなると、何やら様子が変わってくる。リーレンの意識がふとガゼットから離れ、草に隠れた穴を気にした。その雰囲気は、かつて空に暮らした時と同じだ。
「リーレン。新しく歩む道に……もう、これは必要ないかな?」
そう言ってガゼットが取り出したのは、花を模した布の髪飾りだ。アイナンカルデが付けていたものとよく似ている。記憶を頼りに作ったのか、受け取って見ると所々歪な縫い目があった。
「いいえ」
左耳の前の髪を束ね、リーレンの声は緊張を帯びる。胸の内に使命感が戻ってきていた。
「ありがとう。大切にするわ……この髪飾りは、きっと私を導いてくれる。やるべきことがあるの」
踵を返すと、草を分けて少し進む。暗くなってきた今でも、そこにある穴がはっきりと見えた。リーレンに続いてガゼットも穴と向き合う。
「あなたはどこまで覚えている? 残っているのは、高位神の記憶だけかしら」
少し目線を後ろに向けて、リーレンはガゼットに問いかけた。彼が考えている間に、封印の術式を始める。
(ここの穴は……上昇流ね。流量は絞るべき)
手を掲げ、紋様を描きながら呪文を唱える。
「右の大地に月の錘を、左の大地に太陽の錘を。並べて天地の柱となれ」
発光した紋様を、掌で穴へと押し出す。それは吸い込まれるように消えたかと思うと、角度によってガラスに似た反射を見せる膜となる。封印は成功だ。神界に昇っていく養分が減ったことを確かめ、リーレンは頷いた。
「それは封印術か? 随分、風が速く流れていたけど。君は、俺の知らない何かを知ってるんだな」
「ええ」
ガゼットに向き直るリーレンの目は、闇の中でも強い光をたたえている。
「神界が肥大しているの。空はだんだん重くなっていく……このままでは、そのうち世界が壊れてしまうわ」
封印術は本来、人間にない力。風の流れが速いと読んだガゼットにも、神の力が残っているのだろう。みなまで言わずとも、彼はある程度状況を理解した。
「転生の失敗で、記憶があるから……っていうより、力を持ったままだからか」
自分達以外にも何か思い当たるらしく、ガゼットは何度か首肯してから溜め息をついた。
「しかし、そんなに気負うことはないよ。神界の肥大は、恐らく俺達の他にも原因がある。もっと楽に生きる選択もできるよ」
優しい言葉は嬉しい。今を謳歌して過去を忘れてしまえればいいと、リーレンの気持ちは少し揺れたが。
(力を失っていれば、その選択もできたわ)
淡い夢はすぐに、重たい空に押さえつけられた。こればかりは、どんなに言葉を連ねても共有できない感覚だった。放っておけば、自分達が生きているうちに、人の世界は神界に押しつぶされる。
「私は……確かに、もう人間だわ。でも、出来るだけのことはしたいの。主神はこの二十年、私達を放っておいた。事態に気付いていないなら、なんとか報せないと」
神の使命感と人間の意思の狭間で、行く道は既に決まっていた。
「そうか、旅路を選ぶんだね」
リーレンの決意を受け、ガゼットは微笑む。
「なら俺も傍を歩こう。君に見せたいもの、世界にはたくさんあるんだ」
「ええ。一緒に行きましょう」
手を取り合い、二人の旅はここに始まった。




