①
遠い、遠い昔のこと。そんな風に書き始めるのがいいと思う。この物語が人目に触れて広まっていく間に、何百年か経つだろう。
誰が最初に気付くかしら。誰も、気付くことはないのかしら。隠れて紡ぐ真実の物語、その結末に。
0 裏神話
遠い、遠い昔のこと。揺るぎない平穏を過ごしてきた神々の世界に、不穏なざわめきが聞こえた。
主神の居城を中心として放射状に区分された都市を統べる、12人の高位神がいる。そのひとり、規律神アイナンカルデの下にある南地区での、ささいな言葉が原因だった。何と言ったのか定かではないが、下級神の誰かが自由神ヤヌクスを讃えたというのだ。ヤヌクスが統べるのは北地区。正反対に居を構えるふたりは「対極神」であり、相容れない存在だ。通常、自分がいる地区と対極の高位神に関する発言は慎むものだから、失言をした下級神が軽率だったと言うほかない。噂はすぐに南地区中に広がり、アイナンカルデに届く前に地区の空気はぴりりと張りつめていた。
当の規律神はというと、噂を耳にしても怒ったり機嫌を損ねたりすることはなく、ただ日常を過ごしていた。彼女の仕事は、肩書きの通り神界の規律を守ること。掟を破る者を裁くのは中々に忙しく、対極神には関心がない。失言をした下級神は胸を撫で下ろし、地区の緊張感も風と共に過ぎ去っていった。
「アイナンカルデ様は、ご自身が法典そのもののようだ」
自分にも他人にも厳しく、いかなる罪も情状酌量せず裁く。だから彼女は度々そんな形容をされた。神の鑑と尊敬する者もあれば、心の内で無感情な彼女を皮肉る者もいた。
彼女には日課があった。規律神としての執務から離れる散歩だ。決まった時間に決まったコースを歩く、他者から見れば息抜きと思えないことでも、彼女が心休まる大事な時間だった。そのため、散歩が予定通りにできないことを何より嫌う。アイナンカルデにも、感情はあるのだ。
(いつも、つまんない顔。あいつ今まで生きてきて、笑ったことあるのかしら?)
主神の居城を囲む環状広場で、散歩中のアイナンカルデを見かけたシェムハンノは紫の煙を吐いた。右に寄せて束ねた、濃い赤色の髪が白い肌に浮き立って見える。鋭い目つきのせいか、広場にいる者達は彼女を少し避けて歩く。それを気にする風もなく煙管をくわえ、もうひとつ煙を吐くとアイナンカルデを視界から追い出して、城に向かった。
浮遊する島が神々の大地であり、すれ違う雲もあれば更に上空にあり続ける雲もある。広場に点在する噴水に作り付けのベンチで、一心に空を見上げるアイナンカルデは、自身を通り過ぎた目線を、努めて意識から追い出していた。ここは、円形に石を組んだ池が背もたれとなり、中央から垂直に吹き上がって水面を叩く噴水の振動が心地よい。加えて、疲れた時には寄りかかれる小壁が等間隔にあった。真上から見たら、太陽を図案化したような形だろう。近くに柳が植わっているし、誰かに見つかることは少ない場所だ。
(目立たぬよう、魔力も隠しているのに……シェムハンノは、随分と私が気に食わないのね。もっとも、嫌われる理由は山ほどあるけれど)
シェムハンノの父は高位神、母親は主張を司る中堅神であったが、遠い昔に神都市から追放した。罪状は主神への謀反で、寿命の短い人間への転生という刑罰の、最初の受刑者だ。彼らは確かに主神への反感を持ち、都市から姿を消すそのときまで、憎悪の火を消す事はなかった。アイナンカルデは法典に則って裁きを下し、憎しみを司る高位神の座は現在も空席である。
(世襲したのが中堅神の立場だからか……両親の追放に納得がいかないのか……いずれにせよ、私を睨んでも仕方のない事だわ)
些細な逆恨みを気に留めていては、規律神の仕事に支障が出る。悠久の時の中で、一種の鈍感さがアイナンカルデの中に培われていた。
心に、心を動かされてはならない。そんな仕事に徹している時ならば、彼の声も耳に入らなかったはずだ。息を抜く散歩の間に出会ったのは、偶然であったのだろうか。
「やあ、今日は天気がいいね。隣、いいかな?」
ベンチの前に現れた男は、微笑みと共に尋ねた瞬間にはもう座っていた。青空と対比すると目に痛いような赤毛は、強烈に印象に残る。
「プライベートな息抜きよ、長居はしないわ。木陰に用があるならどうぞ」
男の魔力は飛び抜けて高くはない。目の前にいるのがアイナンカルデと知らずに声をかけたのだろう。名を聞かれたり立場を明かしたりして面倒を起こすよりは、この場を去るのが得策だ。
「ごきげんよう」
腰を上げようとしたアイナンカルデは、しかし途中で動きを止める。手袋に包まれた男の指先が、彼女の袖をつまんでいた。
「木陰よりは、君と親しくなりたいな」
振り払うのは簡単なはずだった。なぜそうしなかったのか、何度思い返してもアイナンカルデにはわからない。
しばし無言で男の目を見ていると、やがて手は離れた。
「怒った?」
「いいえ」
少し苛立っただけ。胸に留めた言葉は、口元が緩んだと同時に消えていった。男の屈託ない笑い方は、アイナンカルデが久しく見ていない種類の表情で新鮮だ。法に則って裁きを下す彼女の前では、大抵の者がぎこちない様子でいるのだ。
ベンチに座り直して話したのは、他愛のないことだったと思う。広場に咲いた花のこと、最近の天候のこと……俄に雲行きが怪しくなり、どちらからともなく別れを告げるまで、アイナンカルデは普段の散歩より長い時間を使ったことに気付かなかった。
足早に執務室へ戻ると、世話役に付く下級神がアイナンカルデを探しに行くか行くまいか逡巡していた。主の帰りにほっとしたようだが、心配げに眉が寄っている。
「どこか、お加減が悪いのですか?」
「いいえ、雨が降る前に戻れてよかったわ。……あなたこそ、顔色が優れないようね。何か大きな案件でも入った?」
普段の規律神らしい言葉で、世話役の表情は穏やかになる。その日にするべきこともきちんと片付き、日没頃には机を整頓できた。
ただ、執務室を後にし、自室への廊下を歩く間のアイナンカルデは少々不機嫌な様子でいた。
(早く散歩を切り上げるのなら、まだいいわ。長引かせるなど……大したことを話したわけではない、有益な時間だったとは思えない。彼との会話に何を見いだせて?)
おまけに、名乗りもしない無礼者に「また会えるかな」と聞かれた時には、「縁があれば」と答えていた。今日は妙な日だったと思い返しているのに、彼の笑みがはっきりと脳裏に刻まれている。
「……きっと、あまりに印象が強かったのよ」
長い瞬きと小声で残像を振り払おうとする。これまでもこれからも、日常の些細な歪みに気を取られる暇などない。