タイムリミットのあと
「はっ、はっ……!」
夜光――悠星の担当マネージャーである「小早川桂香」が、切羽詰まった様子でアパートの階段を駆け上がっていた。
息を切らせた余裕のないその表情は、疲労というよりも逼迫した現状たもたらす精神的な余裕のなさが原因だった。
WTuber夜光が突如不具合でダイブアウトできなくなってしまったことを知った桂香は、緊急要請を出すと同時に冒険者ギルドを出て、悠星のアパートへと直行し、その部屋へと向かっていたのだ。
WTuberが異世界に滞在できるのは六時間。それを過ぎれば悠星はその意識を回帰させることができずに命を落としてしまう。
その無事を願いながら部屋へと向かう桂香の表情は青褪めていた。
「夜光さん!」
エレベーターを使う時間すら惜しんで悠星の部屋へとたどり着いた桂香は、息を切らせながら扉を叩くようにノックする。
このまま返事がなければ――そんな不安に駆られる桂香には、ほんのわずかな時間が何分にも何十分にも感じられた。
ノックから十秒ほど、青い顔をした桂香が管理人に連絡し、合鍵で開けなければいけないかと考え始めたその時、目の前にある扉がゆっくりと開く。
「ん……あ、お疲れ様です」
「ふぅ……」
扉の中に見える悠星の顔を見た桂香は、深く安堵の息を吐くと、心底安心した様子でその場にへたり込む。
「ご心配をおかけしてすみません。何とか大丈夫です」
そんな桂香の様子を見た悠星は、心配させたことへの謝罪と感謝の言葉を述べ、手を差し伸べるのだった。
「――彼、大丈夫だったでしょうか」
そして、異世界で悠星こと夜光が遭遇した怪物は、二時間近くにもわたる激戦の末、エルフの女性が放った光の矢に貫かれて絶命した。
その身体が崩れ落ち、溢れ出した闇色の力がまるで天に還るように空に昇っていく様子を見ながら、太刀を収めるスティーリアは、夜光の事を思い返して小さく呟くのだった。
※※※
『お兄ちゃん、今日の配信はヤバかったね。さすがに死んだら笑えないよ』
「分かってるよ。心配かけて悪かった」
配信が終わり、現実世界に戻ってから十分ほどした頃、悠星は妹の莉月と電話で話していた。
スマホ越しに聞こえてくる妹の小憎たらしくも愛らしい声に、不覚にも地球に帰ってくることができたことを実感する悠星は、いつになく殊勝な対応を自然と取っていた。
『とりあえず生きてるのは確かめられたからいいよ』
そんな兄の心境を察したのか、いつもは皮肉めいたことを言う莉月もそれについて言及することはなく、感情の読めない淡泊な声を返してくる。
『で、これからも配信は続けるの? それとも、WTuber辞めようとか思ってる?』
喧嘩した時とは違う、今までなかったぎこちない兄妹の会話の時間に耐え兼ねたのか、莉月は少々冗談めかした揶揄うような口調で――しかし、真剣に悠星の意思を尋ねてくる。
あと一瞬違っていれば地球に帰ってくることができなかった今回の一件は、悠星にとっては九死に一生を得た臨死体験にも等しい。
それは人の心を折るには十分なショックをもたらすことは想像に難くなく、また家族である莉月や両親がこの心配するのも当然のことだ。
否、もしかしたら両親はWTuberを辞めてほしいとすら思っているかもしれない。――そんなことをうっすらと察しながらも、悠星はしばしの沈黙の後に口を開く。
「……いや。もう少しやってみるよ。ま、冒険者ギルドの担当の人がDDを検査のために持ってったから、しばらくは休みだけどな」
『へぇ、意外とノリノリじゃない? もしかして、WTuberにハマってきちゃった?』
WTuberを続けるという悠星の答えを聞いた莉月は、意外とも安堵しているとも取れる軽い口調で言う。
「そうかもな……ただ、今回の事でもう嫌だっていう気持ちにはなってないんだ」
そんな莉月の言葉に、悠星は自分に自分の気持ちを問いかけながら答える。
あと一瞬遅ければ死んでいた。――それは分かっている。実際、ダイブアウトができないと知った時は心臓が凍ってしまったような恐怖を覚えた。
しかし、自分でも不思議なことではあるが、悠星は今、WTuberを辞めたいと思うほどの恐怖やトラウマのようなものを一切感じていなかった。
そんな悠星の脳裏にあったのは、ストラーダの「自分達は人気が出ずに仕事をしながら細々と活動している」という言葉だった。
一方で華やかな光を浴びているスティーリア達LIVEALIVEをはじめとするトップWTuber達。
笑ってはいたが、人気が出ずに埋もれてしまった者達の物憂げな様子を見た悠星は、自分がWTuberとして生きていくことを諦めるにはまだ早いという思いが前に出て、不思議と辞めたいという気持ちにはなれなかった。
「そっか。じゃあ、お兄ちゃんもWTuberとしての目標を決めた方がいいかもね」
「目標?」
莉月からの言葉に、悠星が怪訝な声を発する。
『そう。お兄ちゃんって私の付き添いでなし崩し的にWTuberになったから、志が低いと思うんだよね。だから、なにか目標があった方がやる気出るんじゃないかなって。登録者数世界一とか、最強のWTuberになるとか』
「……いや。あんま興味ないな。今のところは、WTuberでそれなりに食べていけるくらい稼げるようになれたらいいなってくらいだな」
莉月からの提案を受けた悠星は、その内容に一瞬思案を巡らせて応える。
『夢も向上心もないなぁ。じゃあ、恋人を作るとか……あ、ごめん。絶対無理だ』
「おい」
それを聞いた莉月の容赦ない言葉に突っ込みを入れた悠星は、その思考の端で自身のWTuberとしての目標について考える
(目標か……最強とはいかなくても、せめてあのくらいできるようになりたいな)
その時悠星の脳裏にあったのは、先日怪物と戦っていたスティーリア達の姿。そしてその強さへの羨望と憧憬、渇望ともいえる衝動だった。
『お兄ちゃん?』
「あ、悪い。何でもない。父さんと母さんによろしく言っておいてくれ」
その時莉月の声で我に返った悠星は、そう言って話を終えると、心身を休めるために早々に眠りにつくのだった。
※※※
悠星が妹莉月とそんな会話を交わした夜――ダイブアウトできなくなったというDDを調査のために冒険者ギルドへと持ち帰った桂香は、自分のデスクで作業をしながら思わず手を止める。
「これは――……」
画面からの光を軽減する眼鏡の奥で目を瞠った桂香は、冒険者ギルドのデータに残されていた画像に言葉を失っていた。
そこに映し出されているのは、悠星こと夜光がエルフの矢によって貫かれ、魔動体を破壊されたことで強制的にダイブアウトした瞬間だった。
夜光に光の矢の鏃の切っ先が命中したその瞬間、カウンターの時間が六時間ジャストを示している。その瞬間で画面を止めた桂香は、それが意味するところを理解して思わず息を呑む。
「魔動体が破壊される前に、異世界での滞在時間が過ぎている……つまり、彼は――」
そこに映し出されている信じ難い――あり得てはならないものを見た桂香は、自然と零れた言葉を意図的に呑み込んだ。