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1-1.三輪山



 感じたのは静寂だった。


 いや、決して何も音がしないというわけではない。神奈備山(かんなびやま)である三輪山も他の山々の例に漏れず、木々のざわめきや小川のせせらぎが辺りに満ち、自然が己の存在を確かに主張していた。


 だが、他とは明らかに異なっていた。以前、宮崎県と熊本県の県境に位置する高千穂の天安河原(あまのやすかわら)を訪れたときと同じような、ピンと張り詰めた空気が肌を突き、天野(あまの)(はやて)は身を正して気を引き締めた。


 しかし、それも最初だけ。入山受付の巫女に参拝料を支払って受け取った、胡桃(くるみ)大の鈴の付いた白の(たすき)が汗でべたべたに濡れる頃には、体育の授業で1500メートルを走り終えた直後のような疲労を感じ、どこか開けた場所で大の字に寝そべりたい衝動に駆られていた。


 太陽が燦々と輝く夏のある日、颯は奈良県の北部に鎮座する三輪山を登っていた。生い茂る木々の隙間から眩しい日の光が容赦なく照りつけ、颯の青白い肌を焼く。


 颯は肩で息をしながら、前方を元気良く歩む少女に目をやった。視線を感じたのか、少女が後ろを振り返り、大きく手を振った。


「兄さん、遅―い。早く早くー」


 颯は爛々と輝く少女の笑顔を見上げる。くりっとした大きな瞳がとても眩しかった。


「もう無理。少し休ませて……」


 既に1000メートルほどの山道を登っただろうか。全身疲労で立っているのがやっとの颯に対して、普段からテニス部の一員として炎天下で動き回っている真菜は元気だった。


「もう。そんなだから、昔からもやしっ子って言われるんだよ」


 つい先ほどまで5メートル先にいた真菜が、いつの間にか颯の元に駆け下りてきていた。


「……仕方ないだろ。書道部の体力を甘く見るなよ。だいたい、こんな山登りだなんて聞いてないぞ。真菜、神社としか言ってなかったろう。騙したな」


 颯は恨みがましい視線を一つ年下の妹に突きつける。


「騙してないよー。山自体が神様なんだから、ここも神社の一部だよ」


 あははと明るい笑い声を上げながら、真菜がおどけて言った。


 出雲神の大物主神(おおものぬしのかみ)が祀られている三輪山の麓にある大神(おおみわ)神社は、かなりの歴史を持つ古い神社で、その摂社の一つである狭井(さい)神社に三輪山への登山口がある。大神神社には本殿がなく、三輪山自体を祀っている。


 三輪山は明治時代に入るまで禁足地とされ、限られた人のみが入山を許された。現代では一人三百円の参拝料を支払えば、三時間限定で誰でも入ることができる。もちろん完全に無礼講というわけではなく、飲食禁止だったり、撮影禁止だったり、山内のものを持ち帰ってはならなかったりと、いくつかの制約が存在する。


「いや、確かに話を聞く限りはそうなんだろうけどさぁ……。さすがに神社で山登りをさせられるとは思わなかった」

「もう。ぐちぐち言わないの。愚痴っぽい男はもてないよー。せっかく私に似たかわいい顔してるんだから、もったいないよ」


 木々の落とす陰を探し、火照った肌を冷ます。深呼吸を繰り返すと、澄んだ空気が体の中を巡り、疲労感が僅かに和らいだような気がした。


「誰に似てるって? というか、余計なお世話だ」

「あ、ちょっと元気になったね」


 向日葵のような笑顔の真菜が、肩まで伸びた髪を微風になびかせていた。颯は真菜の冗談に突っ込むくらいの余裕が生まれたことに驚きながらも、それでもまだ足は前に進まない。


「兄さん、体力なさすぎ。やっぱり高校生は運動部だよ。県大会目指して熱い青春を送らないと」

「書道部を舐めるなよ。一呼吸に全てを賭けるところなんて、武道の裂帛の気合にも通じるところがあるんだ」


 兄の貫禄を見せつけるかのように胸を張った颯を、真菜が胡散臭気に見上げた。


「兄さん、武道なんてやったことあったっけ?」

「あるぞ。剣道と柔道」

「へぇ……。いつどこで?」

「……中高の体育で少々」


 颯の答えに、真菜は盛大に溜息をついた。真菜のじと目が痛々しかった。




 あれから更に30分ほど歩いただろうか。松や杉、檜といった木々が生い茂り、ひょっこり蛇でも姿を現しそうな濃い緑の中を登っていく。


 辛うじて岩や木によって作られた階段状の道が存在するが、先日の雨を受けてぬかるんでいる土は、体力の消耗に拍車をかけた。三輪山の標高がだいたい450メートルそこそこだというから、雄に3000メートルを超す富士山に登ろうと思い立つ人々が信じられない。


 その間、磐座(いわくら)と呼ばれる、白い四角い紙の連なった紐で(くく)られた大きな岩がいくつか存在し、真菜が熱っぽい視線で見つめていたが、颯にはそれがどんなにありがたいものなのか理解できなかった。


 どんなに偉い神様が宿っていようと、所詮、岩は岩。それよりも、途中で見かけた滝に惹かれた。修験者が修行に使うのか、小ぢんまりとした木製の小屋の先で、小さな池に水しぶきを上げて落ちる滝がマイナスイオンを多分に含んだ空気をお供に、さわやかな水音を辺りに響かせていた。


 もちろん、ここぞとばかりに休憩を申し出たが、一蹴された。さっき休んだばかりだと言う真菜の整った顔が、どこぞのホラー映画に出てくる悪霊のように感じられた。


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