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#98 サフィール 呼び声

本日2度めの更新です。

「……ール! サフィール! サフィールっ! しっかりしろ!」


 胸に強い圧迫感があった。咳き込み、ようやく意識が追いついてくる。目の焦点が定まらず状況が理解できなかったので、何度か瞬きした。


 まず目に入ったのは、泣いているハイリーの顔。その背後に満天の星。

 泣いている、と思ったけれど、ハイリーの頬と顎を伝っている水滴は、ただの水かもしれない。彼女は全身びしょびしょだ。少し腕を動かしてみて私自身も同じようにずぶ濡れだと気づく。

 背中が痛いのは、ここが岩場だからか。

 そこまで順番に確認して、海際の岩場で仰向けに転がっているのだと理解した。ハイリーが馬乗りになって、両の手で私の胸を圧迫している。


 私がなにか言うより早く、ハイリーがくしゃりと顔を歪めて、胸に飛び込んできた。背中に岩の尖った部分が強くあたってつい顔をしかめる。しかしその痛みで、これは現実なのだと納得した。


「なんで、なんで足元に気をつけろといったそばから水に落ちるの、君は。落ちたら浮かんでこないし、海まであっさり流されるし、引っ張り上げたら動かないしっ!」


 私の胸に額を擦り付けながら、胸ぐらを締め上げるという器用なことをするハイリーは、涙声だった。そこから伝わってくるぬくもりも、彼女がまたいでいる腰のあたりにかかる重みも、これが夢じゃないと語っている。


 本当に、ハイリーだ。生きている。


 かあっと体が熱くなって、いてもたってもいられなくなり、私は全力で彼女を抱きしめた。


 ハイリーが腕を突っ張り、私から身を離そうとした。


 離したくなくて、私はそんな彼女の腕を掴んで、上半身を起こす。


 もっと、命あふれる新緑の目を見せてほしい。

 星明かりで青白く輝いている肌に触れさせて。

 このまま抱きしめて命の質量を感じることを許してくれないか。


「ハイリー……! よかった、無事で」

「それはこっちのセリフだ」


 顔を覗き込めば、ハイリーはいぶかしげに私を見返してくる。そんなわずかな表情の変化ひとつひとつが、彼女の生きている証なのだ。湧き上がる喜びが、涙になってこぼれそうになる。


「サフィール、大丈夫か? やっぱり具合が悪いんだろう、頭を思い切りぶつけたようなんだ、ほら、こここぶになっている」

「いたっ」


 後頭部に触れられると、ずきんと強い痛みが走った。これは、しばらく仰向けでは寝られない。


「他にはどこが痛い? 苦しい? すぐに医者を呼びにいくからここにいて」


 慌てた様子で立ち上がろうとするハイリーの右手首を掴んだ。その瞬間はひんやりしていた皮膚から、徐々に温かみが伝わってくる。


「サフィール?」

「最高の気分なんだ。意気地がなくて、記憶を消去できず隠蔽したあの日の自分を褒めてあげたいよ。まさかまた生きてあなたに会えるなんて……国を出てから、こんなに嬉しかったことはない」


 声が震えてしまう。

 不気味なものを見るような、不安そうな顔をしているハイリーにどう説明したらいいだろう。外からの衝撃で隠蔽した記憶が解けたのだろうか。それとも、さきほどの洞窟に満ちていた魔力の影響で封印が緩んでいたのか? 興味深くはあるが、それよりも、目の前で困惑しているハイリーをどうにかするほうが優先である。


 もどかしくなって、私は掴んでいた彼女の手を引き寄せ、その甲に口付けた。ちょっと塩気がある。でも温かい。


「ねえハイリー、僕が思い出したハイリー・ユーバシャールの話を聞いてくれる? ちゃんと思い出したいんだ。もし記憶違いがあったら教えてほしい」


 ハイリーが、目を眇める。見定めるように。


「……アンデル?」

「はい」

「本当に……アンデル? 私のことを思い出したというのか?」

「あなたは、ハイリー。僕とクラウシフの幼馴染で、イェシュカの親友。


 よく僕に、楽しい冒険譚を聞かせてくれたでしょう。あれが僕は大好きだった。鈍くさくてとても旅なんかできやしないのに、ずっと憧れていたんだよ。


 あなたの最後の新月祭では、襟の高い白のドレスを着ていた。長手袋をしていて。ちゃんと踊れもしない僕に付き合って、ダンスをしてくれたよね。ああ、思い出した。あのときのガチョウの羽根、まだとってあるんだ。青いリボンも。


 いつかの城のパーティーに、あなたは騎士服で来ていた。上着の裾が尖っていて、百合みたいだった。あのときも、踊ってくれてありがとう。ヨルク・メイズにからかわれても、僕のことをナイトなんだって言ってくれて嬉しかった」


 鮮明に、そのときの空気の温度や匂いまで、今なら思い出せる。はじめてリードしてダンスしたときの、背中に羽が生えて飛び立てそうな高揚感や、戦地からも送ってくれた手紙を受け取ったときの嬉しさ。悲しいことがあるたびに、彼女は優しく力強く寄り添ってくれた。そんな彼女を守って安堵させる存在になりたいといつだって願っていた。


「……なのに、僕はあなたのことを守れなかった。それどころかあんな、……いっぱい傷つけて。僕はナイトにはなれなかった」


 ハイリーの二の腕に手を滑らせ、肘を撫でる。彼女はこの先を戦場に置いてきてしまった。幼いころから何度も私を抱きしめ、慰めて励まして楽しませてくれた彼女の腕。

 どれほど痛かっただろう。許されるなら抱きしめて、それを慰めたかった。だが、彼女のことを守れなかった私に、その資格はない。


 手を引き戻そうとしたら、ハイリーの体がぐらりと傾いでぶつかってきた。抱きとめる。

 長く湿った息が、耳元で吐き出される。冷えた夜の潮風に混じって生暖かいそれは、私の背筋をぞくぞくと震わせる。無抵抗だったハイリーの体に力が入って、ぐっと抱き返された。彼女の力強さに、もういい年なのに子供のように安堵してしまう。


「守られたよ、アンデル。もうずっとまえから、君は私のナイトだよ」


 ハイリーが私の名前を呼んでくれた。涙声で、嬉しそうに。おかえり、と言って。


 

 少しだけ休んだあと、我々は縄梯子を登った。静かな興奮と安堵で、降りよりもなぜか体は楽だった。

 ハイリーは私を背中に担ぐなんて言い出したが、そこは意地と安全面から、断った。いくら本調子ではないからといって、もう幼い子供でもないのに背負われたくない。そうなったら自尊心が崩壊してまた記憶を隠蔽したくなる。


「うーん、体がべたべたする。気持ち悪い」

「海水を浴びてしまったから。お湯を沸かして、体を洗おう。水を井戸で汲んで運ぶから、あなたは先に家に入っていて」


 井戸に向かおうとした私の隣にハイリーが並ぶ。


「この気温だから風邪なんか引かない。井戸水でざっと体を流してしまおう。そのほうが早い」


 それだって、体を拭くものが必要だろう。しかし、張り付くシャツは不快だし、ついでに、飲み水も汲んでいってしまえば夕食の用意の手数も減る。

 横着なことを思いついて、ハイリーと一緒に、井戸へ到着した。タイルを敷いた水場は土で汚れていたが、体を流し終えるころにはきれいになるか。


「うわっ! 冷たい!」


 ハイリーが、桶に水を汲み、勢いよく頭からそれを被って悲鳴をあげた。


「手で先に温度を確認しよう、ハイリー。心臓が止まってしまうよ」

「どうせ被るんだから確認したところで一緒でしょう」


 彼女は震えながらもう一杯水を被る。三杯目の水をかけてくれといわれ、手伝ってあげると、ハイリーは自分の髪の毛をがしゃがしゃと洗った。せっかくなのでもう一杯頼むとまで言われる。

 念入りに髪の毛を洗うのはいいが、義手のギミック部分に髪の毛が引っかかって痛そうにしていたので、次は私が髪の毛を梳いてあげた。ワンピースの襟ぐりから覗く、星あかりで薄く光っている肌に、髪の毛の網目模様ができる。私の手の動きでそれは形を変える。もっと水がぬるければ、もうちょっとそれで遊んでいたい気分だった。指先がかじかむほど冷たいので、次の機会にとっておこう。せめて日中、もっと暑い時間に。


「さあ次は君の番だよ」


 ……やっぱりお湯を沸かした方がよかったんじゃないだろうか。今になって怖気づいた私だが、桶を持ったハイリーに待ってという機会を与えてもらえなかった。


「っうわ! つめ……っ!」


 肌をさす冷たさに震え上がる。身を屈めた私にも、冷水は容赦なく降りかかる。第三波まで、体勢を整える前に降ってきた。


「ちょ、ちょっとまって、ハイリー! 冷たい!」

「ほらあと一杯!」


 やめるどころか、彼女は私の体から水が落ちきる前に、また桶に水を汲み始めた。さすがに第四波をまともに受ける気にならず、敵前逃亡した。つまり、走って逃げた。


 子どもたちと遊んでいるときの彼女の笑い声が追いかけてきて、捕まらないように必死に家にかけこんだのに、玄関に入ったところで体当りされて、二人揃ってタイルの床にひっくり返った。鈍い反射神経でもなんとか、ハイリーの体を抱きとめることに成功した。肘は強打したが、頭は無事だ。


「もう……危ないよ」


 床に頭を打ち付けて死んだら、いくらなんだってひどい。そうたしなめたかったのだが、身を起こした彼女の顔を見て、私はその先の言葉を忘れてしまった。


「泣いているの、ハイリー」

「うん」


 ハイリーが髪をかきあげる。濡れて、額や頬に幾筋か張り付いている赤い髪。この暗がり、星あかりが頼りな玄関では、黒い筋にしか見えない。下をむいた彼女の頬からぽたぽたこぼれ落ちているのが、ただの井戸水ではなくて涙だと思ったのに、根拠はなかった。


 ハイリーの顔が接近した。のしかかられていたから、逃げようがなかった。おそらくは、逃げられてもその場に留まったはず。


 柔らかなものが唇に触れた。

 指先よりもっと柔らかいもの。ふわっと頬にあたたかな風がかかって、うっすら目を開く。もっと明るければ、よく見えたのに。


「もう一度しても?」


 返事も待たずに、目を伏せたハイリーに唇を塞がれた。彼女の唇で。まつげが当たりそうで、自分でもぎゅっと目を閉じた。


 襟を掴まれた私は、タイルに左手を突いて上半身を起こした不安定な体勢でそれを受け入れていた。

 私は身を起こして、ハイリーの背中に手をまわした。


 過去の記憶の彼女と今の彼女の比較と融合をしたくて、死んでしまったと思っていた彼女がたしかにここにいることを確かめたい。三年という期間、なにも言わずにそばに居てくれた彼女に抱いてきた、後ろめたくも捨てがたい恋情を満たしたい。

 だが、私の頬に触れるハイリーの手を、そっと押し止める。最後に残った責任感が、そうさせた。


「だめだよ、……これ以上は」


 これ以上触れられたら、どうしようもなくなってしまう。もしかしたらもうなっているかもしれない。


「待てないよ。アンデル、私はもう待てない。三年も待ったんだから。……ううん、三年じゃきかない。とても長い間、待っていた。

 それとも、今になって責任がとれないとでもいうの?」

「そうじゃなくて、順番というものが」


 ハイリーから私に触れてくれた。許されたような気になってしまう。あの、シェンケル家でのだまし討ちのことを、きちんと謝らなければと思うのに、流されてしまいそうになる。


 だがあのとき、クラウシフの呪縛で、ハイリーの心を踏みにじってしまった。彼女の被った痛手は、私のなにをもっても償いきれないし、今の私にはそもそも金も身分も過去の功績もない。責任をとる能力がない。そして、だから責任をとれない、とりたくないのかというとまた違う。それを忘れてはいけないから。


 複雑で卑屈な言い訳が口を突いて出そうになった。ところが、顔を上げてみたら、ハイリーはいたずらっぽく片方の頬で笑っていたのだ。


「……ハイリーはひどい。僕の気持ちをわかっていてからかう」

「ふふふ、ごめんね。意地悪してしまった。

 だって君ときたら、三年もそばにいるのにちっとも振り向いてくれないんだもの。他にいい相手がいるのかとか、私みたいな年増じゃだめか甥っ子たちの母親代わりがいいところか、とくよくよ悩んでいたんだよ。意趣返ししたくもなるよ。

 だいたい、あんな思わせぶりな口説き文句の入った手紙を何通も送っておいて、別の人と婚約したりとか、私のことをすっかり忘れてしまうとか。君のほうがよっぽどひどいよ」


 黙るしかない私の唇に、彼女はまたキスをくれた。 


「……あのね、責めてるわけじゃない。

 君が私のナイトなんだって言ってくれたのを信じて、怪我も辛いことも乗り越えてここに来たんだよ。君のことが、好きだから」


 今までずっと望んできた言葉だ。子供の頃から。絶対に与えられないだろうと半ば諦めつつも、希望を捨てきれなかった。


「でも僕は」

「『でも』とか『だめ』とかそういうのはもう聞き飽きたよアンデル。私は誰にも守ってもらう必要なんかない。……肉体面では。望んでもいない。大抵の男には腕っぷしで負けるつもりはないしね。

 それでもひとりで立っていられないときに、君と君の言葉に何度も支えられたんだ。君に自覚はなくとも、君が望む方法ではなくても。

 君は私の、唯一のナイトだ。君が名乗り出て、私もそれを望んだ。


 それとも、私にくれたすべての言葉は、ただのお世辞だった?」


「そんなわけない!」

 

 泣きたくなって、さすがにそんなみっともないところを見せたくないと顔を背けた。ハイリーが、すりと頬を擦り寄せてくる。我慢できなくて、彼女の背中を抱きしめた。二人の間の濡れた服が冷たくて、すぐにでも取り払いたい。


 思い返せばハイリーはこれまでも様々な方法で好意を示してくれたと思う。態度で、仕草で。負い目から私は自信を持てずにそれを信じられなかった。だからその「好き」という飾らない言葉が一番効いた。


「本当は過去のことなんかどうでもいいんだ。クラウシフにされたこともね。

 でもね、君が傷ついているならどうにかしたい。その記憶を払拭してほしい。

 だから抱いて。今」


 ハイリーは、直截な言い方をしておいて、目を合わせると怯んだようにうつむいた。ぼそぼそと言い訳のように続けた。


「もちろん、君が嫌じゃなければだけれど」


 胸に渦巻く激情に任せて、私はハイリーの唇を自分から奪った。

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