#97 アンデル 弟たち
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精算のときが来た。
借りたものを返し、貸したものを返してもらう。
果たしていなかった義務は今、果たさなければ。
私も、ヨルク・メイズも。
ころりと床に転がした石は、かんと高く澄んだ音をたて、割れた。泡立つようにぼこぼこと黒い煙が噴出し、中から威容の魔族が現れる。
青い肌の、美丈夫。偉丈夫。かつてこの国を拓いた英雄の一人、テリウス・ユーバシャール。
絨毯のうえに、巨躯を完璧に制御し、ネコのように静かに降り立った男は、立ち上がり室内をくるりと見回した。
不思議な響きのある声で、彼は問う。
「アンデル・シェンケル、ここはどこだ」
「ここは城です。城の、ヨルク・メイズの執務室です。こちらがヨルク・メイズ。そして弟君のレクト・メイズ」
私が紹介しても、テリウスは臣下の礼をしなかった。高い位置から澄んだ目でじっとメイズ兄弟を見下ろす。まずは正面のヨルク・メイズを。続いて、ヨルク・メイズと対面に座った私の隣の、レクト・メイズを。
「それで、どういう状況だ? イズベルは?」
「イズベルは、亡くなりました。自殺したと。
他のユーバシャールの軍人たちは、ほとんど戦死だそうです。
……ハイリーも、前線で魔族化し、亡くなりました。それで、ユーバシャールの血統は魔族だとひろまって、イズベルは捕縛されたのです」
「それは本当か?」
目だけをぎょろりと動かして、テリウスがヨルク・メイズとレクト・メイズを順番に見た。レクト・メイズは顎を引いて、それを肯定した。
「まさかテリウス・ユーバシャール? 魔石に宿って私の結界を抜けてきたのか? はは、まさに建国の英雄譚そのものの冒険じゃないか!」
場違いに明るいヨルク・メイズの声が響いた。彼は身を乗り出して「会ってみたかった」「想像通りの美麗さ力強さ」「ぜひその武勇伝を聞かせてほしい」とテリウスに話しかける。座ったまま。彼の血族を滅亡に追い込んだことなんか、すっかり忘れたらしい。
「アンデル・シェンケル。お前はどういうつもりでオレを召喚したんだ? 国境の結界を越えてないのに呼び出したら、目的が果たせないだろうよ」
「今は国境の結界はないので、あなたは自由です」
「結界が、ない」
確かめるように、テリウスが小さくつぶやいた。ちらりと、上機嫌に話しかけ続けているヨルク・メイズを横目で見て、納得したように目を細くした。
「……イズベルを守れませんでした。せめてもの罪滅ぼしです」
テリウスがじっと私を見つめてくる。お前はどうするつもりなのだ? とでも言いたげな視線だった。それはそうだ。こんな城のど真ん中で解放されても、外に出るのに苦労するだけ。だが今、解放しなければ、テリウスが自由になる機会は二度と訪れない。
おそらく、私は今日、ここで死ぬ。
私は、興奮した様子でテリウスに話しかけ続けているヨルク・メイズに語りかける。テリウスは、私たちを冷え冷えした目で観察していた。
「陛下」
呼びかけに、ヨルク・メイズは反応しない。自分でしゃべることに夢中だ。相手が話を聞いているかどうかも興味がないらしい。
それでもかまわない。なぜなら、これまでもそしてこれからも、私や兄や父の声などこの人に届くことはないだろうから。
「恐れながら申し上げます。
私もこの国の発展を望んで止まない者の一人です。愛する人たちの暮らすこの国を、やはり愛していましたし、ここまで育んでもらった恩がありますので。それに可愛い甥たちが暮らす国は、どこより素晴らしいところであってほしいと願わずにはいられません。
ところが亡き兄のように頭は回りませんし、亡き父のように辛抱強くもありません。ですから、甚だ分不相応ではありますが、少しばかり心得のある分野で国に貢献したい、そう思って研鑽してまいりました。
その道の途中で、いくつかの法則に気づいたのです。
根が腐ってしまった植物は救えない。
生まれついた性質のなかには、どうやっても覆せないもの・矯正できないものがある。
疫病は広がらないうちに元から断つべし。
兄は、三英雄のギフトに頼らない国を構想していたようですが、それは正しいでしょう。プーリッサは三英雄によって作られましたが、その存在が今や発展の妨げになっている。腐敗の温床を作ってしまっている。もはや健全な成長は望めない。
であれば陛下。私には三英雄の末裔の一人として、この国を造った者の末裔の一人として、この国を正す責任があるのでしょう。崩壊の兆しが見えるこの国の腐った根を切断して。
この国に英雄はもういらない。我々がそれを体現しました」
私が思うに、これでプーリッサが潰れるのであれば、それは自然淘汰というものだ。内臓を荒らし回る寄生虫を排除しきれず、病に打ち勝てず、外から襲ってきたものには食われてしまう。
弱いものは生き残れない。それに耐えられるだけの準備をしてこなかった、過去のすべてが手落ちだった。
まだ自浄作用が残っていたとして、それが正常化したら生き延びる術があるかもしれないが、今のままでは万が一にもありえないだろう。
それにしても、よくまあそんなに上っ面だけの言葉をすらすらと。自分に呆れた私の肩を、誰かが叩いたような気がした。背後には誰もいないから、私の勝手な妄想である。
――よせ、アンデル。
クラウシフがそういったような気がしていた。兄はあれでいて辛抱強く、すべて罪を自分で被るだけの度胸があった。そうするだけの愛情深さがあったし、きっとあんな酷い扱いを受けなければ、やり通したその上でなにか大きなことを成して往生したはず。
――だめだアンデル、そんなことしちゃいけない。
たぶん、ハイリーもそういったはずだ。なぜなら私がしようとしていることは、クラウシフが耐え忍んでなんとか成就させようとしていた『三英雄の奇跡に頼らない国』への到達を大幅に遅らせることになるから。ハイリーが命を捨てて守ろうとした今のこの国自体も傷つける。それどころか、プーリッサが消滅するかもしれない。この国難のときにもう一撃、致命的な打撃を与えられたら。あっさりと柱を失ったら。
しかしながら、躊躇わなかった。
私の上っ面だけの、英雄の真似事の言葉は、彼らのしてきたことを穢してしまう。きちんとした理想と目標があって、苦汁をなめながらも前進してきた彼らの見えざる功績に泥を塗ることになる。
だから、自分の言葉で蹴りをつける。
「……いえ、やはりそんなおためごかしは必要ありません」
この男は自分で播種した憎しみの種が、芽吹いて、どのような花を咲かせるのか、見届けるべきだ。私のように、無力で卑怯な人間に、無価値に殺されるにふさわしい。
「私は、自分の復讐を果たします。何一つ貫き通せなかった中途半端な私には、卑怯な暗殺者が似合いです。
そして、陛下にも」
「うるさいぞ、アンデル。私は今、テリウスと話をしている」
叱責がとんでくる。相変わらず、ヨルク・メイズはテリウスに話しかけている。テリウスはじっとその男を見下ろして微動だにしていない。レクト・メイズもそのさまを見守っている。
「陛下、国主の務めを果たしてください」
一瞬、時間が止まったように感じた。うなじから強烈な寒気が頭頂に走り抜け、発散と同時に灼熱感となって全身を包み込む。ぎゅっと視野が引き絞られるような錯覚、目の奥がどろどろ沸騰したようにゆらぐ。
かん、と硬く高い音が鳴り、窓の蝶番や、シャンデリアの吊り具などがいっせいに赤く変色した。ざらざらとささくれ立ち、錆びついていく。体積の小さなものは変形する。まるで鳥のさえずりのような、チチチチという小さな音があちこちで鳴り響く。室内のあらゆる鉄が錆びついていく音だ。
それまで無表情だったレクト・メイズが顔をしかめた。彼自身の周囲に、私がぶつけたものとは異質の魔力が発生する。メイズの結界を、本人のまわりに展開したのかもしれない。それはどうでもいい。
ヨルク・メイズは薄ら笑いを引っ込め、レクト・メイズより分厚い魔力の壁を自分の周りに展開していた。レクト・メイズとは密度が違う。分厚いクルミの殻のように、自らの周囲を守っている。ああ、やはり、と納得したような気持ちになった。
やはり、陛下は魔力を残していらした。
「アンデル、どういうつもりだ? いくらお前の魔力が強くとも、シェンケルごときが私の結界を破れるはずがなかろう。それより、これは大逆だぞ」
だが、どれほど分厚いクルミの殻でも、金剛石ほど硬い甲羅でも、不滅のものはない。
強烈な頭痛に、のぼせるような酩酊感。私は体の奥底に凝っていた冷ややかで熱いものをすべてヨルク・メイズにぶつけた。みしりと音が聞こえた気がする。ヨルク・メイズの周囲を守る結界が歪んだ。ほころびに、魔力を集中させる。ナイフで硬い木の実の殻をこじあけるように。
ヨルク・メイズは額にうっすら汗を浮かべていた。しきりにまばたきをし、呼吸が浅くなっている。
「アンデル、よさぬか。今ならまだ、……」
今ならまだ、なんだというのか。戻る道など、とうに潰えている。
息が、できない。鼻血が出ている。手が震え視界が狭まっていく。これ以上は危険だと、自分の生存本能が警鐘を鳴らすが、止まれるわけがなかった。あと少ししか持たないとわかっていても。
「陛下、私は、大逆を成します」
聞こえたか、どうか。くしゃ、と紙を丸めるように、最後はあっけなく、結界は押しつぶされた。無防備になったヨルク・メイズの内部は熟れた果実よりももろく、一瞬で溶解した。彼の記憶をすべて焼き切るのは、簡単なものだった。
私は、魔力の放出を止めた。
ヨルク・メイズの茶色の目は焦点を失い、糸が切れた人形のように床に転がっていた。うう、といううめき声が漏れ聞こえた。床に転がった男の、肺が押しつぶされて出たうめきだ。
「陛下」
魔力の余波から身を守る結界を解き、レクト・メイズが床に伏した兄に声をかける。そっと首筋に手を当て、脈を確認する。慌てた様子は、ひとつもなかった。
「息はある。だが、これでは」
床に倒れたまま、ぽっかりと虚空を見上げるヨルク・メイズの口の端からは、唾液が垂れている。
呆れたように短く息を吐いたのは、金属が錆びつくほどの魔力の渦にいて平然と腕を組み、一部始終を眺めていた、テリウス・ユーバシャールだった。
「シェンケルのギフトは、直接的に相手を殺すには不向きなギフトだからな。とはいえ、その男はもう二度と、正気には戻るまいよ」
なるほど。
先程のレクト・メイズの「これでは」の先、言いたいことがわかった。最後まで始末をつけろ。自分の言葉を思い出せ。促すように彼は、壁に飾られていた宝剣の一振りを私に向けて放ってきた。
受け止めようと手を差し出した私の前で、横から伸ばされた青い手が、剣を奪い取った。
「イズベルの復讐を残しておいてくれたことの礼を言おう、アンデル・シェンケル」
それは私が、と声をあげる前に、なんの感慨もなく鞘から引き抜かれた直剣が、ヨルク・メイズの眉間を貫いていた。剛力で床まで深々と刺さった剣の、銀色の輝き。魔力に侵食されないマルート鋼製の剣だ。ヨルク・メイズの四肢は一度大きく痙攣し、二度と動かなかった。
「後悔しているのか?」
テリウスが私に向かって問うた。刺したときと同じ、なんの感慨もない仕草で剣を引き抜くと、ヨルク・メイズの上等な絹の上着で血をぬぐう。そして鞘に収めた剣を当たり前のように自分の腰に吊るした。
「……今はまだわからない」
「お前がいずれ後悔しないといいが。最後も自ら手をくだしたかったと。罪状が割に合わないと」
「あなたがやらなければ私がしました。なんの違いもありません」
「ふん。馬鹿に律儀だな。オレが殺したと言えばよいのに、保身というものを知らんのか?
まあ、どうでもいいか。
オレはこれからイズベルを弔いに行く。ついでにお前をここから逃がすのも手伝ってやってもいいぞ。それはハイリーへの手向けとしてな」
「いいえ、ここに残ります」
「わかった。ではな、達者で」
軽やかに言って、テリウスはなんの憚りもなく正面のドアから部屋を出ていった。人払いがされているとはいえ、それは部屋の周囲のことだ。すぐに見咎められるだろう。それも私が心配することではないだろうが。
「アンデル・シェンケル。お前もここから去れ」
レクト・メイズが、ゆっくり立ち上がった。ギフトの行使でうっすら額に浮いた汗を、手の甲で拭う。
声にも動揺は見られない。魔石を見せたときに感じたことを確信する。きっと、ヨルク・メイズは私が魔石を持っていたことを知らなかった。どこまでこの人が情報を掌握していたかはわからないが、……私はおそらくこの人の手の上で踊っていた。
もし、私が失敗してことをなさなければ、私が持ってきた魔石を使って、ことを成しただろう、レクト・メイズは。すべてを私がしたことにして。
「しかし、閣下」
「これよりプーリッサは国主不在の空白期間に入る。その動揺をできるかぎり鎮めたい。お前を利用させてもらう。……見返りに、お前とお前の家族を国外に逃がすのだけは保証してやろう。いつかわたしが合図するまで、お前はこの国には戻れないが、それでもいいな」
「あなたの兄を殺しました。そんな相手に手を差し伸べるのですか」
「クラウシフが成すだろうと思っていたが、存外あの男は理性的だった。お前はそうではない。立てないなら立たせてやるしかない」
彼は私に向けて懐からハンカチを取り出して放った。血糊の付いていないハンカチだ。手の上のそれを呆然と眺めていると、レクト・メイズは哀れみを湛えた目をして、顔を拭う動作をしてみせた。この人が情動らしいものを露わにすることもあるのだな、と遠く思う。つられて触れた自分の頬が濡れていて、私はようやくぎくしゃくと、ハンカチを顔に当てた。涙と鼻血を拭う。
「よいかアンデル・シェンケル。よく聞け。お前は罪人だ。だが、お前には甥たちがいる。二親がすでに亡いその子どもたちを守るのがお前の義務だろう。そのためには、迷いを捨てろ。それができるだろう、他ならぬシェンケルのお前には」
私は、レクト・メイズの呼んだ影のものに先導され、執務机の後ろの棚に隠されていた通路を使って、城外へ出た。途中で着替えさせられたから、傍目にはただの出仕の帰りに見えたはずだ。
そして、いくつか先のことの指示を受けたあと、用意されていた馬に乗って、人気も月明かりもない新月の夜道を、一直線にシェンケルの家に向かった。
◆
魔力を一気に使った反動か、吐き気が酷かった。嘔吐くと鋭い頭痛も襲ってきて、馬の揺れがさらに症状を悪化させる。
暗い道をひとり、馬で走っていると、視覚情報が少ないからだろうか、過去のことばかり思い出した。クラウシフとハイリーの三人で、遠がけに行った幼い日。あの幸せな日はもう二度と来ない。卑怯な罠に嵌められて、ふたりとも、声の届かないところへ行ってしまった。私の大好きなふたりが。今すぐあの人たちに会いたい。クラウシフの快活な笑い声を聞きたい。ハイリーに「アンデル」と名前を呼んでほしい。
一度は止まった涙がまた流れだした。息ができない。軽く嘔吐く。手綱を持つのも困難で、不安がより強くなっていく。しっかりしなければ。これからは休んでいる時間もない。甥たちを連れてこの国を出なければならない。レクト・メイズが時間を稼いでいるうちにだ。
なのに。なのに、なのに。頭の中はぐるぐると、子供の頃の幸せな記憶を引っ張り出して再生する。それに集中してしまったら、よけいに今の自分から逃げ出したくなってしまうのがわかっているのに、止められない。こんな姿を甥たちに見せられない。心配させてしまう。もっと不安にさせてしまうじゃないか。
馬を止めた。人気のない道は、暗闇に向けて真っ直ぐに伸びている。その先になにがあるかわからない、もやもやとした恐れが湧いてくるのは本能的なものなのだろうか。
数度、深呼吸して、気持ちを集中した。
シェンケルの生まれであることを悔いていたが、良かったこともあると考え直す。
寂しさは幸せを知っているから生まれるものだ。すべては相対的であるから、不安や、後悔や絶望も、元になる幸せなものを知らなければ出てこない。
それがたとえ罪悪感からの逃げだとしても、今はそうすべきなのだ。
私は自分の記憶の隧道に意識を同調させた。クラウシフのことはあまりに根深く私の出自に関わりすぎていて、消せない。であれば、消せるのは、……ハイリーとの思い出だけだ。
もう会えない彼女との記憶を消すのは、完全な別れを意味する。死に際の命乞いのように、彼女との懐かしい思い出が次々と脳裏によぎる。そして行き着く先はレクト・メイズに聞いた、「ハイリーは死んだ」その一言だ。
ハイリーは死んだ。ハイリーは、死んだ。
……死なずの騎士姫は、死んでしまった。
私が彼女のそばにいられる真のナイトだったら、彼女を守れた?
呼吸に集中して、彼女の言葉や笑顔をただの記号のように思い返しながら、さらさらと空白にしていく。完全には無視できなかった感情が、またもぽろぽろと涙になってこぼれたが、一秒前の涙はなんのために流したものかもわからない。
まばたきをした刹那、誰かに名前を呼ばれた気がして、また涙が一粒転げ落ちた。
◆
バルデランは頼んでいた仕事をきっちり終え、私の帰りをシェンケルの家で待っていてくれた。一度は行き違いになったが、異常事態が起きているからこそ、甥たちのそばにいなければと判断したらしい。敬うべき老翁の経験に、頭が下がるばかりだった。その彼に、今日あったことを掻い摘んで話すと、拒絶も罵倒もなく、悲しみを皺深い顔に浮かべてただ静かに目を伏せた。
「私は、クラウシフ様とイェシュカ様の墓守をいたしますよ。なに、悲しいことに血縁ではございませんし、毒にも薬にもならない老いぼれです、憲兵どもも呆けた老人に無体はなさいますまい。なにより、プーリッサを離れるのは、この老体には堪えそうです」
憲兵もメイズ家の人間も信用できないとは思ったが、疲れ切ったバルデランの、遠くを見る目を見てしまえば、無理強いはできなかった。
最低限の旅支度を整えた私は、バルデランと別れの抱擁をした。
これまで絶えずそばに居てくれた頼りになる執事との別れは、不安と寂しさしかなかった。彼が最後だった。死んだ父母に、クラウシフ、それからイェシュカ。私を守ってきてくれたたくさんの人たち。バルデランと別れたら、私は自分が雨よけのひさしにならなければならない。背後で不安そうにしている三人の甥たちのひさしになるのだ。
バルデランは老いてもなお背筋もしゃんとしていたが、抱きしめたら自分よりも小さくなっていた。そんな彼の、私よりは短いであろうこの先の人生を、苦難に満ちたものにしてしまうことを詫びたくて、腕の力を強くした。バルデランもこれまでの控えめでさりげなかった気遣いの態度を捨て去って、硬さがしっかり残っている両腕で私を抱き返してくれた。
「アンデル様、あなたがこの先どのようにその羽をひろげて飛んでいくか、私はとても楽しみにしていたのです。大丈夫です、鳥には国境はありませんから、きっといつかまた飛び立つことができます。そして望めばこの国に戻ることだってできるはず」
「バルデラン、ごめんなさい。元気で」
目の奥が熱くなってしまったが、落涙はせずに済んだ。
レクト・メイズの影のものが用意してくれた馬車に甥たちと乗り込み、家を出た。事情を知らない甥たちは、そわそわしていたものの、やがて眠気に負け、互いに寄りかかり合って寝息を立て始めた。彼らが目を覚ましたら、まずは教えなければならない。アンデル・シェンケルは死に、今いるのはサフィールという名の、君たちの兄だと。二度と、アンデルと呼んではいけない。それは咎人の――一つの国を滅ぼしかねない許されざる罪を犯した人間の名前だから。
夜明けまでは遠い暗い道を、窓の中から見る。体調は最悪だというのに、とても眠れる気がしない。
心細さで叫びだしたくなった。
こういうとき、これまではどうしてきただろう。誰かに、つど励まされてきた気がしたが……クラウシフだ。きっとクラウシフがそうしてくれたのだ。けれどももう兄はいない。胸に孔があいたようだ。
一度でいいから、夜明けまでには忘れるから。
誰でもいい、私の名前を呼んでくれないか。
取るに足らない願いを口にする相手もおらず、私はそっと目を閉じた。




