#90 サフィール 忘れてしまった彼女について
私はものごとを決めるのが苦手なのだろう。
くよくよと暗い考えにとらわれる。
たとえば、ハイリーの件。彼女がもし私たちになにか危害を加える気があるのなら、とっくにそうしているだろうとわかっているのに、彼女が善意の人だとは信じきれず、それでいながらも、彼女が自分たちに害意のある人だと断定もできずに、もんもんとしていた。
ここまでの道中で親切にしてくれたハイリーを信じきれない自分が嫌になりながらも、弟たちをドニーに預けていく以上、信頼しきれない人が周囲をうろついているのを見過ごせないと理由をつけてみたりして。
眠れぬ夜を過ごしたあと、私はドニーに子どもたちを預け、午前中にハイリーを外へと誘いだした。
薄手の白いブラウスを着て、海の色に似た鮮やかな青色のスカートを履いたハイリーは、気に入ってくれたのか贈り物のリボンで髪を飾っていた。ブラウスの胸元には見事なカットワークが施されていて、清楚でありながら華やかだ。元から彼女は容貌も仕草も美しい人だから、そうしているとどこかの貴婦人のようだ。人目を引いてしまわないようにか、肩から透かし編みのストールをかけて、金属製の腕を隠している。
「さて、なにを買いにいこうか。店は決まっている?」
買い物に付き合ってほしいという名目で呼び出したので、まずはその用を済ませることにする。これから一人旅ののち一人暮らしになるので、必要なものはいくらかある。それらが揃えられる店も、あらかじめドニーに確認していた。本当は、彼に頼めばわざわざ外出する必要もなかったのだが。
ハイリーと他愛のない話をしながらそれらを集め、昼前には用事を片付けた。そして、大きな港のそばにある軽食屋のテラス席で、海を眺めながら食事をした。つい、本当の目的を忘れそうになるくらい、ハイリーとどうでもいいことで話が盛り上がってしまった。
帰りは、人通りの少ない、レンガで舗装された道を選んだ。
並んで歩いていると、潮風がハイリーの髪を巻き上げて、レース模様のような影をその頬に投射していく。美しいな、と見とれた。
「ハイリー、もしかして、私のことを元から知っていた?」
切り出し方はさんざん迷ったけれど、単刀直入に尋ねてみた。
「うん。君のことはよく知っているよ」
ハイリーは穏やかにうなずく。
「どのくらい、知っているの?」
「君がクラウシフの弟で、イェシュカの義理の弟で、本当はあの小さな男の子たちの叔父だということ。シェンケル家の当主で、……プーリッサの前国主を殺害した疑いにより指名手配されているアンデル・シェンケルだということ」
それが、全てだった。私が捨てた国、家、名前。それを全て、ハイリーは知っている。
彼女には我々の事情を伏せていてくれるよう、ドニーを口止めしていたが、無意味だったらしい。そしてハイリーが不自然なほど私たちの事情に言及しなかったのは、彼女がそもそもそれを知っていたから、逆にうまく避けていたのだという証明にほかならない。
「私は、君の幼馴染だったんだ。君の兄・クラウシフともそうだった。君の義理の姉のイェシュカとは親友で、ドニーとも友人だ。クラウシフに頼まれて、君の甥の後見人になる予定だったが、色々と事情や変化があって、正式に認可される前に手続きが中断されてしまった。子どもたちを連れて出国した君を、慌てて追いかけたんだよ。
君は、たぶん、そのことを含めて、私のことを忘れてしまったんだね」
「……きっとそうなんだと思う。どうしてあなたのことを忘れてしまったのかも、思い出せないんだ」
思い出せないが、推測することはできる。
不都合なことがあって私はきっと自分で記憶を消したのだ。
自分で自分の記憶を操作したことが、一度ある。その事実だけは覚えているが、中途半端に取っ掛かりを残すと、その後の思考に影響があるとわかっていたから、根こそぎ消したのだ。それに関わることを。
古い過去を振り返るときは、自然と他の記憶が色あせて不鮮明になっていくのもあってか目立たない記憶の欠損も、近い過去の欠損になると、不自然な空白となって目につく。嫌悪感もある。空隙を不安に思うのだ。
きっとその空隙は、ハイリーがいた部分だ。
「どうして、そのことを言わなかったの? 言ってくれたら……」
「忘れてしまったなら、きっと思い出さないほうがいいんだと思ったんだ。君たちにとって。
なんの報せもなく国を出た君に、追いついてみたら、怯えて身構えられて、すっかり他人みたいな態度で……。なにかあったんだと思ったんだよ。たぶん、いろいろあって、私のことを忘れてしまったんだろうって。君がそういうことができるとは、知ってたんだ」
いくらなんでも、そこまで関係の深い相手に忘れ去られたら、いろいろと思うところがあるだろうに、指摘もせずに話をあわせてくれたのか。私が想定していた以上に、彼女はシェンケルの秘密を詳しく知っているということだ。
「それに、私は君のことが好きだから。傷つけるのは本意じゃない。だから、黙っていようって決めたんだ。君が私のことを思い出してくれるまで」
目を伏せ、ハイリーは口元に笑みを刻んで穏やかに言う。潮風に煽られて、彼女のスカートの裾が揺れ、空をいく海鳥が大きく羽ばたく。
心臓が強く鼓動した。苦い気持ちがぐっと胸に迫る。
こういう距離感で、彼女はずっと私たちを守ってきてくれたんだろう。きっと。思い出せなくてもわかる。それは、道中のことに限らない。
「ありがとう。……ごめんなさい、思い出したわけじゃないんだ。……思い出したいって、思うんだけれど、……できない」
そんなハイリーのことを、私が好きにならないわけがないのだが、だからこそ彼女の言葉は辛かった。
彼女が好きだったのは、過去の私だ。どういう形の『好き』だったのかも思い出せない私に対しての言葉じゃない。罪悪感と、孤独感でその場に立ちすくみそうになる。
思い出したい。彼女のことをすべて、思い出したい。強く願っても、いっこうにその徴候すらあらわれない。
気の持ちようで消した記憶が戻るなら、シェンケルのギフトは忌み嫌われたりしない。そして消去してしまった記憶を取り戻す方法を、私は知らない。ほぼ、不可能と同じだ。
「うっ!?」
背中に強烈な衝撃が走って、私はむせた。ハイリーに叩かれたのだ。
「いいさ!
ところでサフィール、君さえ良ければ、あらためて自己紹介したい。せっかくこうして再会できたんだ。プーリッサが国家転覆しかけたときは、もう二度と会えないかと思った。腕を失った直後は、自分も死ぬかもしれないと覚悟していたし、君たちが国を出たと聞いて追いつけないかもしれないと思った。
それがこうして、遠国で一緒に歩いて話をしている。
心機一転、この地でやっていくのにあわせ、私たちも新しくやり直すのも悪くないと思うんだ」
「あなたが嫌じゃないなら」
「もちろん大歓迎だよ! じゃあ君が忘れてしまったハイリー・ユーバシャールの話をしよう。もう、ユーバシャール家はなくなってしまったから、今の私はただのハイリーだ。君の兄の幼馴染で、彼と同い年。
君は八歳年下の可愛い幼馴染だったんだよ」
「えっ」
「年増で驚いた? 君の弟たちが私を母のように慕ってくれたけれど、まあ、実際同い年だからなあ、あの子達の両親と。親しみやすい年頃だったんじゃないかな」
「べ、別にそういうつもりじゃないんだ」
予想より、ハイリーは年上だった。落ち着きとか立ち振舞いで、やや年上なのはわかっていたけれど……。
きっと彼女から見る私は、子供のようで頼りないだろう。可愛い、と言われてしまった。これで、彼女が先程私に向けてくれた『好き』の言葉が、間違いなくただの幼馴染に対する親愛の情なのだと結論が出る。かすかに、期待していた自分がいかに浅はかだったか。恥ずかしくて、みぞおちがそわそわしてくる。そして胸に疼痛が生まれた。
「そう言ってもらえると嬉しいな。近頃、傷の治りが遅くてね、衰えを感じるんだ」
「衰えなんていう年じゃないでしょう」
苦笑で返せば、彼女は緑色の目でじっと見つめ返してくる。なにか言いたげに。
「なるほど、冗句も通じないかあ。やっぱり自己紹介をしなければ」
なにかに一人納得して、彼女はストールの前をかきあわせた。




