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#88 サフィール 異国の香り

 ルジットへは途中で計算し直した、全行程四ヶ月という予想を少しだけ短縮し、三ヶ月半ほどで到着した。

 

 私達兄弟は圧倒された。石造りが基本のプーリッサとは違う、木の枠組みの開放的な建物にも、肌に張り付く温暖で湿潤な空気にも。男女問わず軽装で陽気で、肌は日に焼けているか、元から褐色の人が多い。黒髪の人も多いようだった。街角で聞こえる音楽も、店先に並ぶ香辛料も知らないものばかり。空の青さでさえ、プーリッサのどことなくくすんだ色とは違って、目を貫く強烈さだ。


 そしてこの碧色の海。まるで宝石のようにきらめいて、男波と女波の永遠に続く追いかけっ子を、できることならずっと眺めていたいと思わせる。


 色彩が豊かな国。それがルジットへの第一印象だった。


 人々は浅瀬に蜘蛛の巣のように橋を渡して、その途中途中に小屋を建てて家族ごとに住んでいるらしい。そんなことを確認しながら、私たちは目的の家を目指した。あまりにきょろきょろしてよそ者だと触れ回っていると、危険が寄ってくることはよく学習していたので、弟たちにもそれは言い聞かせておいた。


 ハイリーに目的地の話をしたら、せっかくだから送ってくれるという。迷ったものの、それこそせっかくだから、そこで彼女になにかお礼ができないかと、私は彼女の言葉にまたも甘えることにした。


 甘えていたのは私だけではなくて、末の弟のジュリアンもだった。彼はジェイドよりも甘え上手で、よく、ハイリーの一つしかない手を握る権利を争奪していた。ジェイドは悔しがりながら、渋々という様子で私と手をつなぐ。ユージーンは歩き辛いからと、近頃私とは手をつなぎたがらないが、……二人きりのときにハイリーと手をつないで歩いているのを度々見かけている。


 網の目のように複雑な橋を渡りきってたどり着いたのは、きちんと陸地に根を下ろしたお屋敷だった。これまでの貧乏旅では、縁がなかったような立派なお屋敷。壁から屋根まで全部白い。木を塗った外壁だが、手入れが行き届いているようで、塗装もまだ新しい。門前の道には、真っ白な丸い砂利が敷かれていて、歩くとじゃりじゃりと小気味の良い音を立てた。そこまでがお屋敷の敷地なのだと主張するかのよう。


 おそらくは、橋の途中途中に小屋を建て住んでいたのは、あまり裕福ではない人たちなのだろう。あるいはルジットの地理歴史を学んだときに頻出していた流民。土地の所有権を持てない人たち。どこの国にも貧富の差はある。


 だが悲惨さが感じられないくらい、彼らはのんびり穏やかで陽気、そして人懐っこい。南国の気質がそうなのか。


 お屋敷の門前にまわると、ルジット人ではなさそうな、上半身裸の屈強な男二人が、門の左右で槍の柄を地面に突いて立っている。精悍な顔立ちの彼らは、身分の証明を求めてきた。旅券を見せると、主人から申し付けられていると、通してくれた。


「お待ち下さい。奥様のご同行は伺っておりません」


 ぴしゃんと言ってハイリーの前に、片方の門番が立ちふさがった。旅券を見せたのに。徹底された態度だった。

 ジュリアンが不安げに、手を離した彼女の顔を見上げる。しかし、ハイリーは慌てた様子もなく、自分の荷物から美しい文箱を取り出した。螺鈿細工のそれはひと目で高級な品だとわかる。


「こちらをご主人に。きっと私が誰かをわかってくれる。

 サフィール、君たちは先に中に入れてもらうといい。私は待つよ」


 この文箱が彼女の身分を証明するのか? もしかして彼女とはここでお別れになってしまわないか?


 心配ではあったが、道行く人々がお屋敷への訪問者を興味深そうにちらちら見ていくので、それも不安だった。こんな遠く離れた異国に、本国からの顔見知りがいるとは思えないが……。


「わかった。ハイリー、念の為、なにかあったらここに連絡を寄越して」

「うん。サフィール、また」


 本来であればここでお別れが筋だったのに、彼女が「また」と言ってくれたことに心から安堵して、私は屋敷の敷地に踏み込んだ。



 抱擁で出迎えてくれたドニー・リミウスは立派な腹と髭を震わせて、涙を流した。


「本当に、遠くからよく来てくれた。今日はゆっくり休んで。疲れているようだしね」


 私たちの事情を、彼はおおよそ知っている。こちらが手紙で先んじて報告していただけでなく、商人である彼の情報網にそれが引っかかってこないはずがないのだ。厄介事そのもののような我々を受け入れてくれる懐の広さに、おそらくは兄も随分と助けられたのだろうと思う。


 ドニーの屋敷は本当に立派だ。

 内装のきらびやかさは、壁や天井や床のあちこちに埋め込まれた貝殻の真珠層のきらめきや、光を透かすレースのカーテン、精緻な幾何学模様にくり抜かれた複雑繊細な窓枠など、細部にまで行き届き、どこか開放的で明るい印象だった。


 私の住んでいた家も、国では大きなものだったが、それよりもさらにここは贅沢で美しく、広い。弟たちは見たことのないものに目を輝かせ、うっかり目を離したら、廊下を走っていってしまいそうな勢いだった。


 通された応接間はプーリッサ風で、なんだか懐かしい気持ちになる。

 子どもたちがいては話をするのも難しいだろうと、ドニーがメイド数人に子どもたちの入浴と食事の世話をさせてくれることになった。昼食もまだだったし、ここのところ体を濡れた布で拭うしかしてなかったので、ありがたい配慮だ。むしろ薄汚れた私が、立派な革張りのソファを汚さないかが心配だった。


 しばらく待っていると、泣き笑いの顔で、ドニーが部屋に入ってきた。その後ろに、ハイリーもいる。


「サフィール。ハイリーと一緒だとは思わなかったよ。まさか君たちと同時に再会できるなんて」

「ふたりとも、知り合いだったの?」


 隣に座ったハイリーから、ふわりとシトロンの香りが漂う。


「そうなんだ。古い友人だったんだよ。もう長く会っていなかったから、忘れられていたら野宿かなと心配してしまった」

「なにを言ってるんだ。何日だってここにいてくれて構わない。サフィール、君もだよ。子どもたちと一緒に、いつまでもいてくれていいんだ。妻と二人きりじゃ、この屋敷は広すぎて寂しいから」


 暫くの間、お茶とお菓子、それから旅の道中の話で、三人で和やかな時間を過ごした。


 実はその間、私はヒヤヒヤしっぱなしだった。私が何者なのか、どういう理由でここに来たのか、ドニーは知っている。だが、私はそれをほとんどハイリーには話していない。もしうっかりドニーがハイリーにそれを言ってしまったらと緊張していた。

 その一方で、もう遠く離れたプーリッサでの事情だ、ハイリーには知られてもいいかもしれない。彼女は信頼できる人だから、とも思う。さらに同時に、彼女に軽蔑されやしないか、と一番重くてどうしようもない不安が沸いてきて、ドニーの言葉に相槌をうちお菓子をつまんで空腹を紛らわせながら、そわそわしていた。


 お菓子はスパイスが入ったクッキーだったのだが、舌への刺激だけが感じられて美味しいかどうかはわからなかった。ああ、昔よく食べたシナモンが香るクッキーが懐かしい。


「さて、そろそろ本題に」


 そう言って、ドニーが姿勢を正したので、私も座り直した。気を利かせたのか、ハイリーが席を外してくれた。

 彼女に事情を聞かれたくないと思っているのに、いざいなくなってみると、心細くなるなんて。


「サフィール、これから君はどうする? 君の兄さんからはたくさんのお金を預かっているし、もちろんそうじゃなくても君のことはいくらでも支援したい気持ちなんだ、僕は。

 この屋敷に滞在していてもらってもいいんだけれど、もし、この国に根を下ろすつもりがあるなら、空いている物件を買う手伝いだってしてもいい。兄弟水入らずで暮らしたいという気持ちもあるだろう。

 ああ、もしルジットでの生活を、お試ししてみたいというなら、もちろんゆっくりしてくれて構わないよ。

 どうする?」

「それは……」


 口ごもる私に、ドニーはにこりとした。


「もうひとつの選択肢もある。

 君の弟たちを含めて、僕の養子になるというのも手だよ。妻とはよく話をしたうえでの結論だ。まあ、君と僕は親子と言うには年が近いけれど、さほど問題にはならないだろう」


 これは、僥倖、なのだろうか。

 私はちょっとの間考えて、口を開いた。


「私は、一人でここを出ようと思います」

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