#86 ハイリー 断絶された過去と未来
不思議な浮遊感に心地よくなっていると、一転して、墜落するような不快感に胃の腑を締め上げられた。耐えられず、嘔吐してしまう。だが、口から出たのは酸味のある液体だけで、しかも少量だった。
咳き込み、ふっと、目の前が明るくなる。涙でぼやけた像、光が滲みる。あらゆる感覚が水の中のようにはっきりしない。そして、体がとにかくだるい。熱い。
「隊長、目が覚めましたか」
聞き覚えのある声。
ベッドの横に座っていて、濡れた布で口の周りから喉元まで拭ってくれるのは、おそらくサイネルだ。ぶわぶわと、水中で音を聞いているように不明瞭な声だし、顔がわからないくらい像が歪んでいるが間違いないだろう。
身を起こして粗相を謝ろうとしたが、動けなかった。声もろくに出せなかった。ぐるぐる視界が回転していて、また嘔吐しそうになる。
ここはどこなんだ、私はどうなったんだ。イスマウル兵たちは?
立て続けに咳き込んで、手で胸をさすろうとし、それすらできないことに苛立った。やけに左手の感覚が遠い。……感覚が遠いのではなく、まったくないのだと気づいた。
「隊長。熱が高すぎる。今は休んでください」
「さ……ねる、わた、し……うで……」
声が掠れてうまく言葉にできなかった。
サイネルは淡々と告げた。
「それもあとで説明しますから。さあ水です。口を濯いでください」
半ば無理やり、口に水を流し込まれ、ちょっとだけ不快感が和らぐ。
地面に沈み込みそうな倦怠感がふっと楽になったあたりで、私はまた意識を手放していた。
◆
何度か、意識が浮上してすぐにまた昏睡して、というのを繰り返したらしい。
はっきりと何度目とはわからないが、あるとき、ふっと頭が動くようになって、いろいろなことを思い出した。
光蛾の襲来、結界が消え、私達は魔族から基地を守るために戻り――。
そこで負傷した。近くにいた古参の者を庇って、光る蛾から降ってきた鱗粉を背中と左腕に浴びた。
落ちた腕を拾ってくれた兵は、きっと、その数日前、私が腕を落とした時にくっついたのを見ていたんだろう。だからおぞましいのを我慢して届けてくれた。篭手が粉々になってしまっていて、そちらの部分もひどい様子だったのに、復活を期待して。
負傷のショックでろくに動けなかった私だったが、ふとその兵が拾った腕に視線を向け、叫んだ声のは覚えている。
こいつ、魔族だ、と。
青くなった鉤爪に、表面にびっしり生え揃ったきらめく青い鱗、無理矢理小指と一緒に篭手にねじ込んでいた六本目の短い指。そう思われても否定できない見た目だった。だから手袋で隠していたのだ。ついでにわきわき勝手に動いているのだから、完全にそれだ。
しかし、その腕を私の体が拾いに行くことはなかった。ギフトが働かず、失血と痛みで頭が朦朧として。恐慌に陥った兵たちの声が遠くなっていった……そこまでは思い出せた。
「……よく覚えてますね、あなたは。死にかけていたんですよ。
もうあの日から半月以上です。すごい生命力です、本当に魔族並だ。なんだかんだで傷口も常人の何倍も速く塞がりましたしね。背中は傷一つない」
肘から先がなくなった左の上腕を撫でる私に、サイネルは深いため息とともにそう告げた。疲れた様子だった。彼もいくらか怪我をしているようだが、動きを制限されるようなものはない。くたびれた軍服の襟も直さずに、姿勢を崩して座っている。
ひどいめまいで眉間にシワを寄せながらも確認した室内は狭く殺風景で、基地の私の部屋ではない。横になっているベッドの上からも、隣に座るサイネルの体に簡単に触れられそうである。ベッドの他には、小さな棚が一つ。そこに手当の道具が置かれていて、どす黒く変色した血液が付着する汚れた包帯が乱雑に袋に詰め込まれ、一部はみ出ている。窓がなく、外の様子がわからないから、今が昼なのか夜なのかも不明だ。
「体調が万全になってから説明をするつもりでした。まだまだ痛むでしょう」
「待てない」
「そうでしょうね。
あ、無理に起き上がろうとしないでくださいよ。男並みに重いんですから、ひっくり返ったら持ち上げるのに腰をやられそうです」
「心配するな、動けやしない……」
ベッドに背中が同化しているようだ。話すのだって億劫で、あちこちが痛くて辛い。だがこれ以上、状況がわからないのは耐えられない。
サイネルはまたため息をひとつ、開いた膝の上に肘をついた。
「あのあと、北軍のユーバシャール隊は潰走しました。あなたのことで動揺したし、光蛾にあの装備では、時間稼ぎがせいぜいで、散り散りになってしまった。それでもちゃんと基地に蛾を近づけないくらいは踏ん張ったんです。さすが我々と、胸を張ってください。
……そして、基地から増援がありましたが、その場が収まることはなかった。完全に結界が消えてしまったらしい。魔族は続々とやってくるし、大混乱のイスマウル兵が基地のあたりまで逃げてきたりして、大騒ぎでした。
翌日ようやく結界が持ち直して、魔族どもの掃討も完了しましたが……」
言葉を濁したのは、なにか私に都合が悪いことを述べようとしているからだろう。いいから、と視線で促すと、サイネルは気合をいれるように鋭く息を吐いた。
「……激しく交戦した、増援部隊の東軍ユーバシャールの将たちは、全滅です」
「一人残らず、か?」
「将軍を含めて、一人残らず、です」
実感が沸いてこなかった。
父も兄も死んだというのか? 本当に?
じっと見つめていると、サイネルは視線を外した。いたたまれないというそんな仕草を、この男が見せた記憶があまりない。
「あなたのことを助けようとしたんでしょうね」
「まさか。ユーバシャールだぞ? 戦死は誉れだ」
「本気で言ってますか」
私を助けるために、戦局を顧みずに動くなんてあり得ない。私が前線基地に入営したときに、彼らだって覚悟していたはずだ。私がいつか、戦場で死ぬことは。
父や兄たちは誇りを護ろうとしたのだ。ここまで命脈を保ってきたプーリッサを、なんとかして護り通そうとした。幾代にも渡って、先祖たちを人身御供に差し出してまで、守護してきた愛しき国土。その場で散ることが、最善と判断したまで。わかっている。
――なのに、勝手に目の奥が熱くなって、片方しかない手に力が入る。父や兄たちの広い背中が、とても遠くなってしまった気がして、吐息が震えた。
サイネルが、緊張した面持ちはそのままに、言葉を続ける。
「そのとき、だれか一人でもユーバシャールの方が存命であったら、違ったのでしょうが……その……」
「なんだ、歯切れの悪い」
「悪くもなりますよ。
あなたを、魔族だと触れ回る、隊の生き残りがいたんです。その言葉を、私では否定しきれなかった。あなたのことはきっと首都まで連絡がいっているでしょう」
「そうか。……実家も検められているかもしれないな」
「一応、その覚悟はしていたほうがいいかもしれませんね。
私は、どさくさにまぎれて隊長をここに匿ったってわけです。
ちなみにここは基地の地下です。その倉庫の一角です。倉庫番とは仲がいいんですよ。魔族襲来と聞いてまっさきにケツ捲って逃げ出したヨナス・リャーケント殿のおかげで警備もないようなもんだったのも幸いしましたね。
すみませんね、さすがに十全な看護体制ってわけにはいかなくて。床ずれ、酷いでしょう」
「それよりも、お前、私のことが怖くないのか? 魔族の女だぞ。お前たちを欺こうとしていた」
「怖くはないですよ。そもそもあなた魔族じみてましたし。あのくらいで動揺するほど短い付き合いじゃない」
く、とくぐもった笑声をもらし、サイネルは脚を組んだ。まあ、言われてみればそのとおりだが、釈然とはしない。
「匿うと言っていたが、私は追われているということか?」
「いいえ。あなたは死んだことになってますよ。その方がよさそうだ」
つまりは、それだけユーバシャールの状況は悪いということだった。
実家が検められているだけで済めばいいが。プレザにいる母や、叔父夫婦、イズベル、それからテリウスはどうなったのだろう。とくに精神的打撃が大きいだろう母の身が心配だ。
「この手当てはお前が?」
「軍医のひとりが、隊長に恩があるとかで、内緒で引き受けてくれてますよ。ほかにも協力者は何人か。みんな、あなたに命を救われた経験がある。……私もですが」
「……ありがとう」
「喜んでいる場合じゃないですよ。簡潔に言ってこの国はいま、ガタガタです。
イスマウル兵は引きましたがね。魔族の襲撃のあと、駆けつけたマルート軍を見て、退却しました。結界も復活して、外側は取り繕えたようです」
そうか、マルート軍が。
クラウシフが、生前、必死になって橋渡ししたマルートとの互助関係が、ここにきて国を救った。……ヨルク・メイズの茶番劇に、終止符を打った。
喜べよクラウシフ、お前、ちゃんと一矢報いていたぞ。
「なにをにこにこしてるんです」
「いや、ちょっと……色々あって泣きそうになった」
「泣いたらちゃんと水分補給してください。まったくなにを喜んでいるんだか……。国主が暗殺されたんですよ? のんびりしている場合じゃないんです。もちろん、弟のレクト・メイズが新国主になりましたが、結界はまだ十全ではない。ヨルク・メイズほど強固な結界は張れないそうで、前線での魔族迎撃は頻度を増してます。
あなたが無事だったら、軍功挙げ放題だったのに。私も」
「待て、ヨルク・メイズが暗殺された?」
「ええ、そうです。それで突然結界が消失したようです」
「一体誰に殺された?」
思わず身を起こそうとしてサイネルに制される。
先を越された。
退役したら、ヨルク・メイズを殺してやる予定だったのに。具体的な計画はまだなにもなかったが、それが――。
サイネルは、おもむろに口を開いた。
「容疑をかけられているのは、……アンデル・シェンケルです」




