#68 クラウシフ 疑心暗鬼
ユージーンの誕生日から二ヶ月ほど、俺はまた忙しい日々を送っていた。疲れすぎて家に帰るのも億劫だった。
夜半の帰宅では、イェシュカも子どもたちも眠っていて、ろくに話もできない。夕食も摂らずにベッドに直行し、三時間も経たずに起き出して翌日の準備をするという日がかれこれ、……何ヶ月? まだ二ヶ月? 体感と現実の時間の流れが違う。帰宅が深夜なのはだいぶ前から常態化し、いつから始まったのかも覚えてない。ここ二週間ほどは疲労か風邪か、微熱と頭痛が続いていて、体力をさらに削られている。
疲れた疲れたとため息をついて玄関ホールに踏み込むと、出迎えてくれたのはバルデランではなく、アンデルでもなく、イェシュカだった。寝間着ではなくきちんとした格好をしている。
「おかえりなさい、クラウシフ。話をしたいの」
「夕食を摂りながらでいいか」
「そのあとがいいわ。あなたの部屋へ行きます」
「わかった」
声の硬さ、表情の強張りに気づいたが指摘はしなかった。物申したいことがあるのは確実だ。
食事を終えて部屋に戻ると、すでにイェシュカは俺の部屋のベッドの端に腰を降ろしていた。
ふと見れば、机の上の様子が違う。ぐちゃぐちゃまではいかないが、整理しておいた書類の置き方が変わっていた。
「イェシュカ、もしかして俺の机を掃除させたか?」
「いいえ。でも、そのことで話があるの」
彼女は立ち上がって後ろ手でドアを閉め、机に手を置く俺の正面に立った。俺のことを睨んだまま、がらりと机の一番上の引き出しを開けた。そこは普段、鍵を掛けている。鍵は椅子の座面の下の物入れに隠してある。
「ごめんなさいクラウシフ。ユージーンがいたずらをして、鍵を見つけてしまったの。勝手に開けてしまったことを謝ります。気になってしまって、誘惑に勝てなかった」
「俺の部屋に面白いものなんかないだろうが」
「正直に言います。あなたがまたずっと帰りが遅かったから……どうしても気になって、探していたの。証拠を」
なんの、と問いかけながら俺はもう答えを見つけている。
「あなたの、浮気の証拠。手紙とか、贈り物とか、そういったものを」
「それで見つかったか?」
「……わからない。けれども、ユージーンがこれを見つけたわ。はじめはなんだかわからなかったの、この薬が」
イェシュカが引き出しから引っ張り出したのは、乾燥させた木の皮と花を小さく刻んだものが入った薬瓶だ。光を通さないように茶色をしている。
「普通、お薬の瓶にはなんの薬か、札を付けてくれるでしょう、お医者様が。でもそれがなかった。
今日はそのせいで大変だったのよ。ユージーンがその薬を舐めてしまった。なんの薬かわからないから、大慌てでバルデランに確認したけど、彼もこの薬がなにか知らなかった。中身が減ってるからあなたが服用してるんでしょうけど……。ユージーンに毒だったら。もしあなたが病気なのを隠していたら。とてもとても不安になった。
だからお医者様を呼んだの。それで聞いたわ。
寝付きをよくする効果のあるハーブ、疲労回復に効果があるのよね。……それと、男性用の避妊薬に用いられるものも混ぜられている」
「ユージーンが舐めても害はないはずだ。問題なかっただろ」
「ユージーンにはね」
はあ、と俺はため息をついた。それが引き金になったんだろう。イェシュカがぼたぼたと涙をこぼしはじめた。それでいて、口元は笑みを浮かべている。
「いつから服用しているの? お相手はどこの方? そのくらい教えてもらう権利はあるわよね、わたし、あなたに愛されてなくても、妻なのだから」
勘弁してくれという言葉が、喉元まででかかる。
よそで無駄玉を撃つほど俺は元気が有り余っているわけじゃない。時間もない。やることは山積している。
「疲労回復のために飲んでたとは思わないんだな。最初っから喧嘩腰か」
「それではどうして札もなく、鍵を掛けた引き出しに隠していたの」
「こんな風に邪推されるのが嫌だったからだ」
突っかかられてそれに言い返すなんて、愚の骨頂だ。売り言葉に買い言葉、彼女の怒りに火に油を注ぐ行為。俺には言い返す権利なんかない。そうわかっているのに、うんざりした気持ちにまけて、本心を吐露してしまった。鈍い頭痛が鬱陶しい。
「なによそれ。わたしのせいなの?」
「もうしばらく子供はいらないだろうと言ったのに、お前は納得しなかっただろう。せめて双子が手がかからなくなってからと言っても、避妊はしないと断言した。その上、疲れているからと断れば、ただの一度だけで『愛されていない』って大騒ぎだ。俺がどうやっても気に入らないなら、俺に愛されてなくても構わないんじゃないか? それとも、俺はお前のわがままを聞く召使いになればいいのか?」
「結局、疲労回復なんて嘘じゃない。なんだ、もうわたしの子供はいらないってことなのね。だからって愛人がいないことの証明にもならないけれど」
「両方の効果が欲しかったんだよ。木の皮は疲労回復と花の効果を助ける。花のほうが避妊と入眠だ」
「避妊ね。やっぱりそういうことに使っているんでしょう」
「そんな元気ねえよ。うちでもよそでも、子作りしてる余裕があるなら寝たいくらい疲れてるんだよ。見てわかんないのか」
「今この流れで、信用できると思う?」
俺の心配はなしなんだな。
そう思ったとき、俺の中でなにかが崩れた。
「お前、教会であったこと、ちゃんと理解してるのか? ユージーンが受けた仕打ちをだ。してるなら、俺がどうして慎重になっているかわかるだろう」
「わかっているわ。でもだからって、どうしてわたしたちが萎縮しなければいけないの。そもそもあなたの仕事のせいでこうなったのでしょう? それで子どもたちが不利益を被っているのよ、あなたこそちゃんと考えてるの? なぜそう偉そうなことが言えるの」
イェシュカは鼻の頭を朱くしながらも、嘲笑する。
彼女の言うことはいちいち最もだ。
だが、しかし。
根も葉もない噂をたてらたり、迷惑千万にも過剰な好意や敵意をむけられたり、なにか手柄をあげればヨルク・メイズのお気に入りだからとやっかまれ、そのヨルク・メイズからはたちの悪い嫌がらせ――本人は遊びのつもりだ――を公私関係なく受け続け。そんな生活がもうどのくらい続いている? まだ三年ほど? これがいつまで続く? あと三十年? しかも最近は、家に帰れば妻にありもしない不貞を疑われるというおまけがついた。
もうたくさんだ。たまには俺だってなんの心配もなく眠りたい。
絶対に言いすぎだ、よせ。そう冷静に止める理性を押しのけ、感情のままに俺は言葉を続けた。
「俺が気に食わないなら、子どもたちとケートリーの家に帰ればいい」
その一言で、イェシュカはぐっと唇を噛み締めた。涙はまだ流れ続けている。
実母と折り合いが悪く、それゆえ彼女とは正反対の道を進みたがるイェシュカは、死んでもケートリーの家に帰らないだろう。そうわかった上での言葉だ。
「いやよっ」
「俺だっていやだ、……お前の癇癪に付き合うのは。もうたくさんだ。俺のことを信用も愛してもいない女を尊重するのも」
「愛してるわ! 愛してるから、だから、だから……っ」
言い募るイェシュカの言葉を聞く気になれず、俺は首を横に振って、ベッドの端に座った。
愛している、と繰り返す彼女の声で、ようやく頭が冷えてきた。そうして、その言葉の重みを受け止める。彼女のひとことで罪悪感の重みが増していく。俺が作った俺への執着で、イェシュカはこんなに傷ついて、ぼろぼろだ。
「どうしてわかってくれないの、クラウシフ。わたしは、……あなたに愛されたいだけなの」
「……悪い。俺がどうかしていた」
頭が、痛い。
俺の膝に泣いてすがりつくイェシュカの頭を撫でる。もはやお決まりのこの流れ。普段どおり口づけて、慰めの言葉を吐いて、彼女の体を暴く。そうして俺の都合のいいように、ギフトを行使する。それでイェシュカもしばらくは従順になる。
ところが、この日はそう運ばなかった。いつもだと疲労したときのほうがナニの反応がいいくらいなのに、直前の言い争いによっぽどうんざりしたからか、寝不足と体調不良がたたったのか、俺のそれは驚くほど礼儀正しく、あるいは持ち主に対して反抗的で――初めて失敗した。
正直に言えば、それが一番心痛になった。イェシュカに慰められるほどに俺は惨めな気持ちになり、結局一睡もできずに朝を迎えたのだ。口づけでイェシュカには唾液を摂取させ、ギフトを行使し、彼女の気持ちのゆらぎを緩和できるようにしてみたが、自分の動揺はそのままだ。
二十二にして不能? 笑うわ。
◆
そんな出来事があって、さらに日常的な小さな不和もあって、イェシュカはどんどん心を閉ざしていった。
俺が不調で彼女を抱けないことが度々あり、はじめのうちは俺の体を心配してくれていたのだが、そのうち彼女は「やっぱりわたしに魅力がないから」と自分を責めることが多くなった。俺の慰めの言葉は空回った。あの日の自分の言葉をいくら悔いても、イェシュカにつけた傷は治らない。俺はいつまでたっても誠実な話し方ができない馬鹿だった。
俺は医者にかかって過労と診断された。十分休めば回復すると。それを聞いて、ほっとした。
だが、その結果を知ってなお、イェシュカは暗い考えにとりつかれたままだった。表面上は俺の心配をしているが、本当は不安なんだろう。突然爆発することが増えた。体にも不調がでてきて、過呼吸をおこしたり、夜中にうなされて泣き叫ぶ事が増えた。
俺は後日、主治医にイェシュカも診断させた。
イェシュカの不調も疲労が原因だという。子育ては彼女の重荷になっているのかもしれない。自分の母親のようになりたくないと意地になって、自分を苦しめてしまっている。結果として、実母と同じように癇癪を抑えられなくなっていることにまた落ち込む。悪循環だ。
雑事はなるべくメイドに任せろと言っても彼女は聞かない。元乳母のメイドたちが手伝うと怒るようになった。苦肉の策で、バルデランにそれとなく手伝ってくれるよう頼んだが……うまくはいっていない。
話し合いも平行線だ。
そろそろイェシュカの意見を完全に無視しても、きちんと乳母に手助けをしてもらうべきだ。そう判断して、ギフトを行使したのだが、それもうまくいかなかった。納得したような素振りを見せた半日後、彼女はやっぱり嫌だと意見を翻す。何回もそれがあって、もしや俺のギフトが衰えているのか、疲れ切っているからその影響かと不安になったが、夜中に、あの首飾りを眠る彼女にかけてみると正常に赤く光っていたから、そうではないらしい。となるとよっぽど彼女はそれに拘泥して、ギフトに抵抗しているのか……。
いっそのこと、イェシュカの記憶を継ぎ接ぎしてはどうだろうかとも考えた。そうしたら、気持ちが落ち着くのではないかと。
対象者が意識して思い出せなくなるように記憶を封印し隠蔽する。それで処置が間に合えばいいが、ふとしたはずみに封印が解ける危険もある。それは彼女を動揺させ、致命的な打撃を与えるだろうし、俺への猜疑心を強めるだろう。これまでの経緯からして、イェシュカに俺のギフトが効きにくいなら、その程度じゃ無意味な可能性も高い。
父の呆けた様子を思い出す。記憶の整合性がとれなくなると混乱して発狂したり、廃人になることもある。それだけはイェシュカにしたくなかった。したくはないが、このままではまずい、と警鐘を鳴らす自分もいた。そのせめぎあいにもまた疲れた。
俺は俺で、マルート鋼の輸入制限の完全撤廃に向けての交渉がはじまって、家にいられない日々が続いていた。
もしこの完全撤廃が決まれば、プーリッサの歴史は変わるはずだ。もちろん、良い方へ。俺は勇み足で仕事にのめりこんでいた。
これがうまくいけば、メイズの呪縛からこの国が解き放たれる。そして、俺も。今はこんな調子だが、イェシュカとも関係を改善できるだろうし、子どもたち、そしてアンデルの未来だって拓けるはずだ。
そうして、イェシュカと言い争った日は、夜、かけた呪縛が解けていないかイェシュカが眠っているうちに確認し、朝までいっしょに過ごし、いつか良くなるはず、と言い聞かせて自分を励ましてきた。そうでもしなければ、自分にギフトを使って、麻薬に酩酊したかのように、楽しさだけ残してすべての感情を消し去ってしまいたくなるからだ。




