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#5 アンデル 遠がけに行った日 後

 カン、という高い音を立て破裂した石から、青黒い煙が吹き上がる。尻もちをついた私を、どろりと黄色く濁った双眸が煙の中からにらみつけていた。風を切って襲いかかってきたのがなんであったのか、私の目で捉えることはできなかったが、同行者たちは違ったのだろう。


「アンデル!」


 兄の叫び声と、衝撃。全身を強く打ち付けた私は、悲鳴を上げた。なにかにのしかかられている。まさか――魔族? さあっと血の気が引き、恐慌状態に陥りかける。

 必死に身を起こそうともがいて、自分に覆いかぶさっているのがハイリーだと気づき、今度は硬直した。

 ハイリーはぐったりとまぶたを閉じ、その首筋から肩から胸から、おびただしい血を流していた。尋常ならざる出血量、致命傷だと見ただけでわかった。子供の私にもだ。

 

 世界が、白黒になった。


 クラウシフが獣のような咆哮をあげた。護身用に佩いていた剣を抜き、躊躇なく魔族に斬りかかる。幸いにもその剣は、彼が先月、成人の記念に教会で祝福を受けたものだった。

 斬られた死霊のような魔族は二つに分かたれ、べちゃりべちゃりと湿った音とともに、草の上に落ちた。耳障りな悲鳴を上げて、女のそれのような青白い腕でかさかさと土を掻いていたが、やがて動きを止め、腐臭を放ちながら溶けていく。


 私の上からずり落ちそうになったハイリーの体が、横手から伸ばされたたくましい腕に支えられた。


「ハイリ……」


 眼の前に火花が散って、私ははっとして兄を見た。頬を張られた。初めてだった。自分がそれに見合うだけの失態を犯したのだと、自覚した途端震えが走る。平衡感覚すら危うく、座っているのも困難だった。

 震えているのは兄も同様だった。血まみれで力なくぐんにゃり寄りかかるハイリーを背中から抱き、顔色を白くしていた。


 ハイリーは右耳の下辺りから、左胸の上までざっくり切り裂かれている。傷は心臓の上を通過していて、血でよく見えないが切断面は複雑だった。もちろん意識はない。

 クラウシフが恐る恐る、彼女の体を草むらに横たえた。どう見ても助からない。白い喉笛に飛び散った血、上下しなくなった曲線を描く胸、薄く開いた唇から、血泡が混じった唾液が流れ出ている。


「ハイリー、馬鹿が、お前、なぜ……」


 何を言えばいいのか、わからなかったのだろう。クラウシフが掠れた声でつぶやき、彼女の頬に散った血を手の甲で拭った。その時、自分よりはるかに大人で肉体的にも頑健な兄にも対処できないことがあるのだと、私は衝撃を持って受け止めた。


 クラウシフが、私と同じ父譲りの黒い双眸をぎゅっと閉じ、強くハイリーの手を握った。こうしてみると、彼の手とハイリーの手はまるで大きさも形も違っている。

 そのハイリーの指が、ぴくりと動いた気がした。握っていたクラウシフからすれば、大きな反応だったはずだ。彼は目を見開き、ハイリーの顔を覗き込む。


「う……、あ……」


 喘鳴のようなそれは、断続的にハイリーの口から漏れ、やがて。


「クラウ、シフ……?」


 薄っすら開いたまぶたの下から、緑色の目が兄の顔を見つめた。まだ焦点は危ういが、それでもたしかに。


「ハイリー? おい、ハイリー、お前、意識が」

「い、……いたたた」


 まるで肩が張った、というような様子で自分の傷に手で触れた彼女は、むくりと体を起こした。

 ぎょっとしたのは、私たち兄弟である。


「お、おい、ハイリー、お前、傷は大丈夫なのか」

「大丈夫なわけが、あるか。死ぬ、ほど、痛かったぞ。……だが、ほら」


 ぐい、と彼女は自分のシャツの裂け目を手で広げてみせた。まだぬるつく血液を袖口で拭うと、そこにはちゃんとした皮膚があった。


「なにを呆けている。私の名前を忘れたか? 三英雄を祖に持つ、ユーバシャール家の長女、ハイリー・ユーバシャールだぞ」


 得意げに胸を張って、ハイリーは口角を上げてみせた。


「お前、……だってさっき、開きになりかけてたろう」

「くっついたんだから大丈夫だ。完治まで痛むが、もう行動に支障はないよ、きっと。

 まあさすがに、心臓が潰れても死なないとは、自分でも驚きだがな。なるほど、このくらいならまだ許容範囲か」


 あっけらかんとした彼女に、私は飛びつき泣きわめいた。謝罪と感謝を伝えようとしたのだが、きっと要領を得なかっただろう。泣きじゃくる私の頭を撫でてくれながらハイリーは「大丈夫、大丈夫だアンデル」「私はもう元気だよ、だから君も元気におなり」「ほら、泣かないで」と優しく語りかけてくれた。しなやかで温かなその腕に、何ものにも代えがたいものを感じ、涙が止まらなかった。


 無情にも我々を引き離したのはクラウシフで、彼は食事の時に使った敷布を広げ、血や泥で汚れたハイリーの体を背後から抱きかかえた。その抱擁は一瞬だったが、兄の心底安堵した表情も、ハイリーのかすかに潤んだ目も、私は見落とさなかった。


 その後、ハイリーはクラウシフの前に横座りさせられて、もと来た道を帰ることになった。馬の扱いに慣れてない私は、一人で手綱を取ることが不安だったが、ハイリーに無理をさせられないと、少ない勇気を振り絞ったのだ。


 ハイリーは、そこらの令嬢よろしく横座りで抱えられるのは不服らしく、ぶつくさ文句を言っていた。だがそのうち、力尽き静かになり、クラウシフの胸に寄りかかって、うとうとしだした。


 あとから聞いたことだが、ギフトで傷は治っても、失った血液や体力は瞬時には戻らないらしい。生存に必要な部位が優先して復活し、それ以外は後回しになる。完璧ではないのさ、と彼女は苦笑していたが、それでも構わない、その笑顔をまた見ることができたのだ、三英雄の(ギフト)にこれほど感謝したことはなかった。


 眠る彼女を労るように、クラウシフは時折、その頬を撫でたり、額に顎を擦り付けていた。まるで私はいないものというようなその態度。きっと、彼からしたら、私の存在など取るに足らないもので、愛おしいハイリーを失わずに済んだ僥倖を噛みしめることで夢中だったのだ。


 ユーバシャールの屋敷に戻ったクラウシフは、私を外で待たせておいて、小一時間して戻った。おそらく、ユーバシャール家の人たちに頭を下げてきたのだろう。

 私は自分でハイリーやその家族に謝りたいと思った。それでいて、いつも優しくしてくれた人々から冷たい軽蔑の視線を送られたら、罵詈雑言を浴びせられたらと想像して、身がすくんだ。それをちゃんとこなした兄の存在を大きく感じ、それまで薄ぼんやりと感じていた彼への畏敬の念を、はっきり自覚した。ハイリーの死を前にしうろたえていた彼は、それでもやはり、私の兄だったのだ。


 

 帰宅した途端、兄は父に横面を殴り飛ばされた。父が暴力を奮ったのは後にも先にもなかった。よその家の娘を大怪我させたのだ。彼の怒りももっとも、と私は思った。だが叱られるべきは、不用意に魔石に触れた私であって、兄ではない。


 私は、私こそがすべての元凶だと父に説明したが、その場にいて私を監督しきれなかった兄の責任だと父は譲らなかった。


「ユーバシャールの娘だったからよかったものの、他の家の娘だったら? 死ぬまで面倒を見ることになったのだぞ。怪我で子供も産めないような娘を、娶らねばならなくなったら、どうする気だったのだ」


 ただ、父と兄は責任感のあり方が違ったようだ。


 父のその言葉を聞いた兄は、それまでのうなだれているだけの殊勝な態度をかなぐり捨て、そばにあったサイドテーブルを拳で叩いた。木製のテーブルの三本足の一本が折れ飛んで、壁に当たり重い音を立てた。テーブルの残骸は、ごろりと床に転がる。すでに兄が、父より肉体的な優位を誇っているのは明らかだった。


 私はすくみあがった。私の頬を張ったときとは違い、兄の目には最高純度の瞋恚が燃え盛っていたから。


「ユーバシャールだったからいい? それは、ハイリーのギフトのことを言っているんですか、父上。あいつの傷は治り、犠牲になったのはシャツと、楽しいピクニックの時間だけだったと? そんなわけないだろう。あいつは傷ついた。その痛みは本物だ」


 クラウシフは、じりっと父との間合いを詰め、鼻先がつきそうなほど顔を近づけた。黒い瞳が、炯炯としている。父はその場で踏みとどまっていたが、兄の眼差しの熱量にまつげが焦がされる思いだったのではないだろうか。


「責任や体面が気になるのですか。完璧にそれを守りたければ、それこそ俺が彼女を娶るのが筋というもの」

「なにを馬鹿な。くだらない冗談を言っている場合か」

「冗談ではないですよ。俺は彼女を妻に迎えたい」


 兄は、断言した。一言一言をはっきりと言い切った。


 雷に打たれたのかと思った。その日はとにかく衝撃の出来事ばかりで、それが当日最後の雷だったと後から気づいた。


 にらみ合いから先に視線を外したのは、父の方だった。


「またその話か、クラウシフ。言っただろう、だめだ。ハイリー・ユーバシャールはだめだ」


 おそらく、兄はこれまでも、自分の未来の妻のことで、父と口論を続けていたのだろう。そのことを、遅まきながら私は知った。父は内向的で万事において消極的な私をあまり構わなかったし、兄は私の前で父と言い争うようなことはしなかったから、彼らの間でそんなことが話題に登っているなんて想像もしなかった。


 プーリッサでは、一般的に男性は十八歳、女性は十六歳くらいには結婚する。先延ばしにするのは、特別な事情がある者を除いて、進学したり一部の職に就くことが決まっている人間だけで、それは間違いなく裕福な家の出だ。兄のクラウシフもその年齢に差し掛かっていたのだ、話題に上らないわけがなかったのだ。


「……なぜ。なぜ、だめなんだ。みんな揃って反対する」

「前にも言ったろう。あの娘が、ユーバシャールの出だからだ。おそらく、お前が彼女に結婚を申し込んでも、向こうから断られる。理由は、――そのうち知れる」


 緊迫した空気を霧散させたのは、父の乾いた咳だった。このところ、父は嫌な咳を続けている。嘔吐しそうなほど苦しげな咳をする父に、クラウシフが手を差し伸べた。痩せた父の背を擦ってやり、彼は深く嘆息する。ひどく落胆したように。


 

「よう、アンデル」


 疲れた声。クラウシフがここまで弱った様子を見せたのは、彼が亡くなるまで数度しかなかったように思う。

 私は、バルコニーの手すりに寄り掛かって星空を眺める兄の隣に歩み寄った。父は眠りについた後だ。これで私がベッドをこっそり抜け出したのを知って怒る人間はない。


 私の背丈だと、クラウシフのように手すりに腕を組んで載せることはできないので、背中を預けた。晴天だ。星が美しい。


「昼間は、ひっぱたいて悪かったな。腫れちまったか」

「ううん、痛かったけど、……僕が悪い」


 お、一端の男みたいなことを、と兄は笑った。その笑い声が、夜風に消えていく。


「兄さんは、ハイリーと結婚するの」

「まあ……、そうしたいのは山々だがな。相手のこともある。今日、ユーバシャール当主名代のヘクト殿に挨拶したが、前線にいる当主殿の返答次第だとさ。……あんまり喜んではくれなかったな」


 父の前では断言してみせたくせに、弱腰だ。まだハイリーに気持ちを伝えたことはないのだろうか。


「僕、ハイリーのことが好き。ハイリーと結婚したい。でも、ハイリーが幸せになれるなら、……兄さんと結婚したほうが幸せだっていうなら、諦める」


 散々、部屋で泣き、目を腫らして出した結論を告げた。

 いくら十歳と数ヶ月の私でも、自分が滑り込む隙間もないくらい、クラウシフとハイリーの間には強固な信頼関係があるのだと、今日思い知らされた。失恋だった。

 認めたくない、認められないという気持ちもあったが、小賢しくも、こういった打算も合った。大好きなハイリーが兄の妻になれば毎日会えるじゃないか、と。なんと幼い発想だろうか。もしそうなったら、そしてもう少し成長した私が、相も変わらず彼女を想っていたら、毎日が地獄だったに違いない。


 兄は、破顔した。


「そりゃあ、ありがたいな。いや、本当にいいのかアンデル。俺がもらっちまうぞ、お前の大好きなハイリーを」

「……嫌だけど……」


 言いながら、鼻をすする。涙が出てきて、声が震えた。


「でも、ハイリーは、兄さんのことが好きだよきっと」

「そりゃーどうだかわからんが。あのお転婆は……。

 まあ、ありがとうな、アンデル。どうにか頑張ってみる、まずは、うちの偏屈な父上を説得しなきゃな」


 泣きじゃくる私の頭をぽんぽん叩いて、クラウシフはわずかに元気を取り戻した声でそう言ったのだ。たしかに。

 

 だが、一年後、彼は別の女性を妻に迎えた。


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