#54 ハイリー 裏切りと呪縛
ふと気づくと、廊下を歩いていた。私は、何をしていた? 直前の記憶が曖昧で、寝起きのように頭がはっきりしない。
隣には、――アンデルがいた。私の手をとり、歩調を合わせて歩いている。きっちりした上着を羽織り、まるでよそ行きの格好だ。
そういえば、私もこんな格好をしていただろうか。ゆったりとした白い服。釣鐘型の袖は繊細なレース生地で、私の腕の筋肉を絶妙に隠してくれている。胸の下で絞り、ストンと落ちるスカートは品が良くて好ましい。
服というよりはドレスだ。やや年代物で、私の所持品でないのは確かだ。こんな格好、数年していなかった。
着飾って、アンデルと手をつないで歩くだなんて、なんだか嬉しくなってしまう。ふふ、と吐息が漏れた。斜め上から視線を感じた。アンデルがこちらを見ている。
楽しい気分は霧散してしまった。
アンデルは、悲痛な顔色をしていた。いつだったか、彼のこんな表情を見た。イェシュカの葬儀の日だ。
「アンデル、何がそんなに辛いんだ? 具合でも悪い?」
口を中途半端に開いたが、ついぞ何も言わず、アンデルは前を向いた。唇を噛み締めている。私の手を握る力がかすかに強くなった気がする。
「アンデル……?」
アンデルが足を止め、私もそれに倣う。ドアの前に、クラウシフが立っていた。こちらは、シャツの上にガウンを羽織っただけの簡単な格好だ。
「ハイリー、代筆屋はもう到着している。さっき説明したが」
「わかっている、書類を確認して……」
「サインをする。それでお前たちふたりは夫婦になる」
「夫婦に――」
そうだ。そうだった。私とアンデルは今夜、略式ではあるが婚姻の届けを出し、夫婦になる。私は軍籍を抜け、シェンケル家の一員になる。クラウシフが死ぬ前に、次期当主のアンデルの支えになろうと、前線から急ぎ戻ってきたんだった。
この白いドレスは、クラウシフの母君のものだ。イェシュカが着たものや、アンデルの母君のドレスは、私には小さすぎた。ちょっと型が古いがと前置きつきでクラウシフのやつが用意していたんだ。
余裕があれば、ちゃんとした式を挙げられたのにと、わずかばかり悔いは残るが、それは言うまい。非常事態なのだから。
ああ、そうだ。非常事態だ。長い腐れ縁のひとつが終わってしまう。それがきっかけでの、婚姻。本意ではなかった。最善でもなかった。だが、嘘偽りない気持ちを言えば、少しだけ、嬉しい。
ちくり胸が痛んで、小さく頭を振った。何を馬鹿な。喜んでなどいられないだろうに。
クラウシフが開いたドアの向こうには、バルデランともうひとり見たことない男が待っていた。見知らぬ男は、かっちりとした格好で、国の紋章が刻まれたピンをつけているところから、代筆屋なのだろう。
テーブルの上に、インクとペンが用意され、その隣には書類が置かれている。さらに横に、どこかで見たことのある首飾りが並べられていた。金の華奢な鎖の先に、琥珀色の石が三角になるよう繋げられたものだ。
私はアンデルとともにテーブルの前に立った。代筆屋が名乗り、国から与えられている権限を一通り説明した。
「それでは、略式の婚姻の儀を執り行います。まずは氏名の確認を。あなたはアンデル・シェンケル。そしてあなたはハイリー・ユーバシャール。間違いありませんね」
うなずいた私たちを見て、男がうなずき返す。
「では、宣誓の言葉を互いに述べ、誓いの口づけ、それからサインを」
「ひとつ注文をつけていいか? これまでの慣例に則って、シェンケルの家宝である首飾りを、口づけの前に新婦につけさせたい。もちろん、新郎の手でだ」
「構いません」
口を挟んだクラウシフが、満足げにうなずく。
アンデルに預けていた手が、きゅっと強く握られた。少し上を見ると、深刻な顔をしたアンデルがそこにいた。緊張しすぎだ、唇を傷つけるほど噛みしめるなんて。あとで、――この宣誓が終わったら、薬を塗ってあげないと。
苦笑し、私は黒い双眸を見つめる。クラウシフのこれからのことを思うと、笑顔になれないだろうアンデルの苦悩を、少しでも軽くしてあげたくて、手を握り返した。
「おい、アンデル。いつまでだんまりを決め込むんだ。感極まるのはわかるが、これじゃハイリーがサインできないだろ。ほら、もう話していい」
クラウシフは代筆屋の斜め後ろに、バルデランに腕を支えられて立っている。まったく、いつでもふざけたやつだな。アンデルは君と違って、思慮深いんだ。冷たい視線を送れば、クラウシフは肩をすくめて口を閉じた。
「ハイリー」
ようやく、アンデルが名前を呼んでくれて、私は視線を上げた。すっかり、私より高くなった目線。黒い双眸に自分が映っているのがなんだか気恥ずかしい。
「いつか僕があなたに言ったことを覚えている? 僕があなたのナイトだって」
「忘れたりしないよ。絶対に、一生忘れたりしない」
誓って、忘れることはないだろう。あの言葉は、あれからずっと私を支えてくれた。仕事でくじけそうになったとき、嫌なことが続いて心が折れそうになったときもそうだ。
アンデルの婚約の話を聞いた時は、いつか美しい思い出に昇華されるだろうと、苦味を噛み締めたりもした。たとえ彼と結ばれなくても、私は――。
――いや、何か、違和感が。
たとえば進軍中、目の端にちらりと映ったかすかな影のような、見逃せない違和感があった。一体、何? 軽い頭痛がする、体調不良などしばらくなかったのに、どうして今?
深く考える間もなく、アンデルが言葉を続けるので耳を傾けた。
「ありがとう、ハイリー。僕のことを信じてくれて。僕は……あなたのナイトになれたかな」
「もちろんだよ、アンデル」
私の返事を待たず、アンデルは手を伸ばし、テーブルの上にある首飾りを手にとった。首飾りの琥珀色の石が、ふんわりと赤色に変化した。
ああ、どうりで見たことがあると思った。イェシュカがクラウシフとの結婚式で身につけていた首飾りじゃないか。石の色が違っていたのか。不思議な石だ、どうして赤色になったのだろう。
自分の鎖骨を飾る首飾りを眺めていたら、そっと頬に手を添えられる。
反射でその手の甲に自分の手のひらを重ねていた。
「ハイリーずっとずっと、大好きだよ」
まだ私の宣誓が済んでいないのに、このまま誓いの口づけを? うっかりしている彼が可愛らしく思えて、自然と口の端があがる。
「ああ、私も君のことが――」
夜空のように黒いアンデルの瞳が一瞬、きらりと光った気がした。
きん、と小さな音がした。テーブルの上のペンが、勝手に跳ねた。よく見れば、先程まで白銀色だったペン先が、赤錆に曇っている。
また軋んだ音がした。今度は、断続的に、ぎしりぎしりと音が繰り返す。窓だ。窓枠の鉄の部分が、火花を散らしてみるみるうちに錆びついていく。
室内の空気が重苦しく、ねっとりと熱を孕んでいく。急に湿度を増し、その存在を肌で感じられるよう。目には見えぬ何かが、室内に満ちようとしている。それが何か、戦場で魔族と対峙してきた私には心当たりがあった。
濃密な魔力だ。体中の産毛が逆立つような不快感が、どんどん強くなっていく。ますます濃度を増す魔力の発生源は、いっそう威圧感があり、すぐに特定できた。
「アンデル……!?」
視界が赤く染まっていた。胸元が熱い。首飾りが激しく発光している。
私の呼びかけに答えず、アンデルは体を離すと、クラウシフの方へ向き直った。クラウシフは苦笑していた。魔力に当てられて気絶したバルデランと代筆屋が転がっているが、その前に立つクラウシフ自身は平然としている。
むしろ、平然としていないのは、魔力の発生源になっているアンデルの方だ。鼻腔からたらりと血が垂れている。血の混じった涙をこぼしながら、決然とした表情でクラウシフを睨みつけている。彼のこめかみで、ぱちぱちと小さな青白い火花がひっきりなしにきらめく。
「おい、よせよアンデル。自分に魔力を注ぎ込んで俺の呪縛を無理やり解こうなんて、お前の頭がどうにかしちまうぞ」
「僕は、そん、なこと、……かまわな、い」
「俺を安心して死なせてくれるつもりはないってか。たとえ傀儡だとしても好いた女と一緒になれるんだぞ、幸せだとは思わないのかよ」
「思わない!」
熱風が、室内に吹き荒れた。天井に吊るされたシャンデリアも、壁に飾られていた剣の柄も、ドアの蝶番も、派手に火花を散らし、瞬時に錆びつく。
「アンデル!」
私は、体を半分に折って床に倒れ込んだアンデルに駆け寄った。アンデルの口の端からはあぶくが吹き出し、目はうつろだった。彼の身体は今や激しく痙攣している。
「アンデル?! アンデル、しっかり!」
ひきつけを起こしているアンデルが舌を噛まないように、無理やり口の中に指を突っ込んだ。咬傷の鋭い痛みが指から背筋に突き抜ける。
なにがどうなっている? アンデルはなにをしようとした?
いろいろなことに理解が及ばない中、急速に頭にかかっていた靄が晴れ、思い出したこともある。私はクラウシフに操られていた。そして、アンデルに助けられ――くそ、何が婚姻だ、ふざけるな。
「おいクラウシフっ! お前どうにかしろ!」
動かず片目を眇めたクラウシフに見切りをつけ、私はアンデルの暴れる手足を自分の体で押さえつける。食いしばられた歯が指にめり込むが、彼が床に頭を打ちつけないよう、そのまま耐えた。
ふつりと、アンデルの身体の緊張が解けた。
呼吸は乱れ、心拍も異常に速いがどちらも止まってはいない。
「それで守ったつもりか? 馬鹿なやつ」
嘲りというよりは呆れた様子でクラウシフは深いため息をついた。失意のそれに見えた。
テーブルを一挙動で飛び越え、クラウシフの襟を掴んで床に引き倒す。右手で彼のこめかみをつかみ、左手で襟を締め上げる。わずかに右手を動かせば目を潰しそのまま脳を抉ってやれる。
クラウシフは受け身もとらず、されるがままだ。
「言い訳は考えてあるんだろうな。お前を殺さない理由がない。どういうつもりでこんなことをしたか全部吐かせて、そのあと気が済むまでいたぶって惨めに殺してやる」
「命乞いしたところで数日の延命に過ぎないだろうよ」
苦笑された。アンデルと同じ色の目は、言葉とは裏腹に余裕がない。
「では死ね。私とアンデルを侮辱したことを死んで詫びろ」
「ハイリー、俺は……は……」
クラウシフの声の調子が変わった。かと思えば、彼は胸を押さえ苦しげに息を乱した。額に汗がぷつぷつと沸いている。低い唸り声を上げ、手足をつっぱらせ歯をくいしばる。
呪いの発作か。このタイミングで。
いっそ死んでしまえ。
だが、この顛末の説明を聞かないことには、という気持ちもあって、すがりつくように握りしめられた手を振り払うだけで、追い打ちはかけなかった。苦悶するクラウシフは助けを求めているのか、復讐におびえているのか、かっと目を見開いて私から視線をはずさない。睨み返す。勝手に苦しめ。
発作が終わるとがくりとクラウシフが床に伸びた。今になって意識を失ったようだ。
「……どうしたことだか」
床でこの屋敷の主たちは昏倒している。ドレスの私は深いため息をついて立ち上がった。




