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#53 ハイリー 破断の音

 ノックもせずに、クラウシフがドアを開けた。

 天井の真ん中にあるすずらん型の照明だけが点灯していて、部屋の四隅は暗い。カーテンは閉じられ、外は見えない。ベッドの上に白いシーツが盛り上がっていた。アンデルが枕に頭を預け、目をつぶっている。


「アンデル、ハイリーが来てくれたぞ」

「眠っているなら起こす必要はないよ」


 私が小声でたしなめると「もう夕飯だから起きるべきだろ」とクラウシフは部屋に踏み込んだ。後に続く。


 頬をこけさせて、目を閉じているのに疲れ切っているとわかる顔色で、アンデルは眠っていた。寝息は規則正しく弱々しくもない。そのことに安堵した。


「アンデル、起きろ」


 クラウシフの言葉に反応し、アンデルがまぶたを上げた。数度瞬きし、隣に立つ私たちに焦点を定める。黒い目が大きく見開かれた。


「ハイリー……、どうして。どうしてここに? 手紙は、……僕の手紙は、……間に合わなかったの?」


 焦ったように言いながらも、動けないのか彼はベッドに仰向けに寝そべったままだ。


「手紙? もしかしたら行き違いになってしまったのかな。それより大丈夫か? 顔色がよくない。汗がこんなに」


 みるみるうちにアンデルの額には汗が浮き出て、顔色が白くなってきた。今ので興奮してしまったのか。その汗を指の腹で拭ってやる。


「だめだ、すぐに帰って。ここにいては良くないことが」

「落ち着けよアンデル。深呼吸だ」


 クラウシフが苦笑交じりに諭す。アンデルは唇を噛み、ぎゅっと目をつぶると数度深く息を吸っては吐き、おとなしくなった。


「大丈夫だよ、アンデル。クラウシフの呪いは、本人が死ぬだけで、そばにいる人間には影響はない」

「だけとはなんだ、酷いやつだなお前は。

 まあいい。アンデルの首も拭いてやってくれ。体が冷えちまう」


 クラウシフが、チェストの上にあったリネンを私に向けて放った。空中で受け止め、彼を睨む。ちょっとの距離なのになにをわざわざ放り投げる必要があるのか。


 私はアンデルのシャツのボタンを二つ外し、そのうっすら汗ばんだ肌を拭いてやる。はっとしたようにアンデルが頭を浮かしかけたが、すぐに枕に戻った。大丈夫、気にするな、と笑顔を作ってみせたのだがその意図をちゃんと読み取ってくれたんだろう。


「顔色が悪いな、ちゃんと眠れているの?」

「……眠れ、なくて……」


 絞り出すようなその声に胸が締め付けられる。クラウシフのこと、自分の婚姻のこと、今後のこと、それを考えればゆっくり休めなくて当然だ。


「ハイリー、アンデルがよく眠れるようにキスをくれてやれ。おまじないだ」

「兄さん!」


 そんなものに何の効能もないだろうが、……アンデルの気が休まるなら。照れているのか気色ばんで兄を睨むアンデルの額の髪を手でどけて、そっとそこに唇を落とす。滑らかでひんやりしている。熱はなさそうで安心した。


「よかったなアンデル。なんだよその目は……ああ、足りないって? 俺がいたらそれ以上をハイリーにねだれない? いいさ俺が代わりにねだってやる。ハイリー、悪いな、欲しがりな俺の弟の唇に、お前の口づけをくれないか」

「――クラウシフ!」


 アンデルが顔をさらに白くして、怒鳴った。

 私も躊躇して動きを止める。アンデルの剣幕に驚いた。それだけではなく、私の中の常識がそれに待ったをかけた。


「……いや、それはさすがに。その冗談はかなりたちが悪いぞ」


 さっき私が仕方なく許容したあの行為を、誰彼かまわずすると思われてはたまらない。この先はもっと親密な間柄、恋人や夫婦にのみ許されるべきで、アンデルともクラウシフとも、私はどちらの関係でもない。なによりアンデルにはそれにふさわしい相手が、正式な婚約者がいるのだから。

 睨みつけて、ふざけるなよと視線で語ったつもりだった。


「冗談じゃない。ハイリー、アンデルに口づけろ」


 クラウシフは笑みを捨て去り、真顔で言った。

 なぜ君に命令される?


「悪ふざけはそのくらいにしろ、クラウシフ」


 だが咎める言葉を吐く口とあべこべに、私の手はアンデルの頬に置かれ、そっと顔を近づけていた。

 おかしい。どういうことだ? 


「だめだ、……ハイリーだめだっ」


 焦ったように言うのに、アンデルもその場から逃げようとしない。


 違和感が確信に変わる。異常を察し、戦場と同じく自分の身体の損害を確認し、現状の認識を改める。混乱しつつも、速やかに。


 幻術(まやかし)の類ではない。五感は正常、悪夢にしてはちっとも驚異を感じず、欲望の夢ともいいきれない。前歯で舌先を噛めば鋭い痛みとともに鉄の味がする。

 これは現実だ。


 ではなぜ私の身体は意に反して動く? 似た現象を知っている。魔族による服従の呪いだ。体の主導権を奪われる。意識の一部を乗っ取られてそうなるという仮説がある。いつそれをどいつにかけられたか、心当たりがない。


 自分の慢心を悔いてるわずかな間にも、アンデルに唇を押し当てていた。彼の唇はかさついているが皮膚が薄くてとても優しい触感だ。


 アンデルが苦しげに呻きながらも、私の背に手を添えて自分の方へ引き寄せる。私はベッドに乗り上げて、アンデルの身体をまたいで伸し掛かった。スカートだというのに、布地をからげる。おい、やめろと命じても、体は言うことを聞かない。


 シャツから覗く白い素肌を撫でる。骨が浮いた華奢な体つき。それどころではないというのに、体温に、においに、うっとりしそうになる。


 クラウシフがこちらを見ている。そのことを思い出して現実に引き戻される。


 なに陶酔している、馬鹿者! 戦場だったら即死だ。

 唇を重ね合わせたまま、できる範囲で確認する。身体のどこかに異物が刺さった様子はない。音による干渉を行う魔族もいるが、ナイトテーブルの上のガラスの水差しの水面は凪いでいる。アンデルと私とが歪んで写りこんでいるだけ。光による精神干渉もありうるが、それらしき光源が室内に見当たらない。


 そもそも、幻術による精神撹乱や外的な刺激による精神操作はほとんど私には効かない。唯一、気をつけなければならないのは、効果が比較的大きい毒物による体内への直接攻撃だが、それさえいずれ分解されてしまうから、長時間の効果はでない。


 ――毒物?


 私はこの家に来て、お茶も口にしていない。唯一口にしたものといえば――クラウシフの血液だ。


「クラ、ウシフっ、お前、どういうっ!? なに、した」


 口づけに阻まれきちんとした声にならない。いや、もはやこんなものは口づけではない。私が口を開いたはずみで、クラウシフにしたのと同じように、アンデルの唇も傷つけてしまったらしい。血の味がする。

 クラウシフは首をかしげ、脚を組み替える。黒い目は、私を見ていない。


「さて、子供だましの口づけじゃあ、ハイリーを手中に収めることはできない。アンデル、次期当主の勤めを果たせ」

「いや、だ! いやだいやだいやだっ! 兄さん、やめて! お願いだからっ、クラウシフッ!」


 アンデルの泣きそうな声が聞こえる。慰めようにも、私は彼の肩に噛み付いていて、何も言うことが出来なかった。ぎりぎりと、シャツ越しにアンデルの肩の肉に歯を食い込ませる。血の味がさらに濃厚になり、慄く。それなのに、顎は意思に反して緩んでくれない。

 なぜだ。私のギフトはなぜ働かない? 口にしたものが完全な毒物ではなく、ただの血液だから反応していないのか?


 そうこうしている間に、アンデルの細い手首に爪を立て、深い引っかき傷をつけてしまった。引っ掛けた爪で感触がわかるほどの、深い傷だ。肩口から唇を離し、今度は手首の生傷に舌を這わせる。


 自分の体が、自分の力が、まったく制御できない。

 息が荒くなる。口の中に広がる、アンデルの血の味に頭が白くなっていく。


 怖い。怖い。……怖い。


 イズベルを傷つけるテリウスが、完全な魔族に見えていた。愛しているだなんて情を言い訳に、相手を傷つけるなんて愚かだと嫌悪していた。

 それなのに、今の私は……?

 私が掴みかかっているのは、泣き出しそうな顔をしたアンデルで。――そんな顔をさせたくないのに。


 せめて、自分の舌を噛み切れたら。あるいはアンデルの机の上にあるレターナイフで自分の体を刺すことができたら、もしかすると回復のギフトが働いて、この状態を脱せるのではないか?

 思いつくものの、体の自由は効かないまま。


「やめて……っやめてくれっ、ハイリー、ハイリーハイリー! お願いだから、にげて。僕を、……僕を殺して! こんなのだめ」


 目をぎゅっとつぶって、苦しげに吐息をもらして、弱々しくアンデルが呻く。


「アンデル。うるさいぞ。お前がハイリーを不安にさせてどうする、()()()()。その程度の傷で死ぬわけないだろう」


 ぐうっとアンデルが唇を噛んだ。皮膚が破れ、血が垂れてくる。


 なぜクラウシフはこんなことを。私にアンデルの血を吸わせるなんて、魔族の真似事をさせる。

 その上、見世物として面白がることもなく、厳格な裁定者の顔でそこに居座るのはなぜだ。


 疑問がぐるぐる頭の中を駆け巡る。


「仕上げだ、やれ、アンデル」


 クラウシフが命じ、私はようやくアンデルの傷口から顔を離すことができた。

 涙の膜を目に張ったアンデルが、ぎこちない動きで私の頬を包む。大きな、ひんやりとした手。クラウシフと同じ体温の手だ。


 そっと眦を親指の腹で撫でられ、目をつぶり――。


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