#52 ハイリー 口付けは死のにおい
歯がクラウシフの唇に刺さったのだろう。鉄臭さが口中に満ちる。突然のことに一瞬ひるんだが、よく考えたらなぜ私がこの無礼者に遠慮しなければならないのかと、ふつふつと怒りが沸いてくる。
いまだ離れようとしないクラウシフの唇を、強く噛み締めてやる。食いちぎられたくなかったら、手を離せ。
間近から、クラウシフの黒い目をにらみつける。
影になって感情が見えない目。噛み付いたまま頭突きしてやったら、どれほど痛いのだろうか。実行直前で、ふと拘束を解かれた。
「殺されたいのか貴様」
「いて……、食いちぎるつもりかよ、じゃじゃ馬め。死に際の幼馴染の戯れなんだから、ちっとは遠慮してくれよ」
「私の幼馴染はもうとっくに死んだようだな。勝手に女の唇を奪うような破廉恥な男と、知り合いになった記憶はない」
ごしごし、唇を手の甲でこすった。こんなことをしてなにがいいのか、まったくわからない。イズベルとテリウスも恍惚としていたし……イェシュカだってビットと楽しんでいたのに。ちっとも心地よくなんかなかった。
そうだ、イェシュカ。
親友の夫とこんなことをするなんて。
罪悪感と嫌悪感が瞬間的に膨らむ。
唇の違和感が拭いきれない。口の中の血の味を消したくて、意識して唾液を飲み込んだ。無礼者相手とはいえ、室内につばを吐くのは下品だ。片付けるのはクラウシフではないだろうし。
「なあ、最初にお前の唇を奪った幸運な男は誰だ?」
「誰ともこんな気持ち悪いことをしたことない」
答える必要もない質問に何故答えてしまったのか。よくわからない。あまりの悪びれなさに、怒る気も失せてしまった。どうしてだろう。とりたてて騒ぐことでもない、この男はいずれ死ぬのだと妙に落ち着いた気分で納得する。
クラウシフは私の唇を親指の腹でそっと拭って、子供にするように頭を撫でる。触るな、とその手を払ってやった。拭うならお前の唇から垂れている血を拭え。
顔をしかめながら、彼は自分の唇の傷を舌でぺろりと舐める。血は止まらず服を汚している。
見かねて私はハンカチを投げつけた。
血を白いハンカチに吸わせながら、クラウシフが苦笑する。
「初めてだったのか。アンデルには謝るしかないな。
ところでハイリー、もう少しだけおしゃべりに付き合ってくれてもいいよな、代筆屋が来るまでなら」
「謝るなら私にだろう。それと、おねだりはひとつだけだったんじゃないのか」
「あとからあれもこれもと思い出すのが人間ってもんだろ。な、いいだろう? しばらくゆっくり話してなかったし、このところバルデラン以外としゃべる機会もなくて気が滅入っていたんだ」
「どこまでも図々しいな。私も君くらい図太ければよかった」
「お前、近頃アンデルに手紙を書いてなかったそうじゃないか。どうした?」
なんでクラウシフにそんな話をしなければならないのかと思いながらも、どうせ死ぬ男に隠し立てしたところで意味もないと投げやりな気持ちになって、本心を言葉にした。
「私にだって遠慮くらいはあるよ。……アンデルも手紙をくれる頻度が下がったし、いい機会だと思っただけ」
「ふうん……ああ、アンデルが婚約したのは知っていたんだよな、それでか。ははは、いじらしいところもあるじゃないか。どこぞの小娘からあいつを奪ってやろうって気概はなかったのか」
「なぜそんなことをする必要がある。彼女と結婚すればアンデルは幸せになれるとわかりきっているのに」
「お前は自分が幸せになろうとは思わないのか?」
「私は今の生活に満足している。それに、とうに結婚なんか諦めた身だから」
「アンデルがもしどうしても、と言ったらどうするつもりだった?」
「それは以前も答えた。私は結婚しない。
そもそも、結局そんな展開はなかったんだから考える必要があるか?」
「一緒に逃げようと言われるのを、待っていた?」
横面を殴ってやったらさぞせいせいしたろうに、それすら無意味だと先に諦めがたつ。頭の奥が爪で引っかかれたようにチリチリ疼いたが、一瞬の不調で終わる。
「言われなかったんだから考える必要もないだろう。というかそういう言葉を吐いておいて、反故にする男だっていたわけだしな」
「おー、根に持ってるな」
「忘れてないだけだ。気分の悪い思い出としてな」
「……アンデルから同じことを言われたらと考えたことは? そうなったら手を取り合って逃げる気はあったのか?」
アンデルと私の関係に何故こだわるのかわからないが、答えないと続くというのか、この嫌な質問が。ならばいい、答えてやろう。
「しつこいな。ああ、無様にも夢見たりしたさ、笑えばいい。だがな冷静になって考えてみろ、年齢も、家柄のことも、互いのギフトのことだって、私達が一緒になれる条件はひとつもないんだ。それがわかっていて、彼の未来を摘み取るような真似ができるか? アンデルが幸せになれるんだったら、私はそれで満足だし、そうすべきだと思うだけだ」
言ったそばから猛烈な後悔に襲われる。
みみっちい、分不相応な自分の気持ちを吐露したのだ。見ないで殺してしまおうと思っていたのに。
クラウシフは、嘲笑したりはせず、穏やかに言った。
「そこまで想っておいて、最後に譲るんだな。理解できん」
「してほしいなんて思ったこともないな。君のように相手のある人を奪ってまでという破滅的な愛情は、私にも理解できないよ」
「理解できないのは、お前の愛情深さだよ。
……さて、そろそろ、居間に行こう。そうだ、アンデルも立ち会わせよう。部屋に呼びに行くぞ」
「いや……」
後ろめたい気持ちになって、私は口ごもった。
少しのあいだ忘れていたさっきの口づけの気持ち悪い感触が、急に思い出される。
「行くだろ? アンデルだって、せっかくお前が来てくれたのに自分のところに寄ってくれなかったら、寂しがるぞ。それともなんだ、顔を見たら決心が揺らぐか?」
「そんなわけないだろう。君と違って言ったことを翻したりしないぞ私は。具合の悪いあの子を同席させる必要はないと思っただけだ」
「アンデル自身にだって関係あることだぞ?」
「……たしかに、そうだな。アンデルが動けるなら、呼ぼう」
そこまで反対することでもないか。アンデルの調子に合わせて判断すればいいのだ。
のっそりベッドから降りたクラウシフが先導してくれる。どういう風の吹き回しか、子供の頃だってしたことないのに手を繋がれた。剣ももう握らないくせに、私のものをすっぽり覆ってしまうほどの大きな手。妙に体温が低い。短距離を歩くだけなのにこれが必要なのか? まあ、死ぬ間際にしたいことがあるなら、このくらいなら付き合ってやらないこともない。心の広い私に感謝しろ。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、クラウシフはにかっと歯を見せた。懐かしい顔だ。
「本当に、お前は傲慢で残酷で驚きのお人好しだ。だが、決めたことは絶対にやり抜く奴だ。前線で身体を張って生きてるとんでもない女だからな」
「おだて方が下手だな。これ以上のお願い事は聞かんぞ」
廊下は無人だ。人の気配がまったくない。子どもたちがいないからというだけではなくて、夜だからというだけでもない。いつの間にか点灯した天井の照明が、ぼんやりと黄色い光を床に投げかけている。
「ただの希望だ。俺はお前とアンデルが幸せになってくれることを祈ってる。祈ってた。そうなるように努力もした。昔から……今もだ。
だからお前たちには夫婦となってほしかった。お前はきっとアンデルを守り導いてくれるし、アンデルもお前となら人生を謳歌してさまざまな可能性の花を咲かせていたろう。
それにお前たちは想い合ってた。俺には望むべくもない関係だ。忌々しいくらい羨ましかったぜ。俺だってイェシュカにそのくらい愛されたかったな」
「クラウシフ、気持ちが落ち込んで仕方ないこともあるだろうが、しっかりしろ。それは体が不調だから起こる精神的な不調だ」
「だが、それでも、お前たちが二人でいれば……俺のそばにいれば、万事うまく行く気がしていたんだ。そうなるところも見てみたかった。たとえ、形がいびつだったとしても。不本意な成り行きだったとしても」
私の言葉を聞いているのかいないのか、クラウシフは上機嫌に話し続ける。興奮している様子はないし、勝手にぺらぺらしゃべっているだけで、具合が悪そうなところもない。話したい気分なんだろう、付き合ってやるか、と聞き流して、彼が足を止めたので私もそれに倣った。何度か訪れたことのあるアンデルの部屋の前だ。




