#4 アンデル 遠がけに行った日 前
プーリッサでは、六歳から九歳までを、地域の教会等で読み書きや初歩的な計算、歴史などを学ぶ初等教育の対象と定めている。
十歳になると、中等教育課程に進み、地域にある学舎に通う。
十六歳から十八歳までの高等教育課程に進むのは、一部の裕福な家庭の子供や優秀な子供に限られ、大抵十五歳で学舎を離れ、社会に出ることになる。
家庭の事情で、初等教育さえまともに受けられない子供もいる。
高等教育課程の学舎は、国内に数箇所設けられていて、その大多数が中等教育課程の教室も併設している。私が通った学舎もそれで、十歳になり中等科一年になった私と、高等科最終学年の三年生になったクラウシフは、同じ建物に通った。
その学舎にはハイリーもいた。
教室が違うから、毎日会えるわけではない。それでも、クラウシフを見つけると大抵近くにハイリーもいて、私が手を振れば彼女も笑顔で手を振り返し、声をかけてくれる。たまらなく嬉しかった。
学舎では、服装は基本的に自由で制服もある。金銭的な事情がない限り、生徒はほとんど制服だった。強制ではない制服の取り入れは、生徒が家柄などでいらぬ摩擦を受けないための配慮だ。
クラウシフはしょっちゅう制服を汚すので、普段は私服で必要なときだけ制服にしていた。その制服もだらしなく着崩して父によく注意されていたが。私は目立ちたくないので、制服を規則通りに身に付けていた。
ハイリーも制服を着用していた。シンプルなシャツに、灰色がかった紺色のスカート姿。普段はパンツを好む彼女が、長いスカートを翻し茜色の髪を揺らして歩く姿は、見るだけで心が弾んだ。
◆
「アンデル、友達はできた? 勉強でわからないところはない?」
とある日の昼下がり。
学舎の裏庭の木陰で本を読んでいた私を見つけ、ハイリーが声をかけてくれた。木漏れ日が彼女の白い頬に複雑な陰影を落とし、頬の輪郭を金色に光らせていた。
この場所は、クラウシフに教えてもらったのだ。人が来なくてゆっくりできると。当然、彼と親しい人間は場所を知っている。ハイリーもたまに息抜きに来ると聞いて、私は彼女との邂逅を期待し、足繁くここに通っていたのだ。
「友達は、……ぼちぼちだよ。それよりハイリー、次はいつみんなとうちに来るの?」
ぼちぼちというのは嘘だ。まったく、誰一人として、私に友達はいなかった。話しかけてくる相手をことごとく避けていてはそうなる。兄たちに構ってもらうことに慣れきっていた私は、自分から誰かと距離を詰めたり、同年代の友人を作る必要性を感じなかった。話が合わないと感じることも少なくなかったから。
「うーん、いつと言われてもなあ。このところ忙しくて」
ハイリーの言葉に偽りはないだろう。あと一年で卒業する彼女たちは、その後の進路の確保に動いているころだ。兄も、父にくっついてよく城に出向いている。父の補佐をしながら、その仕事を覚えようとしているのだろう。となればハイリーも、軍に入るための試験や手続きがあるのかもしれない。わかっていても寂しさはごまかせない。
くい、と彼女の袖を引く。
ハイリーは困ったような笑顔を作って、頬を掻いた。
「わかった、来週はまだ予定が空いているからうちにおいで。なにかしたい遊びをしよう」
「お話を聞かせてほしい……ううん、やっぱり、乗馬を教えて」
「いいとも」
お話を聞かせてもらうのも好きだったが、ハイリーに乗馬を教えてもらって私の馬術を馬鹿にする兄を見返してやりたい気持ちが勝っていた。
約束が果たされるまでの日を、私は指折り数えていた。
そして当日の朝、大いに落胆した。
「おい、早く支度しろよ。ユーバシャールの家に行くんだろ」
なぜか、よそ行きの格好をしたクラウシフが、馬を引いて庭先に出ていた。ハイリーは自分だけを誘ってくれたのではないのかと、私は落ち込まずにいられなかった。
「なんだよ、行きたくないなら、俺だけ行くぞ」
「いやだよ、僕も行く」
挑発に乗って私は馬によじ登り、兄の前に座った。乗馬クラブに所属する兄は乗馬が得意だったが、そうではない私は慣れない揺れですぐに疲れ、一時間ほどで到着したユーバシャールの門扉を抜けるころ、既にぐったりしていた。
そんな私を、ハイリーは氷菓を出してもてなし、世話を焼いてくれた。クラウシフは、屋敷に到着するなり、ハイリーの兄のひとりとどこかへ消えた。
「クラウシフ? ああ、兄上になにか聞きたいことがあったらしいな。頼まれて私が日程調整したんだ」
クラウシフが向かった方へちらっと視線をやって、ハイリーは首を傾げた。要件は聞いてないようだ。
兄の主目的はそちらだったのか。そうならそうと言ってくれれば、私もやきもきせずに済んだのに。
ハイリーにもらった冷えたレモン水でさっぱりして、私は直前の不機嫌さをすっかり忘れてしまった。
彼女は白いシャツに暗褐色のパンツ、スネまでのブーツと、動きやすい格好をしている。シャツの襟にはビーズをあしらった見事な刺繍が施されていた。母君のお手製のシャツだそうだ。
「ハイリーも、兄上たちと同じように軍に入るの?」
「そうだよ。先日正式に決まったんだ。前線基地への配属になる。
卒業して前線基地に行ったら、しばらく帰ってこられないだろうな。一年くらいは」
「そんな……」
「そんな顔をしないで、アンデル。まだ一年近くあるし、向こうへ行ったら手紙を書くよ。休みが取れたら帰省する」
じっと彼女を見つめると、弱ったような顔をされた。抱擁される。温かで甘い香りがするしなやかな腕。母が亡くなってからは、この腕の中でだけ私は真に安堵できるような気さえしていた。彼女の背に手を回しぎゅっと抱きしめ返す。ハイリーがくすぐったそうに笑う。私も満足して深呼吸し、――彼女の肩越しに、クラウシフが半開きのドアの向こうからこちらを眺めているのを見つけた。
「兄さん、難しいお話は終わったの」
私が問うと、ハイリーが抱擁を解いた。
「ああ、もう終わった。ハイリー、兄上の貴重な時間を割いていただけたこと感謝している」
「そうか。ところでこれから私とアンデルは遠がけに行くつもりだが、君も来るか」
「いいな」
ユーバシャール家の敷地の近くには、森も湖もある。歩いていくには遠いが、馬で赴き、一休みして戻ってくるにはちょうどよい。
やはり兄も来るのかとがっかりしながらも、自分の背を支えてくれるのがハイリーだということに機嫌を直し、私はわくわく、馬の背に揺られてユーバシャールの屋敷を後にした。
行きのハイリーを手本に、帰りは私が手綱を取るいうことになった。馬をゆっくり歩かせ、ハイリーは私の話をうなずきながら聞いてくれた。そのことが嬉しくて、直近にあったことを仔細に話した。しかし、人付き合いのない私の話題はすぐ尽きた。それを見計らったようにクラウシフが口を開く。
「そういえば聞いたか? ビットも、軍に入るのが決まったらしいぞ。お前とは別の部隊らしいが」
「ああ、そうらしいな。輜重とか」
「お前はどうなんだ?」
「まだわからない。東軍なら父の下なんだが、北軍の配属になるかもしれないそうだ。
君は?」
「俺はしばらく父上の秘書だな。体が鈍って仕方がない」
「であれば、休みの日にはこうしてアンデルと遠がけするんだな」
よくわからない会話が頭上でかわされるのが面白くない。私はハイリーに、馬を駆け足にしてくれるよう頼んだ。
「振り落とされるなよ」
にやりと忠告し、彼女は馬の腹に蹴りを入れた。
◆
たどりついた湖の水は清涼で、馬を休ませつつ私たちも休憩することにした。ハイリーが用意してきてくれたサンドウィッチや飲み物で空腹を満たす。
「お前、料理できるようになったのか?」
からかい調子の兄に、ハイリーは得意げに返した。
「イェシュカのおかげで、ケーキも焼ける。ふん、君には作らんぞ、どうせ見た目が悪いとか味がいまいちだとか文句を言うだろうからな。でも、アンデルは食べてくれるだろう?」
「うん、ハイリーの作ったケーキ、食べたい」
「まあまあ。食べられればありがたくいただくぞ、俺も。試しに作ってみろよ」
「君は嫌だ、クラウシフ」
「仕方ない、これで我慢するか」
「あっ! 兄さん、それ僕のフルーツサンドっ」
意地悪な兄に腹を立てた私は、一番効果的な復讐を思いついた。
立ち上がり、捨て台詞を残して走り出す。ハイリーが私を追ってこないわけがない。もちろん彼女は「アンデル、ほら、私のをあげるから」と、へそを曲げた私を追いかけてきた。兄を悔しがらせるのが目的だから、少し時間を置いたら戻るつもりだった。その道すがら、草薮の中にきらきら光るものを見つけるまでは。
その輝きは、宝石のようだった。こっくりとした青色のガラスを溶かし、まるく固めたような。母の大切にしていた大ぶりのサファイヤより美しく見えた。
好奇心に突き動かされ、手を伸ばした。触れた瞬間、熱いものだったようにびりっとした衝撃が指先に走った。
そのときようやく思い出したのだ。
日常生活で気をつけなければならないことを大人に教えられたとき、馬の後ろを通ってはいけないというのと同じタイミングで、青く光るきれいな石を外で見つけても触ってはいけない、速やかに近くの大人か教会に報告するようにと言い含められたことを。
そのきれいな石は、『魔石』と呼ばれる特殊な兵器で、愛好家の間で高値で取引される観賞用の空のものと、現在も前線では実戦に使用されている中身入りものがある。はるか昔、このプーリッサが戦火に見舞われていたころ、魔族の身を封じ動きを止めるために国土のあちこちに撒かれた。落ちているものは回収しきれなかったその残りの可能性があるから、近づいてはいけない。その魔石が、なんのはずみで中に閉じ込められた魔族を呼び起こすかわからないから、絶対に触れてはいけないと。
それまでの短い人生で一度も、落ちている魔石とやらを見かけたことがなかった私は、すっかりその教えを失念していたのだ。