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#46 ハイリー 自覚と侮辱

 いつになってもクラウシフは戻ってこない。お茶を何杯も飲んだせいか催してしまって、給仕のメイドに断って応接室を出た。


 戻る途中、早足で歩くバルデラン翁とすれ違った。慌てた様子で、リネンを抱えているのが気になった。老いて痩せてしまった彼からそれを受け取る。お客様にそんなこと、などと遠慮してみせる昔なじみの老人に「いいから。待つのにも飽きたんだ」と自分勝手な理由を押し付け、無理矢理手伝うことにした。


 道すがら聞いたことには、クラウシフは医師となにか話し込んでいてまだ戻れないのだという。やっぱり忙しいのだろう。


 案内されたのはアンデルの部屋だ。

 着替えをさせている途中で、うっかり水差しをひっくり返して、彼の掛布から寝巻きまでびしょびしょにしてしまったらしい。高熱があるというのに災難だな。

 開けづらそうにしていたドアを押さえてあげて、ここまで持ってきたリネンを渡すと、バルデランはにこりとした。

 

「ありがとうございます、ハイリーお嬢様。お一人で応接間まで戻れますか?」

「もちろん。勝手にくつろがせてもらっているから、私のことは気にしないで」


 その場を後にしようとした私の背に、声がかかった。


「ハイリー……来てくれたんだ」


 つい、部屋の中を見てしまった。窓から差し込む柔らかな午後の陽光のなか、下男に体を拭かれている途中のアンデルと目があった。ベッドに上半身を起こし、こっちをじっと見つめている。

 心配になるほど痩せた体は、熱のせいか紅潮している。腕を怪我しているので着替えが難航しているようだ。新しい寝間着に腕を通そうと下男が頑張っている。


「ええ、来たよアンデル。悪かったな、休んでいるところ。しっかり眠って、早く元気になるんだよ。では、私は」

「帰ってしまうの……?」


 消え入りそうな声に、足がまた止まってしまった。その場で逡巡する。幼馴染といえども、成人間近の異性の部屋に容易に踏み込むわけにもいかない。

 バルデラン翁がささやいた。アンデルには聞こえぬように。


「差し出がましいことを申しますが、今は気持ちも体も弱っておりますから、励ましのお言葉を頂戴できれば……」


 下男が任務を果たし、濡れてしまった服を抱えてそそくさと部屋を出ていった。

 入れ違いに、私は何年ぶりかもわからないアンデルの私室に足を踏み入れた。バルデランが深々腰を折って、ドアを開けて去っていく。


 廊下やホールの壁を塗り替えた時、ここの窓枠を取り替えたりしなかったのだろうか。だいぶ錆びついてガタがきているように見えるが。壁はきれいに塗り直されているのに。


 ――見てハイリー、お母さまが図鑑を買ってくださったの!

 

 幼いアンデルが顔を輝かせ私に見せびらかした分厚い図鑑は、本棚の最下段に並べられていた。何度も読み返したのだろう、背がぼろぼろになっている。他にも、彼の好奇心の変遷を教えるように、たくさんの図鑑や辞典、専門書などが本棚を埋め尽くしている。そこに収まりきらなかったものは床に直に置かれたりして、秩序があるようなないような、……汚くはないが整頓されているともいいがたい部屋である。


 配置が変わった使い込まれた机の上には、実験道具らしきものが、やはり雑然となっている。アンデルにしかわからない規則性があるのかもしれない。


 その机上に懐かしいものを見つけた。銀のトレーに一本だけそっと置かれている金色の羽根。泥を吸って汚れてしまった羽根には、いまもきちんと青いリボンが結ばれていて、埃が積もった様子もない。まだ持っていてくれたのか。


 ベッドの横の椅子に腰を降ろした。

 ぐったり枕に頭を預けていたアンデルが、ふと目を開けた。焦点が危うい。呼吸も苦しげで、見ていてこちらまで苦しくなってしまう。ろくに風邪を引いたこともないくせに。


「アンデル、辛そうだね、なにかしてほしいことがあったら言って」

「……うん……」


 ナイトテーブルの上の器に張られた水に、置かれていた布を浸して絞り、汗が浮いた額を拭う。

 こめかみの汗を拭く私の手に、彼の熱い頬が擦り寄せられた。手の甲にはそっと手のひらを添えられて、その部分が熱くなる。彼の体温が移ったように。


 動揺を悟られないよう、アンデルの手を退かして、作業を黙々と続けた。


 頬に張り付く黒髪を反対側の手で払う。昔はコシがなくひたすらに柔らかい感触だった髪は、水分を含んでいるからか少し硬くなったようだ。


 髪を梳かれるのが気持ちいいのか、アンデルの表情が和らぐ。


 この髪を撫でてあげるのが好きだった。彼が可愛くて仕方がなかった。ずっとそのままだと思っていた。そのままでいてほしかった。だって彼が大人になってしまったら、きっと、……もう私に手紙なんか書いてはくれない。


 ――幼い子どものままでいてほしい、姉のように慕ってほしいなんて。クラウシフが言ったとおりなのか? 私は傲慢で、残酷な人間なのか。


 きっとそうなのだろう。酷い話だ。姉のように、だなんて思っておきながら、もし本当にそうだったら、寂しいなんて。

 


 アンデルが穏やかな寝息を立て始めたのを見計らったように、クラウシフが開いてるドアをノックした。それをきっかけに、応接間に移動した。お茶は断ったのだが、代わりにレモン水を出された。手を付けないのも用意してくれたメイドに申し訳ないので、一口だけいただく。


「さっきの件。単刀直入にいわせてもらう。君の希望には添えない」

「それは、お前のギフトのことがあるからか?」


 単刀直入に言われたのは私の方か。


「……そうだ」

「ハイリー。それについては問題ない。こういう言い方もどうかと思うがな、俺には子どもが三人もいる。全員男児だ。次男のアンデルが必ずしも子を設ける必要はない」

「気遣いの言葉と受け取っておく。だがそれだけではない。私は今の仕事が気に入っている。腹が立つことも多いが、それでも死に場所にしてもいいと思うくらいにはな。だからそもそも誰とも結婚する気はないんだ」

「男の軍人は妻を街に残してるんだから、お前がそうしたっていいだろうに。アンデルのことは憎からず思っているんだろう?」

「それを君に話す必要が? いくら君が彼の兄だからって、干渉が過ぎるのでは」

「では、俺の妻になる気は? ……はは、お断り、か。残念だな」


 ぱたぱたと前髪からレモン水のしずくをこぼしながら、クラウシフは肩をすくめた。

 

「あまり私を馬鹿にするな。くだらない冗談を言ったら、次は剣の切っ先をくれてやる」

「俺は至って真剣だし、馬鹿にしたつもりはないんだが。

 ――バルデラン、ハイリーに車を手配してやれ、帰るそうだ」

「結構だ」

 

 お前にだけは、傲慢で残酷だなんて言われる筋合いはない。

 久々に、腹の底が凍るような怒りを覚えながら、私はシェンケルの屋敷を後にした。振り返りたくないと思いながらも、決心が鈍って足が止まる。


 アンデルの髪の感触が、まだ手のうちに残っている。

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