#32 ハイリー 終わりの時はあっけなく
一月はあっという間だった。
私はまたクラウシフに夕焼けの図書館棟の屋上へ呼び出された。
あれから彼と親しく話すことは一度もなくて、あの日のことは夢幻だったんじゃないかと思うほどだったが、それを否定するように、クラウシフは、真剣な――どこか浮かぬ顔。私の答えが不安か。親の説得に失敗したのか。いずれかはわからない。その表情の変化にじっと注視する。
私の出した結論は、彼と一緒に国を出る、だ。
テリウスたちのように、安住の地を求めてさすらうのも楽しそうだ。困難もあるだろうし、平坦な道のりは期待できないだろうが、それだってきっと悪くないはず。
そんなことを思うようになったのは、想像したからだ。クラウシフが別の女性を娶って、子を成し、シェンケルの当主となる姿。友としてそれを祝福したい、しなければと思うのに、たまらない違和感が、喪失感が、その先を考えさせてくれない。だというのに、自分がクラウシフと風まかせに諸国を旅する姿は克明に想像できた。胸に疼痛を伴って。そうなったら、……アンデルは連れていけないだろう。私たちの身勝手さはたぶん彼を傷つける。
クラウシフに求婚されなかったら、自分の気持ちに気づかなかったかもしれない。そのくらい近くにいすぎた。今更、離れ離れになるなんて、想像もできない。
ただし、クラウシフの性格もよくわかっている。このちゃらんぽらんそうに見える男、実は中身はそうでもない。あれは照れ隠し、悪ぶってるだけなんだろう。
だからもし、彼が諦めたなら――。
見つめる私の前で、先に口を開いたのはクラウシフだ。
にこりともしない。目が暗い。私に逃げようと提案したときの必死さはない。
「ハイリー、この前の件だが」
――よくよく相手の顔に気を配れよ。そいつの顔の変化を一切見逃してはならん。
ああ、なにもこんなところであのテリウスの教えをさっそく実戦する必要はなかったのに。落胆しながらも、私のなけなしのプライドが彼の言葉を遮った。
「悪いがクラウシフ、私は行けないよ。君の気持ちは嬉しいが、……家族を捨てられそうにない」
「……ああ」
クラウシフが呻いた。苦しげに眉間にシワを寄せている。
「こちらこそすまない、ハイリー。大口叩いておいて、父上を説得できなかった。だから、俺は、……」
きっとこうやって有言実行できなかったと自分を責めるのだと思っていた。馬鹿だな、せっかく私のせいにしろとこちらから断ってやったというのに。そのくらい、気づけ。
どういう経緯でそう決断をしたのかわからないが、苦渋に満ちたその表情を見ていると、こちらまで胸が苦しくなってしまう。打ちのめされて絶望したような顔をしている。それを見て涙がこみ上げてくるなんて、本当にどうかしている。反射的に、彼を慰める言葉を吐いていた。
「君のことが好きだ。けれど、わかるだろう? 君なら」
きつく目をつぶったクラウシフが、もう一度呻いた。
「頼むハイリー。もう一度言ってくれ。そうしたら決心がつくから」
この場に来る前に決心してこい、愚か者。罵る言葉も出やしない。
掠れた声でそう請われたら、断れない。
「クラウシフ、君が好きだ」
その言葉は昨日の夜までは胸を甘く切なくさせたのに、今はガラスの欠片のように刺さる。
ぐ、と息を呑んでクラウシフが私の頬へ手を伸ばした。指先が触れる瞬間に、動きが止まる。そしてぎゅっと手を握りしめると、結局触れずに、クラウシフは手を引き戻した。
「臆病者って罵ってくれ」
逃げずにその場で責任を果たすと決めた者は、臆病者ではないだろうに。やっぱり、君はアンデルの本当の兄だったんだな。
自虐的に目を伏せる姿も初めて見て、不思議になる。そばにいただけで、この男のことを自分はほとんど知らなかったのだと。
――ああ、もう少し、知らない彼を知りたかったなぁ。
「ふふ……短い間だけだったが夢が見られてちょっと嬉しかったかな。まさか君にそんな風に求められるとは思わなかったから」
なにかしゃべるだけ、自分と彼を苦しめるに違いない。
クラウシフは深々と頭を下げると踵を返した。前回と同じように私を置いてその場を去る。そのとき彼は体側で拳をきつく握りしめていた。
せめて、最後に一度抱きしめていいかと問えばよかった。
◆
私にとって幸いなことに、ちょうど翌日から軍に上がるための手続きや顔あわせ、それに関わる様々なことがあって学舎にはしばらく行かずに済んだ。まだクラウシフとどんな顔で話せばいいかわかっていなかったから、とても安堵した。
ところが、そうやって一週間ほど私が欠席しているあいだに、学級内で大きな騒動があったらしい。それを知ったのは、あとは軍の式服の採寸を残すのみ、となって学舎に戻ってきたときだった。
◆
課題の資料だけは持って帰らねばと、すっかり一日の講義も終わった黄昏時の教室に向かった。下級生たちは帰宅した時間帯だ。廊下は閑散としている。
教室に踏み込もうとしたら、目の前でバンと扉が開いた。
飛び出してきた同級生の女子と衝突しそうになり、彼女が転ばないようにうまく抱きとめたのだが、その子は相手が私だとわかるとすがりついてきたのだ。
「ハイリー、なんていいところに! 大変なの、クラウシフとビットが決闘を」
「なんだって?」
「このままじゃビットが死んじゃう」
私は荷物を放り出し、彼女とともに裏庭への階段を駆け下りた。




