#31 ハイリー 遠国の物語
手が重く痺れ、剣を取り落とした。頬に衝撃が走り、膝をつく。しまった顔面を蹴られると、せめて次の衝撃を殺すために身を傾けたが、痛みは待っても来なかった。
そろり上を見たら、呆れ顔のテリウスがいた。
「どうしたハイリー。いつになく注意散漫だな。死ににきたのか?」
「そんなわけないだろうが」
垂れた鼻血を雑に拭い、立ち上がる。そうしてもテリウスの胸より私の視線は下だ。だから上を見る。青い肌の男が腰に手を当て、ため息を吐いた。
「時間の無駄だな。今日はもう帰れ。ああ、その前にイズベルを呼べ、消化不良でいらいらする」
「……ひとつ、聞いていいか」
「今日の敗因くらい、考える頭はまだあるだろう」
「あなたが祖国チュリカを出た経緯を教えてほしい」
テリウスが休憩がてらにしてくれるプーリッサまでの流浪の旅の話、実は好きだ。冒険心が疼く。実際はそんな風に旅に出ることなどできやしないとわかっていてもわくわくしてしまう。
アンデルに話してやると、頬を紅潮させて次をせがんでいた。大人しいあの子だって、見たことない風景や聞いたことのない音楽、味わったことも匂いをかいだこともないハーブに惹かれるのだ、私が惹かれないわけがない。もし機会があれば、こんな訓練なしにテリウスの話を夜通し聞きたいと思うことだってあった。
しかしながらテリウスが、自分の出奔の経緯を語ることはなかった。そこだけ抜けているのがずっと気にはなっていたのだ。今はなおさら、気になる。
テリウスは着衣の乱れを直し、剣を壁に戻すと、部屋の真ん中に残っている一人がけのソファにどっかり腰を降ろした。四代目のソファは背面に大きな切り傷をこしらえている。
肘掛けに腕を置き、長い脚をすらりと組む。そうしてじっと口を閉じた彼を見て、答えはないと諦め、私は踵を返した。
「なりゆきだ」
ちらっと振り返ると、脚を組み替えテリウスが口の端に笑みを刻んでいた。
「あの国はいびつでな。オレが生まれるはるか昔、領土拡大のために、東にいた蛮族の血を取り入れることにした。魔族を信仰し、ほそぼそ命脈を保ってきた少数民族だが、純然たる人には成せぬ奇跡を軽々起こす連中さ。やつらは、チュリカの大軍勢の前に、あえなく領土の地図を差し出すことになった。そうしてその秘術と数百年かけて取り入れた魔族の血を、チュリカのために使わざるを得なくなった。
その後チュリカは二百年以上をかけ、押しも押されもせぬ大国に成り上がった。西のチュリカ、東のイスマウルとな。国内の異能者も数を増やし、特殊な職業に就いて一定の身分を得るようになった。
ところが、国というものは、大きくするのとそれを維持するのはまた別の苦労を伴うものでな、今度は国内で富の取り合いになったのさ。そのとき、数で勝るギフトを持たぬものたちが国の仕組みを徐々に変えていった」
「それは知ってる」
折り合いが悪いからの警戒があるだけではない。チュリカの力は大きく、そもそもどこの国だって無視はできないのだ。それゆえ私も軍に入るための必修の科目でそのあたりの事情は学んでいた。
チュリカの異能者は固まり、ギフトを生かして一部の職業を専門に担うようになっていった。特殊な技能を必要とする職業――とくに暗殺、呪術、占星術に低級魔族の使役など、通常の人ではなし得ず、嫌悪される職業――をこなすその集団は富んだ。
そのことが、ギフトをもたぬ者たちとの隔絶になった。
国民の感情の根っこの部分に、一部の異能者、つまり魔族に血を連ねるものに国の要職や富を独占されていると刷り込まれていった結果、元々は別の民族だったという意識が強まり、畏敬され、同時に嫌悪される。表立った内紛はなかったものの、チュリカの国内では、ギフト持ちは血を穢すと嫌われるようになり、婚姻や職業選択に事実上の制限を受けることが増えたらしい。その差別でギフト持ちはますます同類で固まらざるを得なかったし、両者の溝は深くなっていった。
「王侯貴族が統括する軍や教会で、実務を担うのは異能者の役目。しかし絶対に長にはなれぬ。血が穢れているからな。王侯貴族と結婚もできん。稼ぎはいいが、嫌われている。一般市民とも居住区まで分けられていた。離婚後、異能者の子を授かってないか確認するため、忌中だ喪中だと事実上の再婚禁止期間が設けられたのもその一つだな。くだらない。
だがまあ、言うことを聞かねば、数で負けるこちらは居場所を失うから、先祖代々長いものに巻かれてきたのだ。
ところがある日、シェンケルの奴がやらかしおって、もう国にいられぬと泣きついてきた。八百長試合に飽き飽きしていたオレは奴の亡命に手を貸すことにした。同じく状況にうんざりしていたメイズと三人で国を出たのだ」
「そんな簡単に。当時あなたは、将軍の地位にあったのに、それほどまでにシェンケルの『やらかし』とやらは大きなものだったのか」
「大したことはない。最悪、公開処刑されて一族郎党根絶やしにされる程度だろう」
「それはだいぶだと思うのだが」
「シェンケルの人妻好きな馬鹿息子がチュリカの王妃めに手を出してな。黒真珠と呼ばれた類まれなる美女よ。我々はその駆け落ち、逃避行に巻き込まれたのだ。当たり前だが天地がひっくり返っても結ばれぬ身分の二人だ。オレは当時そいつの剣の師匠でなあ、まずい立場になってな、いろいろ火消しも試みたが手に負えなくなって出奔した……それも知らんのか?」
「初耳だ。そんなの、プーリッサでもチュリカでも教えるわけがないじゃないか。どちらにとっても汚点でしかない」
テリウスの存在を知った時、自分の中での三英雄の印象はがらっと変わったのだが、またそれも変化しそうである。悪い方へ。
「しまった、忘れろ。よけいな入れ知恵をしたとフィトリスに叱られる。イズベルを取り上げられたらたまらんからな」
おどけてそんなことを言い、テリウスは私をちょいちょいと手招きした。身構えたものの、敵意は感じられなかったので、恐る恐る彼のそばに向かう。
一歩踏み出さねば手が届かぬ間合いで足を止めた。
テリウスが首を傾げ、じっとり顔を覗き込んできた。底なしの湖底のような双眸がこちらに向けて固定される。
居心地悪さに身じろぐ。
「どうした、現実から逃げ出したくなったか。それでそんなことを問うたのか」
「そんなわけないだろう。せっかく夢かなって軍にも入れるのに」
「嘘を言え。浮かぬ顔をしているぞ。近頃妙にそわそわしているし、……さては恋煩いか」
「馬鹿言うな」
「いやいや、オレの目は誤魔化せんぞ。ふはは、なんだお前にもようやく春がきたか。遅い春だったな」
テリウスはにこにこと膝を叩いた。孫の成長を喜ぶ老爺のようだ。
「魔族のくせに、人間の心に敏いつもりか」
嫌味に動じる男ではない。えくぼをますます深くする。
「当然だ。戦いの場で自分の身を守るために一番必要なのは、観察眼だぞ。騙し合いをするのだ、魔族とも人間とも。
よくよく気を配れよ。そいつの表情の変化を一切見逃してはならん。ぼうっとしていては出し抜かれるぞ。それは死期を早める。
そもそも、お前がオレによけいなことを問うてくるから気になっただけじゃないか。それで、相手は誰なんだ? ふむふむ、もしや、……駆け落ちするのか? 国を捨てて逃げようとでも言われたか? 結構なことじゃないか、別段、祖国で一生を終えねばならぬ理由はないぞ、好いた相手と好きに生きればいい」
「あなたまで色ボケしているのか? まったく……」
「添う相手がいるというのは好いことだぞ。オレなど、みんなとっとと先に死んでしまうから、そんなもの望むべくもない。妻はこのプーリッサに辿り着く前に、世をはかなんで自死してしまったしなあ」
この男が寂しそうにしているのを初めて見た。新鮮だったし、驚いた。
「いいじゃないか、ハイリー。お前は気楽な第五子だ。家を継ぐ必要もないし、子はそもそも望めない。お前がいなくとも誰も困らんぞ」
とても失礼なことを言われたのに、なぜか心が軽くなる。さらに、心配にもなった。
クラウシフと、この国を捨てて逃げる。一切合切をかなぐり捨てる。それはいい。だが残された者はどうなるんだ?
――アンデルは?




