#28 ハイリー 花は未だ開かず
横薙ぎの一撃を三歩下がり避け、踏み込んで、その剣把を握る手を狙って突く。しかし、相手の反応が読みよりわずかに速く狙いは外れた。また横薙ぎの一閃がくる――この天井がある地下室では振り下ろしの一撃はないと踏んだ――がその読みも外れた。
「わあっ!」
まさか天井の石材を粉砕しながら、床の石材まで粉砕するような一撃が降ってくるなんて。辛うじて受け止めたが重い衝撃に手が痺れ、剣を床に落としてしまった。無防備になった横腹に容赦ない蹴りが入り、壁に叩きつけられる。
肺がつぶれ、どこかの骨が折れる。そのめきめきという音が骨を伝って直接耳に吹き込まれた。へたりこんでる暇はなく、這いつくばってでもその場を退避しようとするが、背中を踏んづけられて虫のようにもがくだけ。
ふくらはぎに灼熱。舌の根がこわばり、吐き気がこみ上げる。嘔吐だけは耐えきった。背中に置かれた足を振り払い、身を起こしながら相手を睨む。
「ず……るい! 地形を考えろと言っ、て、おきながら、地を破壊して突っ込んで、くるなんて」
「お前、椅子ごと切り倒してやったときも似たことを言っていたな。地の利など、相手によって変化するものだ覚えておくことだな」
テリウスは剣を私の脇腹に押し当てついた血をシャツで拭う。
「それよりも、刺されたらすぐに引き抜け。もう反射で動けるようにしておかないと、標本箱の虫だぞ。返しのついた槍で刺されてみろ、抜く時また傷を自分で開かねばならん。せっかくだから練習のためにもう少し刺されておけ」
「嫌だ」
「聞かぬ」
テリウスは剣を再び構えた。壁にあった短い素槍も構える。
自分の脚の調子を確認する。パンツのふくらはぎとスネの部分に穴が空いてはいるが、すでに体の穴はふさがっていた。このくらいの痛みならいける。剣を拾い、まだ残る疼痛を無視して深く踏み込んだ。
地下室の家具をすべて運び出し、私の稽古をつける。それがテリウスが私に課した、軍への入隊を許可する条件のもう一つだった。自分の情婦になるはずだった娘を軍にやるのに簡単に死なれてはつまらない、という。つまるつまらないの話なのか、これは。
この男がどういうやりとりをしたか知らないが、父は渋々私の入営を許可してくれて、以来、この男に月に数日の稽古をつけてもらいながら、腕を磨く毎日だった。
稽古は兄や家庭教師にも頼んでいるが、ギフトまかせの戦い方を含めて、剣術や槍術、果ては用兵までテリウスに勝る師はいない。馬術や投擲など、地下室では無理なものだけはどうしようもないが。
「ほらハイリー。刺されてしまったぞ、ひるむな、刺されたときは抜け。考えてる暇はないぞ、槍もくれてやる。さらに短剣も刺さった。どうする。一度でも足を止めたら最後だ。痛みは無視しろ、どうせお前はこのくらいでは死なぬし、ショックで心臓が止まることはない。痛みで発狂することもない。お前の体は無理矢理お前を生かす、だから速やかに刺されたものを抜け、ほうら、もたくさしているから、傷がふさがりかけている。刺さった槍が邪魔で動けまい、抜け。傷口を自分で開いて引き抜け」
「この……魔族、めが……っ」
血反吐をはいてもがく私の前で、テリウスは自分の顎を撫でた。
「魔族の攻め手はこんなにゆるくはないぞ。寄ってたかってその苦痛を摂取しようと切り刻みに来る。なかには人間の女に自分の種を宿させるために手足をもいで犯す種や幻影を見せる種もいるから気をつけることだ。仲間の前で慰みものにはされたくあるまい」
この男の訓練は、私を切り刻むことに終始する。敏捷性と体重の軽さを武器にした騎乗での機動力をいかせと言っておきながら、そもそもこの閉鎖空間でその訓練はできないのだ。馬鹿げている。
だが、おかげで痛みに対する耐性はあがったように思う。恐怖心も減った。目下の課題は常人でいう致命傷を受けたときに意識を保つことだ。
あの忌まわしい夜からすでに五年、十八になった今でも私はこんなことを繰り返している。その甲斐あって、前線基地への入営も決まった。同年代の男たちにはほぼ負けなしで剣術クラブも卒業できそうである。ほぼ、というところが気に食わないが、あの馬鹿力のクラウシフ以外には一敗だって喫してない。……クラウシフに負けたことがあるのが汚点だが。
近頃は、テリウス相手にだってまれに勝つこともある。一応、首を刎ねたら一勝という約束になっていて、今の所三勝。負けた数なんて数えていないから勝率はもはや計算不能だ。だが大事なのは、あの剣については右に出る者がいないといわれたテリウスを負かしてやったということだ。
刎ねられたテリウスの首がてんてんと床を転がったときは、血しぶきを浴びながら「やりすぎた」と焦ったが。すぐに触手状に伸びた血管やら骨やらがそれを拾いにいって、度肝を抜かれつつも安堵した。
……もしかして私も首を切られたらああなるのだろうか。試して戻らなかったら困るから、さすがのテリウスも切り落とすのは手指どまりだが。そのあたりは一応、訓練のつもりなのだろう。
「この分ではすぐに犬死するぞ、ハイリーよ。名誉のために入隊するのだから、生き延びるようにちゃんと頭を使うことだ」
ため息一つ、テリウスが私を床に縫い止める武器類を、遠慮の欠片もなく抜いていく。刃先が体内を通過する時、衝撃で目の奥が真っ白になり体が震えたが、意識は保てた。最初の三呼吸までが辛い。頭の中で数えるのだ、三、二、一――。目を開ければ血は止まっていて、そこから痛みはゆっくり和らいでいく。
「さて、もう一度だ。寸暇を惜しめよ」
テリウスが再度構え、私もそれに倣う。
彼の言う通りだった。
家庭教師も兄たちも父も、この男の技には及ばないことは認めざるをえない。だからこの苦痛を伴う稽古の時間は貴重である。
テリウスがまばたきをした瞬間、私は深く踏み込んだ。
◆
講義が終わった夕刻。
さて今日は稽古はないからゆっくりイェシュカとおしゃべりしようか。卒業したらそんな機会も減ってしまうのだから。
そう思いたち、私はイェシュカを探した。きょろきょろ教室内を見回していたら、窓際で級友と話し込んでいたクラウシフと目があった。
すっかり体格がよくなった彼は、気まぐれに髪を整えたりする。ちょっとだけまともに見える。
その見てくれに騙された女子がこれまでに何人も、クラウシフに恋文を贈ったりしている。彼女たちに忠告したい。たしかに成績や家柄や外見はそこそこいいかもしれないが、かなりちゃらんぽらんだし自信家だし、いちいち突っかかってきて面倒くさい男だぞ、と。
「ハイリー、暇なのか? 先週の馬術大会の話をしてるんだが、お前も聞くか?」
クラウシフが手招きする。周囲の男子――どれもクラウシフと似た体格が良くて学級内では幅を利かせているタイプ――がちらっと互いの顔を見合わせる。妙に緊張した様子なのはなんでだ。
「結構だ。それよりイェシュカを知らないか」
「イェシュカなら裏庭じゃないか?」
すると、彼を取り囲む級友たちが意味深な笑みを顔に浮かべて、うなずきあった。
なんだか気分の悪い連中である。
私はクラウシフに礼を言って、教室を出た。
古く苔むした石造りの学舎の敷地を歩き、手入れが追いついていない丈の高い草が生い茂る裏庭に回る。煉瓦の道が草に埋もれかけている。その上をてくてくと進んだ。いつも人があまり寄り付かない場所だ。薄暗さがあるし、草が多いから虫もいる。とくに女生徒は気味悪がる。
人の気配を感じ、ふとそちらに目をやった。ふふふ、というかすかな声に聞き覚えがある。
元の色がわかりにくくなるほど苔に覆われた石の壁の向こうに、女子の制服を着た誰かの腕が見えた。姿勢を変え、件の人物が誰かわかった。間違いなくイェシュカ。
声をかけようとして、私は踏みとどまった。
彼女はひとりではなく、その彼女を壁に腕を突いて閉じ込めている人物と一緒だった。恋人のビットだ。頑健そうな体つきの、私と同じく軍に上がることが決まっている級友である。
ふたりは数秒見つめ合うと、顔を近付け、口づけを交わす。
まずいところに来てしまった。
テリウスとイズベルの口づけは何度も見てきて、もはやなんとも思わなくなってしまったが、さすがに友人のそれは心の準備ができていない。
かあっと頬が熱くなる。
迅速にここを離脱しなければならない。
ところが、すねまで伸びた丈のある草がそうさせてくれなかった。硬い茎を持つそれを踏み折ってしまったのだ。
驚くほど高いぱきんという音が学舎の壁に反響した。ぎくり足を止め、そろりそろりと振り返ると、目を見開き手で口を押さえたイェシュカと、気まずい表情のビットがこちらを見ていた。
「すまない、いや、あの……邪魔をするつもりじゃなかったんだ。イェシュカが暇だったらおしゃべりしたいなと思って探しに来たんだが……忙しいようだからまたにする」
「ううん、ハイリー大丈夫よ。ビット、またね」
あれほどひっついていたのに、イェシュカはビットにあっさり別れを告げ、私のところまで小走りに近付いてくると腕に抱きついてきた。
一人残されたビットを振り返ったが、彼は困ったように、日に焼けた首のうしろを手で撫でてこちらを見てはいなかった。
庭を抜け、人気のない回廊へやってきてイェシュカがようやく体を離した。
そばかすがかすかに残る顔立ちは、人形のように可憐だ。彼女は恋人がいても男子に人気だが、その理由もよくわかる。誰とでも仲良くなれる気性が彼女の人気に拍車をかけている。
「イェシュカ、すまない、悪気はなかったんだ」
「いいの! 内緒にしてくれる?」
「内緒も何も、君とビットの関係はみんな知ってるよ」
私が苦笑して肩をすくめると、イェシュカはもじもじ、胸の前で指を合わせて上目遣いになった。
「そうじゃなくて……だって、あんな……」
「ああ、それはもちろん、……というか誰に報告する必要もないだろう」
学舎内で男子とキスをしているなんて、たしかにふしだらではある。かといって、隠れてそういうことをしている人は他にもたくさんいるんだろうなあとしか思わない。
私の答えを聞くと、イェシュカはぱっと顔を明るくして、またひっついてきた。私の耳元に唇を寄せ、手を衝立にして小声でささやく。
「ハイリーも、クラウシフともうキスしたの?」
「はあっ!?」
まさかの言葉に、私は人目もはばからず大声を出してしまった。はばかる相手もこの場にはいなかったのだが。
イェシュカは興味津々という様子で、私の目を覗き込んでくる。
「みんな噂で持ちきりよ、あなた達二人はきっと卒業後に結婚するんだって」
「誰がしてるんだ、そんな根も葉もない噂。彼とそんな関係になったことはないしこの先もないぞ」
「ええっ? どうして、あんなに仲がいいのに。それにあなたたち、美男美女でお似合いなのに。家柄だって、これ以上ないくらい釣り合ってる。運命の二人よ」
夢見がちな少女の顔で、イェシュカは目をきらめかせている。
私はめまいに似たものを感じた。
クラウシフと私が? なんでそうなる?
たしかに仲はいいが、それは子供のころからのことがあるからだ。家同士の付き合いがあって、ずっと一緒にいたから。それと私が女らしくもなく剣に打ち込んでいるから、同じく剣技を磨いてきたクラウシフと一緒にいる時間が長いだけである。
「なにが美男美女だ。私なんか、男にもてたことないんだぞ。昨日だって、二学年下の女子生徒に、恋文をもらってしまった」
女になりきれないからといって、男にもなれやしないのに。そう苦々しく思って、可愛らしい便箋を家に帰ってから処分した。近頃は、いっそ男に生まれたら世話なかったと投げやりになることもある。ユーバシャールの五男。悪くない。
「当たり前よ。男子があなたに近付こうものなら、クラウシフに睨まれてしまうもの」
「なんだそれは……」
「みんな男子はわかってることよ。クラウシフに睨まれたらやっていけないから、あなたにはちょっかいかけてはいけないって」
「だからなんなんだ、仲間はずれにでもするのか。彼はずいぶん陰険だなあ、付き合いは長いがそんな本性初めて知った」
「まあ、そんなわけないでしょう、クラウシフよ? 正々堂々、決闘を申し込むに決まってるわ。みんな彼には勝てないとわかっているから、あなたに交際を申し込んだりしないのよ。女冥利に尽きると思わない?」
「ちっとも」
「そんなこと言って……もうっ」
私の人間関係を、いくら幼馴染とはいえクラウシフに掣肘されるのは気に入らない。
「そもそも実際にそんな決闘を見たこともないだろ、君の思い込みだよ。まったく、ビットが好きなのはわかるが浮つきすぎだ、イェシュカ。恋にかまけて……学舎でのああいう行為は君の評判に関わるよ」
しかし、私の忠告に、イェシュカはうっとり顔を赤らめた。
「まあハイリー。あなただってわかるでしょう? 好きな男性とキスをすることがどれだけ幸せか。抱きしめられたら天にも昇るような気持ちになるし、肌を触れ合わせたら……」
まさか、イェシュカはもうビットに肌を許してしまったのか? 婚姻前なのに? 家格も釣り合っているし仲もよいし、いずれ結婚するだろうというのは見ていてわかるが、まだ正式に婚約したわけでもないのに?
驚いて言葉を失う私に向かって、イェシュカは首を傾げた。
「……ハイリーだって、いつかは誰かとそうなりたいでしょう?」
「いらない」
反射的に否定してしまった。頭のなかで思い浮かんでいたのは、テリウスとイズベルの姿だ。たびたび、テリウスは私の前でイズベルをいじめぬいた。手合わせしたあと、血が騒ぐといい、串刺しにされ動けぬ私の前でイズベルを血まみれにすることもしばしばあった。
お前もくるか? そんな悪趣味な冗談を交えることもある。
解せぬのはあんなひどいことをしておきながら、テリウスはイズベルを愛おしく思っているようなのだ。イズベルも同じく。つまり相思相愛、らしい。長く一緒にいる男女にはそういうスパイスが必要だと、私の前で血みどろの交接を繰り返す。私は自ら剣を引き抜きその場を離脱するまで、見たくもない惨劇を見せつけられるのだ。そういう経緯があって、男女の肉欲に関してかなり不快な印象しかない。
「どうして? まさかあなた照れているの?」
どうしてと問われても、私にはどうしようもなかった。テリウスの存在をイェシュカに漏らすことはできないし。
首を横に振り、話を切り上げる。イェシュカは不満げで、なぜか心配そうだった。




