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#21 アンデル 葬列(後)

 車中、ハイリーは私の隣の座席で、じっと、雨の降る外の景色を眺めていた。喪服の彼女からは、シトロンの香りはしなかった。帽子を脱いで、茜色の髪を晒している。もう、長さは結い上げられるくらいまでに戻ったようだ。丈の長いスカートの裾には泥が跳んでいて、黒い革のブーツもてんてんと汚れてしまっていた。


 座席に響き渡るやかましい駆動音がありがたかった。もし静かだったら、自分たちの呼吸音が気になってしまうほど、気詰まりだっただろうから。さらに、運転席で黙りこくってハンドルを握っている、ユーバシャール家の初老の運転士にも気を使わなくて済むのも助かる。


 話したいことも聞きたいこともたくさんあったはずが、身体の芯が重く冷たくだるい。口を開けるのも億劫だった。こんな再会の仕方は、まったく望んでいなかった。


 私は落としきれなかった泥が付着した革靴のつま先を見つめていたが、絶対に言わねばならぬことがあったのを思い出して、ようやく口を開いた。


「遠いところ、来てくれてありがとう。お見舞いに来てくれたときもそうだけど、……本当にありがとう。イェシュカも、きっと喜んでるよ」

「……ああ」


 こちらを向いた彼女は弱っている。目の下の濃いくまのせいでそう見えるのか。


「アンデルこそ、気を落とさないでね。イェシュカはきっと君に感謝してる」

「どうかな……」

「ねえ、あの子になにがあったの? 君の手紙で具合が悪いことは把握していたが、急逝するほど悪かったのか」


 ハイリーが心配してしまう。彼女だって辛いのだ、自重せねば。そう思う反面、イェシュカに降り掛かった出来事を、誰かに知ってもらい、ともに悲しんでほしいという気持ちもあり、私はぽつぽつとイェシュカの病と経過、それから亡くなったときの状況について語った。自分の自制心のもろさにうんざりしながら。


 話し終わってからしばらく、ハイリーは言葉もなく、じっと私を見つめていた。衝撃を受けているようだった。唇を噛み締め、緑の目を見開いていた。

 私の説明では、イェシュカが自殺したととられてもおかしくない。そういう私もあれが事故なのか自殺なのか判断できないでいる、今でも。

 イェシュカの名誉のために、詳細な事故の経緯は伏せられ、ただ病のために亡くなったと訃報に載せられたと、バルデランからは聞いている。


「――すまなかったな、君たちがそんなに辛い状況にあったとは知らなかった」

「辛かったのはイェシュカで、僕じゃないよ」


 固い声で、あくまでも優しい言葉をかけようとするハイリーに、私は自嘲の笑みを浮かべるほかなかった。


「大変だったのはたしかだけど、結局、すべて無意味に終わってしまったんだもの。イェシュカを元気にしてあげることもできなかった」


 こんなふうに自虐に満ちた言葉を吐いたら、ハイリーを困らせるとわかっているのに、つい、口から出てしまった。


 根が駄目になってしまった植物は、もう救えない。どれだけ水をあげて肥料を与えても、駄目なのだ。弱っていくイェシュカに寄り添うのは、大切に育てていた株が朽ちていくのを見つめるのに似ていた。もちろん、実際はその千倍も苦痛が大きかった。物言わぬ植物と違って、イェシュカは楽しく優しい言葉で、私を何度も元気にしてくれたからだ。あの声はもう聞けない。彼女の美味しいクッキーも二度と味わえない。


 熱くなってしまった目頭を手で押さえた。みっともないところをハイリーに見られたくないから、車窓の外を眺めるふりをして。


「前線では……」


 背中から聞こえたハイリーの声に、耳だけ傾ける。


「いつ知人が亡くなるかわからない。遺体と対面できないこともある。自分がその立場になるかもしれない。何度となく友人たちを送り出してきて覚悟はできているのに、痛みはなくならないんだ。息の仕方を忘れてしまったような気になる。ああ、その場にもし自分がいたら助けられたかもしれないと思うこともあるが、――いつも、どうしようもないんだ。起きてしまったことは変えられやしないのだから」


 言い聞かせるようなゆったりした口調は、イェシュカのそばにいられなかった彼女自身を戒めるようにも聞こえた。

 ようやく目の熱が冷め、私は彼女に視線を戻した。自分の膝の上で重ねた指先を見つめて、ハイリーは続ける。


「イェシュカが逝ってしまったなんて、正直、まだ信じられない。ここへの道中馬を走らせながらもぴんとこなくて、なぜ私は手綱を握っているんだろうと思っていた。そして、さっき、イェシュカと対面して『どうして今更会いに来てしまったんだろう』と思ったよ。

 会いに来るなら、生きている間だった。兄さんのときだってそう思ったのに」


 凛とした声がくぐもり震え、緑色の目からぼろぼろと涙がこぼれたので、私はいつぞやと同じくぎょっとした。

 クラウシフと話す彼女を見て、その悲しみを分かちあえたらと羨みながら、いざとなると動揺するなんて、いかにも身の丈を知らぬ子供である。しかし、言い訳すれば、まさかクラウシフの前でもイェシュカの前でも泣かなかった彼女が、自分の前で落涙するとは夢にも思わなかったのだ。


 ハンカチを懐から取り出そうとしたのだが、折れた腕ではすばやく動けない。その間にもぽろぽろこぼれた水滴が、ハイリーの頬を滑って落ちていく。慌てすぎてわけがわからなくなり、とにかくその涙を止めなければと、自由の効く手の指でそれを掬った。どうしたことか、それでその涙は緩むどころかますます勢いを増し、さらに私を慌てさせた。


 声を殺して泣く彼女を見ている余裕はなかった。次兄の葬儀でも凛としていたハイリー。遠目でその様子を見て無理をしていると胸が苦しくなった。手の届く位置にいて、ためらう理由はなかった。泣いた私を慰めるためにいつも彼女がしてくれてきたこと。私は自由な片腕だけで、ハイリーを抱き寄せた。

 

 芯がないように、ぐにゃりとハイリーは私の胸に体重を預けてきた。私の体は雨で冷えてしまったのだろう、彼女の体温がやけに高く感じる。ダンスをしたときより一回り、彼女は小さくなった。

 すぐにハイリーはすがりつくように私の背に手を回してきた。こんなに弱りきっているハイリーを見るのは初めてだ。新月祭のときだって、もっと元気があった。

 離れていても彼女がイェシュカを想っていたのは間違いない。そう確信するなり、私も我慢していた寂しさが胸に迫って、奥歯を噛み締めた。私まで泣いてしまったら、彼女が泣くことができない。


 呼吸に合わせて動く背中を、ゆっくり撫でる。しゃくりあげるのを聞いていると、少しだけ、気持ちが落ち着いてきた。彼女が代わりに泣いてくれるから、私の胸にあった重苦しいものは軽くなったのだろうか。


 ふいに車が動きを止め、シェンケル家に到着したことを知った。


「アンデル、ごめんね、行って」


 そう言われて体を離されても、上着の裾を掴まれていたらそれを振り払えるわけもなく、車を降りるに降りられなかった。このハイリーはいつか、見舞いにきてくれたハイリーとの別れを惜しんだ私と同じだ。


 気を遣った運転手が何も言わず、シェンケル家の敷地を大回りで一周してくれた。


 敷地を回るだけの短い時間でハイリーの気分が回復するわけもなく、涙は止まらなかった。ただ、すがりついていた手は離れた。


「ハイリー。送ってくれてありがとう、今日はしっかり休んで。……あとで会いに行ってもいい?」


 私がドアを開けた側とは反対の座席に詰め、顔をうつむけた彼女は確かに小さくうなずいた。涙が止まらないことを恥じているように片手で目元を隠したまま。


 車はゆっくり走りだし、雨の向こうに見えなくなった。

 我が家へ入るまでの数十歩の距離で、私は彼女の胸中を思った。そばにいながらイェシュカになにもしてやれなかった私と、そばにいることも叶わなかったハイリー。どうしようもないと語った彼女のやるせなさが、胸に痛かった。



 その晩、私は高熱に倒れ、数日の間起き上がることができなかった。心労で不調をぶり返したのか、雨で冷えたのか。怪我のせいもあるかもしれない。

 その間にハイリーは前線へ復帰してしまった。私は彼女に会いに行けずに終わってしまったのだ。会ったところで楽しい話ができたとは思えないが、……また年単位で会えなくなってしまうとわかっていたから、少しでも話をしたかった。もし可能であれば、イェシュカの残したものを彼女に形見分けしたかったのに。情けない。


 前線基地への旅立ちを前にして、ハイリーが挨拶に来てくれたのだが、私は高熱で意識が朦朧としており、言葉をかわすこともできなかった。起きてみたら、滋養があるというハーブ酒の差し入れが枕元に置かれていた。それから、彼女の字で綴られた短い書き置きも。




 ――アンデル。


 具合はどうかな。雨の中、怪我もしているのに無理をしてしまったのだね。ゆっくり休んで、早く良くなって。

 そのうち、また戻ってくるから、そのときはもっとたくさん話をしよう。君と話をできて、よかった。ありがとう。

 ハイリー――




 話など、ほとんどできやしなかったのに。


 すっかりいつもどおり執務に戻っているクラウシフの頑健さが妬ましく思えた。

 


 臥せっているうちに、温室の植物のいくつかがだめになってしまった。イェシュカの落下地点にあって潰れてしまったものもあり、そういったもう手の施しようのないものを処分していくのが、病み上がりの私の最初の作業になった。一週間以上寝たきりだったので、それすらきつく感じた。


 作業に集中しようとしても、イェシュカが激突し欠けてしまったタイルを見ると思い出してしまう。いっそ、この温室を潰してしまおうか。そんな考えに囚われた。きっとクラウシフも賛成してくれる。自分の妻が死んだ場所など、いつまでも残っていなくてもよい、と。


 温室の隅に、記録付けなどに使う粗末な机がある。そこの椅子に腰を下ろし、小休止した。薄暗くなってきて立ち上がり、ふと、引き出しがちょっとばかり出張っていることに気づいた。きちんと閉めなかったかしら。


 何気なくその引き出しを開けると、見慣れぬ封筒が収まっていた。白い封筒には記名も宛名もない。日焼けもなくまだ新しいそれを引っ張り出し、開封する。封蝋もない無防備さ。

 

 封筒の中の便箋に踊る乱れた字を読んで、私はようやく思い出した。

 事故の直前のイェシュカの言葉を。


『手紙を、……あのひとがいないときだったら、……あな、あなたがいないときだったら、書ける……書け、書ける……』


 根が腐ってしまった植物にできることもいくつかある。挿し木による株分けも、一つの手段だ。うまくいかないときもあるが、その種を残すことができるかもしれない。


 手紙は、イェシュカが必死で残そうとした言葉の欠片が詰まっていた。彼女自身が朽ちても、手紙が残っているあいだは言葉も残る。やがて芽吹いて、彼女の真実を――言葉にしたくてもできなかったことを誰かに伝える日を待つ種として。



 私は、いつまでも夕食の席に現れないことを心配したバルデランが探しに来るまで、温室で呆然としていた。


「アンデル様、お疲れでしょう、お夕食の支度ができておりますよ、さあ」

「バルデラン」

「はい」

「……いや、なんでもない。兄さんは明日には戻ってくるかな」

「ええ、そう伺っております」

「ありがとう、夕食をいただくよ」


 手紙を丁寧に折りたたみ、懐にしまいこんだ。あたりは、手元の字も判別し難い見えないほどにすっかり暗くなっていた。満天の星が、ガラス越しに見える。美しい景色だ。

 ほうっと息を吐き、私は胸騒ぎを押し殺す。



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