#18 アンデル 彼女とダンスを
「君こそ。もし来るなら当主のクラウシフかと思っていた」
ハイリーはさっと距離を詰め私の手を握った。あやふやな数年前の記憶より骨のしっかりした印象の両手。しかし、すでに自分の方が一回りは大きな手をしていることに気づき、かっと背筋が熱くなった。手袋越しでなく温かな素手での握手だったら、頬まで赤くなってしまったかもしれない。
周囲の視線を感じた。このホールにいる他のどの女性たちともなじまぬ格好、それがさらにハイリーの存在感を強くしていた。
白の詰め襟、体に沿った白のパンツ。膝上までの革のブーツ。茜色の髪はゆったり三つ編みにされて背中に垂らされている。胸にきらめく数々のバッジが、まるで貴婦人の胸を飾るネックレスのよう。さすがに剣は帯びていない。
まるで絵物語の一幕を見せているかのような麗しい騎士の姿だ。ただ、そうなると残る私はさながら騎士に傅かれる姫君になってしまうのだが……。
我が国では、騎士位はただの名誉にしかならない。他国を真似て作られた、形だけの位だ。
とはいえ、国主から賜る貴重な報奨のひとつではある。ハイリーが随分前に騎士位を賜ったとは聞いていたものの、パーティーに騎士の正装をしてくるとは思わなかった。ドレスではなく。
ほとんど男装といっていい格好なのに、ハイリーの騎士姿はむしろ女性的な美しさを際立たせているように思えた。体の線に沿った優美な裁断がそう見せるのか。
「アンデル、すっかり見違えたよ。背も伸びたし、――大人になったな。もう立派な紳士じゃないか」
立派な紳士かどうかはさておき、体が成長したのはたしかで、記憶にあるよりかなり近くなったハイリーの顔と自分の顔の距離感に戸惑う。やや私が見下ろす形になったからだろうか、ずっと大人のように思えていたハイリーが、妙に身近に感じられた。彼女と同い年の女性であるイェシュカと日常的に接していて、幻想と同意の憧れが薄らいだからか。それどころか、ハイリーのことがやたらと小さく見えるのが不思議だった。
「帰ってくるのが決まったら教えてくれたらよかったのに。でも、よかった、あなたが元気そうで」
「ありがとう、まあ、私は元気だけが取り柄だからな。休暇をもらって喜び勇んで、全速力で帰ってきたのさ。そしたら、陛下にこの席に参加するように命じられてしまった。
――帰省のタイミングを間違えたな。服がないからと逃げようとしたのに、私の騎士服を見たいというのだよ、陛下は。まさかあの服は捨てておらんな、とにやにやして言う。ひどいものだろう、逃げ道がない。風邪を引かないかと期待してしまったさ。健康な自分が憎らしいな」
「そうだったんだ、大変だったね」
「おまけに陛下は欠席ときた。災難だ」
後半の、周辺をぐるりと視線だけで見回すジェスチュアと、声を潜めた冗談とで、私達の間にあった、久々の邂逅に伴う緊張感や距離感は一気に取り払われた。
「騎士服、似合っているよ、格好いいしきれいだ」
「そう? 仰々しくてなあ……。それに、私だってたまにはドレスを着てみたいなあ。女だってことを忘れてしまいそうになる」
壁際に並んで、給仕から飲み物を受け取っての言葉だった。ハイリーの苦笑は、どこか寂しそうでもあった。
ふと、石女であることを私に告げた日の彼女を、幻視した。もし、そういった事情がなければ、ハイリーだって他の一般的な女子のように着飾ったり、パーティーでおしゃべりしたりエスコートされるのを楽しんでいたかもしれない。
私の胸中には、とある思いつきが浮かんでいた。しかし実行するにはかなりの勇気がいる。ああ、世の男たちはみな、どうやってその勇気を捻出してきたのだろうか。私以外はみなうぬぼれ屋で、失敗するなんてことは考慮の外であったのか。いや、そんなはずはなかった。あのクラウシフですら、ハイリーとの結婚を意気込んでいたとき、父の前では胸を張って意見を主張しておきながら、自分の希望が通るとは断言しなかったではないか。
「イェシュカや子どもたちは元気? もしあの子たちの都合がつけば、近々会いたいのだが」
「そうだね、イェシュカに伝えておくよ。……実は、イェシュカはあんまり調子がよくないんだ。子育てに疲れているみたいだ。ハイリーと会ったら気が紛れるかもしれない」
「そうか、それは心配だ。イェシュカの調子のよいときに、ぜひ伺いたいな」
しばらく、私はハイリーと取るに足らない話を続けた。今はどんな研究をしているのか、ハイリーからもらった種子などの研究結果や実験中のデータについて、ハイリーの前線での生活について、彼女の気のおけない副隊長について、クラウシフの最近の仕事の成果、等々。
どんな料理や音楽や、めかしこんだ男女の挨拶より、彼女の他愛もない話の方が私には重要で刺激的だった。ハイリーもそうであってくれたら、と何度も願いながら、喜びで上ずりそうになる声を平常に保つのに意識を注いだ。
やがて、お開きの時間が近くなり、ダンスの輪が小さくなってきた。定番の締めの曲になる。毎年の新月祭も、この曲が締めの曲だ。
話題は尽きない。名残惜しい。徐々に口数が減ってきたハイリーも、同じように感じていてくれないだろうか。
そんな願いを込め、楽しい会話の間もずっと意識の片隅を占めていた言葉を口にする。
手袋のなかに汗を掻いていた。とにかく、声が裏返らないように、それだけを意識する。
「ハイリー、私と踊ってください。お願いします」
このときほど、作法の授業を真面目に履行していてよかったと思ったことはない。
クラウシフのように堂々たる体躯を誇っていれば、若造とからかわれても、恥じることもないだろう。やっかみからだとわかるから。
私は若い上に貧相この上ない。あなどられるだろうことはよくわかっていた。それは構わないのだが、そのために円滑な職務遂行が妨げられ、はては兄の評判に傷をつけるのではないかということを恐れ――なかば被害妄想に近い思い込みから――せめて所作だけは、と黙々と反復練習を繰り返してきたのだ。
体に染み付いた仕草は、緊張で舌が凍りつきそうになっている本人の体と意識の変調などに影響されず、するりと全身の筋肉を動かした。顔をうつむけ差し出した手の指先までぴんと伸びている、その確信で正気を取り戻す。心臓は早鐘のようだったが。
差し出した手に柔らかな感触が降りてきたのは、しばらく経ってからだった。
「いいのかアンデル。騎士服の男女と踊ったとなれば、経歴に傷がつくのでは? 君の支持者が落胆するぞ」
「まさか!」
とんでもない自虐に満ちた冗句に、私は泡を食って顔をあげたのだ。そのときのハイリーの顔は一生忘れないだろう。
大輪の花が咲いたようだった。
それからのわずか数分、天にも昇る心持ちでハイリーと踊った。彼女の足さばきはたくみで、気を抜くとこちらがリードされてしまいそうになる。いつだかクラウシフが彼女をお転婆と評したことがあったが、納得した。むしろ誰にも手綱を預けられない、気を張っているのだと思うと、彼女が妙にいじらしく思えてきた。
普通の女の子のように生きたい気持ちを殺して、騎士服に体を押し込んだ彼女が、そのとき、私の中で守らねばならない存在に変化したといっていい。
ずっと追いかけていた背中が、とても小さい。腕の中に収まってしまう。これは一言で表せばたしかに「変化」ではあるが、そこには複雑な思いが詰まっていた。うまく言い表わせないが、第二次性徴を迎えた当時の私が自己を「男」であり、ハイリーをはっきりと「女」だと認識したというのが近いだろうか。そして彼女との間に感じていた年齢という「溝」をほとんど埋めてくれたのが、他でもないその性差だったように思う。彼女を身近に感じながら、まったく自分とは別の生き物だと意識する。そうやってまるで生物クラブでの成果報告のように、なるだけ距離を置いて自分の心境の変化を観察しなければいけないくらいには、動揺していた。
なにしろ、密着したハイリーは妄想のなかの彼女のようにふわふわした柔らかさだけではなく、触れたら反発する弾力があった。そして熱を持っていた。近づくと、シトロンの香りがし、その茜色の髪が柔らかく私の顎や頬をくすぐる。圧倒的な情報量に、めまいがした。酩酊状態。クラウシフの悪ふざけで無理矢理火酒を飲まされたときより、よっぽど心地よく酔っている。
ダンスの練習も欠かさず続けていてよかった。十歳の新月祭でハイリーに抱きしめられてくるくる回されたのは楽しい思い出だが、ダンスとしては変則的で、いつかきっと彼女を他のレディと同じようにターンさせたいと密かに願っていた。小さな夢が、叶った。彼女が破顔してステップを踏んでくれて、私の動揺も収まった。
音楽が終わる時、ハイリーはすぐに離れずにいてくれた。
◆
参席者たちと挨拶を交わしながら退場しようとしていたところ、ヨルク・メイズがふらりと会場に現れた。あっという間に彼に挨拶するための人だかりが形成されかけたが、当の国主は実弟と軽く挨拶を交わし、そのまま、鷹揚な足取りで、つかつかと私の傍らに立つハイリーに歩み寄った。
もとは肥沃な土の色をしていたヨルク・メイズの髪は、ここ十年で雪深いところの大地のようになっている。かぎ鼻、髪と同じ色の太い眉、琥珀色の目。中肉中背で、目立つ髪や目の色をしているわけではないのに、所作の端々に染み付いた風格なのか、貧相さは感じさせない男である。さすがメイズの当主、国境ぐるりに独力で結界を張り、魔族からの大きな侵攻を防いでいるだけある、というべきか。
「ほう、この場合どちらが女役なのだ?」
第一声からこれである。にやにや口の端に揶揄の笑みを刻み、腰に手をあて、私とハイリーの頭の天辺からつま先までを無遠慮に視線で舐め回す。クラウシフと同類だと私は分類している。
「当然、アンデルですよ、陛下」
「出で立ちはお前のほうが勇ましいがな、ハイリーよ」
「彼は私のナイトなんです、陛下。私の最後の新月祭のときから」
「はは、騎士姫のナイトか、大役じゃないかアンデル・シェンケル」
ヨルク・メイズの高らかな笑声でかあっと顔が熱くなったが、悪い気分ではなかった。ハイリーが茶化すわけでもなく、事実を肯定するようにかすかに微笑んでいたからだ。ハイリーがあの新月祭のできごとをさらりと話題にしたので、もしかしたらあの日彼女が負った心の傷はもう癒えたのかもしれないと期待もした。
「……冗談はさておき。シェンケルの次男も隅に置けない、まさか騎士姫の騎士を勤めていたとは。アンデル、佳い夜であったか?」
「ええ、とても」
ふわふわした心持ちで、私は深くうなずいたのだった。ヨルク・メイズも破顔し「それはよかった」とそれだけは真心からのようにしみじみと言ってくれた。
思えば、この日が私の記憶で最後の幸せな日だったかもしれない。
更新の活力になるので、よければブクマお願いします!