#12 アンデル 卒業式の日
卒業式の朝は、いつもと特に変わらない。クラウシフがきっちり制服のシャツのボタンを上まで閉め、上着を着込んで髪を整えているくらいの違いだ。
私たち下級生は、式典の一部だけ参加し、あとは通常の講義がある。受講の支度をして、いつもどおり学舎へ向かった。クラウシフは集合時間があるらしいので、今朝も別々に出ることになった。
一つ講義があり、式典があり、その後はまた講義という予定だった。
式典の会場は大講堂だ。三階建ての大講堂は、二階と三階は狭く、席へ続く階段が急なのでかなり使い勝手が悪い。建築から四十年も経っているというから、仕方ない。私は運悪く、三階の席だった。着席も退席も大変な場所で、唯一いいところといえば、壇上を見下ろす位置まで接近できるから、式典をしっかり間近で見られるところだろうか。
卒業の式典なんて、我々下級生には他人事である。ただ、生徒代表で挨拶を読み上げるのがハイリーとくれば、居眠りはしていられない。この大役は、その年の卒業生で文武ともに優秀な成績を残した生徒に任される。軍への加入準備で講義の欠席もあっただろうに、彼女が優秀な成績を残したという証拠だ。卒業の論文の成績優秀者の発表に、彼女の名前が載っていた。クラウシフもそこに名を刻んでいたので、ひょっとしたら彼がこの役目を担った可能性もある。
私たちは退屈さにあくびを噛み殺しながら、そのときを待っていた。たち、というのは、私と他数名、……もしかすると数十名にのぼる、彼女の支持者のことだ。そしてその時が来て、万雷の拍手で迎えられたハイリーが壇上に立った。
ときには、観劇の舞台になる大講堂に、ハイリーの声が響いた。ゆったり、一言一言をはっきりと彼女は告げる。
今日この日を迎えられたことが嬉しい。それは家族や友人、教導たちや下級生たちの支援があってのこと。今後、ここで培った知識と技術を活かし国の役に立つように努力すること、そしてこの学舎に恩を返せるように努力することを約束したい。
お決まりのセリフを、彼女らしい言い回しで読み上げ、最後にぴしりと一礼した。いつもの制服に上着を羽織り、髪をゆったり編み込んだ彼女のその仕草は、遠目でも鮮明に見えた気がした。
ああ、これでこの学舎でハイリーと顔を合わせることはもうないのか。そのことが寂しくて、悲しい。拍手に送り出されて壇を降りる彼女の姿を見ながら、私はひとり涙ぐむ。
◆
卒業生が拍手で学舎を送り出されていく。下級生も含め、学舎にいる人間が全て集まって、講堂から正門までに並び、卒業生を通すための花道を作るのが慣例らしい。
講堂を出るまでに時間がかかってしまい、すっかり私は出遅れた。花道を作る人垣の後ろの方、とっくにほとんどの卒業生が捌けてしまったあたりでぱちぱち手をたたくことになった。
見送りが済むと、教室へ戻る人の流れができた。正門の外では、我が子の迎えに集まった卒業生の親たちが作った車列があり、互いのこれからの健闘を祈ったり、別れを惜しみ声を掛け合う卒業生の姿がちらほら見えた。それに背を向け、私は自分の教室へ戻ろうとした。人混みのなか肩を叩かれたときは、誰か友人が声を掛けてきたのだと思った。
「アンデル君、お願い、これをお兄さんに渡してほしいの」
振り返ってぽかんとした。知らない少女だ。おそらく学年も違い、一度も話したこともない。
彼女は、黒髪に青い目を持ち、そばかすが浮いた頬を赤らめていた。かすかに目が潤んでいる。差し出されているのは、白い封筒だ。茫然とする私にそれを押し付け、名乗りもせずに彼女は去っていった。手の中のそれを、私はひっくり返す。裏には丁寧に書かれた彼女の名前があったが、やはり知らない名だった。
彼女は、クラウシフがあと半月でイェシュカと結婚することを知らないのだろうか。それとも、知っていても思いだけは伝えたかったのだろうか。
その手紙をどうするか悩んだが、捨てるわけにもいかず、かといって返しに行く気にもなれず、カバンにしまいこんだ。
驚くことに、その日、あと二回、同じようなことがあった。
◆
その晩私は、自分宛てではない恋文三通を持って、クラウシフの部屋のドアをノックした。
嫡男が学舎を優秀な成績で卒業したのだ、祝ってもいいだろうが、そういう気配はまったくない我が家だった。
父抜きの夕食が済んで、兄はさっさと自室に引っ込んでしまった。自習しようとカバンを開けて恋文の存在を思い出した私がそうするまで、一度も部屋を出てきてない。
「入っていいぞ、どうした」
いらえがあって、ドアが開く。クラウシフはすっかり楽な恰好に着替えていた。
「これ、渡して欲しいって。それぞれ別の女の子から」
「あー……、ありがとう」
バツが悪そうな、しかしどこか誇らしげな表情で、兄はそれを受け取った。ろくに確認もせず、机上にばさりとそれらを置く。
「ところでアンデル、結婚式のことだが、お前の衣装は大丈夫か?」
「うん。仕上げ前に確認したけど、大丈夫だったよ。バルデランにも見てもらった」
「そうか。
お前には会食の時、最前列に座ってもらうが、いいよな。父上は……難しいかもしれないから、そのときはテーブルに一人になっちまうんだが」
机上に席次表が乗っていた。
私は知っている。彼が同時進行で、父の葬儀のことについてバルデランと話し合いを重ねていることを。
「うん。ただ座って食べていればいいんだったら、僕にもできるよ。なにか他にすることあれば手伝う。挨拶はできないけれど、お菓子を投げる役ならやってもいいよ」
「なんだよ、一番それを頼みたかったのになあ」
「無理」
しかめ面をしてやったところ、兄は破顔した。ひとしきり笑うと深い息をつき、疲れた様子で肩を回す。よく見れば、目の下にくまがあった。
私は自然と頭を下げた。
「兄さん、その……卒業、おめでとうございます」
「おう。ありがとうな」
親愛の印に、クラウシフはにかっとし、私の肩を小突いた。
八つ年上の兄は、いつも私の先を行き、強くたくましくあったが、このときはそれをとくに意識した。自分の祝い事と、にじり寄ってきている不幸とを、年若くとも一人で捌き切ろうとしているその姿を見て、果たして私が彼の立場だったら、それができるだろうかと考える。きっと行き詰まって、みっともなく焦っているに違いない。
「なにか手伝うことある? 僕も明日から休みだし」
今日を持って、下級生たちは春の休みに入る。私もしばらくの間、学舎に通うのはクラブ活動のためだけになる。普段できないことも手伝えるいい機会だった。
クラウシフは少し考え、「そうだそうだ」と手を打った。
「実は、お前にしか頼めないことがある。図書館の本を返しそびれた。悪いんだが、次に学舎に行ったときに、返しておいてくれ」
「兄さん……だらしない」
忙しくて返却を忘れたのだろうとわかっていたので、苦笑交じりにそれを了承した。
クラウシフは、本を探すために書棚をがさごそする。きちんと立てて並べておけばいいのに、横積みにしたり開いた本を重ねて一気に閉じたりしていて、ぐちゃぐちゃだった。ここから探しものをするのは大変そうだ。
彼が「どこいったかなあ」と身をかがめている横で、私は机に寄りかかり、呆れてそれを見ていた。ふと、机上に広がっている席次に目がいった。自分が座るのは、最前列の親族席だ。新郎側と新婦側でテーブルは別になっている。
そのまま、見覚えのある名前たちをさらっと紙面で流し見て、ふと目を止めた。
学友たちのテーブルなのだろう。ドニーとハイリーの名前を見つけた。
ハイリーを誘ったのか。なんだか嫌な気分になった。何度も思い出した、新月祭のときの彼女の姿がまた蘇ってくる。彼女を招待したのは、クラウシフなのか、イェシュカなのか。ユーバシャール家の面々も招待されているようだが、それとはテーブルが別だった。あくまで、新郎新婦の友人という組み合わせの中に彼女の名前はある。
――いや、むしろ、呼ばないのも作為的か?
席次に名前があるということは、彼女は参席する意思があったんだろう。心底嫌だったら、なにか理由をでっち上げて欠席すればいいのだから、そも、私が気をもむことではないのかもしれない。
そこまで考え、ふと思い出した名前を探したが、それは紙面のどこにも見つけられなかった。
「ああ、あったあった。裏に落ちてるとはなあ」
埃を被った本を、棚の奥から引っ張り出し、クラウシフが差し出してくる。受け取り、私は呆れ顔を作った。
「学生の共有財産なんだから、大事にして」
「悪い悪い。俺が出世したら、きっと莫大な寄付をするから」
「頼むよ、兄さん」
冗談を言い合い部屋を出た。一抹の不安を胸に抱いて。
そんな寄付をはずめるほど、シェンケルに財産はないのではないか。
父の治療にだいぶ金がかかっているはずだ。加えてこの結婚式。葬儀だって金はかかる。場合によっては結婚式よりも。
なんだったら、見栄をはらずに、結婚式ももっと小規模にすればよかったのだ。列席者が三百人を軽く越していて、近くの教会で収まりきらなくて、離れた大きな教会を借りて式をあげるのだ。やり過ぎなのではないか。それともケートリーに支援を受けているのだろうか。
他にも気がかりはあった。たくさんの人を呼んで盛大にやるのに――ビットの名前はそこになかった。我が家で剣技を競っていたおなじみの仲間達は、ハイリーと同じテーブルに名前を連ねていたのに。彼のことを、クラウシフとイェシュカは誘わなかったのか、それとも誘っても不参加の返事だったのか。
私は自室の明かりを点け、机の上にクラウシフから預かった本を置いた。『ギフトの歴史と分類について』という本で、ぱらぱらめくると、内容が薄いとすぐにわかった。文字が大きく、絵が多い。そして、ところどころ、異能者たちに対する恐れ、不快感といった負の感情に傾いた文面がある。
出版元の国を確認しやはりと納得した。その、チュリカというのは西方にある大国で、ギフトを持つ異能者を蔑視している。歴史上何度かギフトを持つ者の行動で、重大な危機に陥ったというその国の歴史を、さわりだけは勉強した。中等教育課程に上がってからのことだ。
チュリカは三英雄の出身国であり、プーリッサの子どもたちは中等教育課程に上がるとその事実を知らされる。それより前から、チュリカという国の名前を聞いたことがある子どもは多いだろうが。
なぜクラウシフがこんな本を借りたのだろうかと疑問に思う。内容の偏りもあるし、文章の対象年齢ももっと低そうだ。
クラウシフが雑に扱ったせいなのか、本の背が歪んでしまって、開き癖がついてしまったページがあった。何気なくめくって、私は眉を顰めた。
『プーリッサの三英雄について』という章だった。こんなものは、プーリッサの国民であれば子どもでも諳んじられる。なにをわざわざこんな面白みもない本を借りようと思ったのだろう。さっと目を通した感じでは、真新しいこともとくにない。いや、あえて目につくものをあげるとすれば、我々プーリッサの子供が聞かされるよりも、異能者についてかなり否定的な内容に仕上がっていることか。
三英雄は、チュリカでギフトを持っていたがために迫害され、プーリッサに流れ着き、そこに定住したわけだが、本によれば、彼らは国の要職にありながら、その扱いに不満を持ち、出奔したのだとある。とくに我がシェンケル家の本の中での扱いはひどく、高位の星読みの座にありながら、他二人を唆して国の宝の『類まれなる黒真珠』を持ち出し他国に攻め入り、そこに居座ることにしたのだとされている。ちなみにまだ続いているらしいシェンケルの本流となった血筋は、チュリカで星読みを続けている。私たちの遠い親戚筋にあたる。
その内容について、チュリカがそういう思想を持つ国であることは、いろいろなところ――たとえば親や兄弟などの周りの大人――から入る情報でそれとなく把握していたとはいえ、不快感の残る内容だった。
さっと読み飛ばし、作者の結論だけを読むことにした。
いずれも、ギフトの能力の顕現の度合いは、個人差があり、血が濃くなれば継承がうまくいくというわけではない。近親婚を繰り返し、魔力が強くなりすぎれば、畸形の子が生まれる確率も跳ね上がって高くなる。
法則性ははっきりせず、その血脈にあっても一切そのギフトを受け継がない者もいるし、隔世的にすばらしい適性のある者が生まれることもある、と書かれていた。やはり、どれも知っていることばかりだ。実のない内容だったと、本に低評価をつけることで傷ついた自尊心と愛国心を慰め、私はそれを閉じてカバンに突っ込んだ。
嘆息し、机の引き出しを開けた。ハイリーの金色の羽根を取り出し、ためつすがめつする。結婚式の日、ハイリーに会えるのは嬉しいが、晴れ晴れした気持ちにはなれそうにない。彼女はどういう顔で式にくるのだろう。