#100 ユージーン 帰郷
本日2度めの更新です。
僕の十一歳上の兄のサフィールにはもうひとつの名前がある。アンデル・シェンケル。響きからわかるとおり、ルジットの生まれではない。プーリッサという北の小さく貧しい国の出身だ。僕と二人の弟も同じ。
いささか複雑な経緯があって、サフィール以外の兄弟三人は、ドニーの養子になった。ドニーもプーリッサ出身で、今はルジットで有数の豪商にのし上がった。
そして遅れてサフィールがドニーの養子になったから、僕らは兄弟の関係になった。それまでは叔父と甥だった。サフィールは血縁上、僕らの父の弟なのだ。ルジットでは養子縁組で他国から貰い受けた血縁のない子をルジット国民にしたてあげる方法が問題になっているが、僕らはそうやってルジット人になったのだった。その件について意見するのは差し控えたい。
これまたいささか複雑な事情から、我々は祖国を出てこの国に定住した。幼い頃はそれに起因したさまざまな問題に悩まされたし、多感な時期はこんな苦労する羽目になったのはサフィールのせいだと彼を恨んでみたりした。
だが成人した今になって思うのは、僕は、いつも控えめで僕たちに誠実で優しかったサフィールが好きだし、いつでも捨ててしまえた我々兄弟を彼の方法で守ってくれたのだと尊敬してもいる。
父母の記憶はおぼろげで、思い出そうとすると寂しい気持ちも一緒に蘇るが、……サフィールはそれに負けないほど楽しい思い出をたくさんくれた。
僕はずっとサフィールにべったりだったから、先の事情でしばらく彼と離れて暮らしたときは心細くてたまらなかった。今はもう、一緒に暮らしてはいないが、こんなふうにたまに会う予定ができると、子供のころと同じようにその日が待ち遠しかった。
◆
前庭を突っ切って歩いてくるふたつの人影を見つけて、ジュリアンが「兄さん! サフィールがきたよ」と大声を出した。廊下を横切りながら、ドアが開いたままの僕の部屋に向かってだ。
自室の窓からその姿を確認し、書類仕事の手を止めて玄関に向かう。
「ジュリアン、なんです、はしたない」
母のウェリーナが睨みをきかせると、ジュリアンは一応はしゃんとした。
呼ばれても出てこないジェイドは、まだサフィールにハイリーをとられたことを根に持っているのかもしれない。十年近く前の話だし、来年には十八だというのに、子供だ。いや、甘え下手だから気恥ずかしいだけだろうか。
そもそも、あの旅の途中で合流してから、誰が見ても明らかなように、ハイリーはサフィールのことを愛していたし、サフィールはハイリーに惹かれていたのだから、可哀想だがジェイドに出る幕なんかなかったのだ。
昼下がりの明るい庭を、並んで歩いてきたサフィールとハイリーは、僕たちをみつけて手を振ってくれた。サフィールは相変わらず細身で中年太りに縁がなさそうだったし、ハイリーは父のドニーと同い年という申告が疑わしいくらい若々しくて、変化がないようだった。
青いシャツに生成りの麻のパンツを合わせたサフィールは、大きな旅行かばんを抱えていて、ハイリーの欠けた腕の側に立っている。彼の定位置。
薄い水色に黄色の縞模様の涼し気なワンピース姿のハイリーは、赤い髪をゆるく編んで青いリボンを二重に結んでいた。僕らが贈ったリボンは、かなり古くなっているはずなのに、大事にしてくれている。胸が温かくなった。
「サフィール、久々だね。元気そうでよかった」
「ドニーこそ。また間が空いてしまってすみません」
口々に挨拶しあって、それからサフィールとハイリーは僕たちとも抱擁を交わした。昔は僕よりずっと大きくて温かくて安心したサフィールの手だが、今は僕のものより華奢だ。ただ、土いじりばかりしているからか、皮膚は厚い。
結婚したころ、サフィールは薬草の栽培や売買、加工を請け負う仕事をはじめた。今はそれで生活しているらしい。それまでは女だてらに腕の良い用心棒と有名だったらしいハイリーも、結婚を機に引退して、たまに近くの金持ちの家の子供に護身術を教えるようになった。結局僕たち兄弟は、彼女から一本をとれないでいる。
明日の朝にはここを発つのがわかっている兄夫婦を、今夜、僕たちはできる限りもてなそうと、招待したのだった。
サフィールらはおよそ十年ぶりに、プーリッサに戻る。国主レクト・メイズの招聘に応じて、植物学者サフィール・リミウスとして。
◆
サフィールが六年ほど前に発表した、星霊花の詳しい生態の研究報告は、素晴らしいものだった……らしい。
彼はプーリッサにいた頃、今の僕より若いときに、その花の研究で先のプーリッサの国主ヨルク・メイズに報奨を賜ったのだ。
新しい研究発表はそのときのものの発展形で、ドニーの伝手をつかってルジット国内の動植物学者の論文持ち寄りの書籍に載せられた。内容が明らかになると、彼の研究に用いた記録をどうにかして入手したいと、様々なところから打診があったようだ。席を用意すると声をかけてきた国外の研究機関もあったらしい。プーリッサもそうした国のひとつだ。
星霊花の群生地から推測される、滞留魔力の生物への影響と、給排出量の変化と操作について。及び星霊花による滞留魔力除去の記録。
サフィールの発表したものの表題だけは知っている。というか、一度説明を直に受けたが――きっと彼の研究材料を詳しく知りたがっている植物学者垂涎の特別待遇だ――ちっともわからない上に退屈だった。だから二度は説明を聞くこともなかったのだが、僕らとは違って熱心にサフィールの来訪を待ち望む声もあったわけだ。なんでも、この技術がもっと実用的になれば、空気中に満ちる魔力量の調節が可能になって、魔族の出現を抑止できるかもしれないとか。
四年以上に渡る交渉があり、プーリッサへの訪問をサフィールは決めたのだという。これはドニーから聞いた。ドニーはサフィールの養父という立ち位置にあり、昔も今もサフィールの相談役になっている。どちらかといえば、兄弟の関係に近いのだろうが。これまでの商取引の経験から目端は効くし頼りになると僕も思う。だからドニーはサフィールから、逐一、その件についての相談を受けていたのだ。そして、もう成人しているのだからと、僕にはその内容を教えてくれた。もちろん、サフィールもそれは了承してくれていた。
五年ほど前に僕がシェンケルの首飾りを輝かせたときから、サフィールと僕の間で隠し事はない。弟たちは今持ってその兆候がないから、自分たちが国を出てきた本当の理由は知らないままだ。
――シェンケルの当主として、祖国に尽くさないか。いや、その義務があるだろう。先祖の墓も守る義務があるだろう――
レクト・メイズからの最初の招聘は、そういう内容だったらしい。
それを聞いた時、僕はすうっと心が凍りつくような気がした。どの面下げてそんなことを言うのか。そもそも、メイズ家のだらしなさ、レクト・メイズが兄を管理しきれなかったせいでどれだけの人間が苦しんだのか。自分の家の始末すらつけられなかった男が、偉そうに。僕の父を殺した男の弟が。サフィールに人殺しをするように差し向けた人でなしが。
僕をかばって、悪霊の呪いを受けた父の後ろ姿を、忘れるわけがない。
苦しみを、憎しみを持て余していた。だから、メイズ家が統べる国など、滅んでしまえばいいと呪っていた。
だが、サフィールは「条件が合えば」と交渉の余地を見せたのだ。
裏切られたように感じた。サフィールは、この十一歳上の兄は、叔父は、僕の気持ちが一番よくわかる人だと思っていた。苦楽をともにしてきたのだ。今はハイリーのものだが、そうなる前は僕たち兄弟のものだった。
そのことがあって、僕ははじめて、サフィールを口汚く罵った。悲しげな顔で目を伏せたサフィールに、胸がちりちりしたが、強い感情が呑み込めなかったのだ。
態度の悪い僕にも優しいまま、サフィールはプーリッサと交渉を続けた。僕は逐一報告しなくていいと言いながらも、その行く末を気にしていた。……サフィールがもし、僕らを置いてプーリッサに帰ると言い出したら。そう思うと不安で不安で仕方がなかったのだ。
しかし振り返ってみればだが、彼の交渉は結構、子供っぽい、意地悪な揚げ足とりの連続だった。
シェンケルとしての義務がある、といわれれば、姓が違いますよ人違いです、という。
先祖の墓がと持ち出されたら、ルジット人は、死ねば海に散骨されるため、墓という概念が理解できかねます。その埋葬方法が気に入っているので、墓の思い入れはあまりないのです、――これは本当かどうかはわからない。話の主導権を握るための嘘かもしれない――といいだす。
つどつど、念入りに、自分たちはメイズの指示に従ってプーリッサに行くつもりはないのだと繰り返して、釘を差し続けたのだ。アンデル・シェンケルという名を捨てた。しがらみも義理もない。なぜメイズに命じられなければならない?
――そもそも自分はルジット人で、プーリッサに義務だの義理だのはありません。もしあるとしたら学術的な興味だけが、貴国の前線基地近く、星霊花の群生地に向いておりますので、そちらに通していただけるのであれば喜んで赴きます。そのときの研究結果の共有は惜しみません。
ただし、遠距離で必要な道具も多く、危険な行程になるのはわかりきっておりますので、貴国の選りすぐりの兵士たちを護衛につけていただきたい。そして我が国の研究者数名、その助手十数名、それからプーリッサまでの行程とその先も継続的に同行してくれるルジット人の護衛を数十名つけるのはお許しいただきたい。
自分は星霊花の研究によって、この大陸、ひいては世界中の魔族に脅かされる人々が救われればいいと思って活動しているので、その内容については誰にでも公開する用意があるのです。特別プーリッサにのみという約束はできませんが、それでもよろしければ。
こちらが連れて行く護衛には、私が知る限り一番腕の立つ人間も同行させます。妻です。研究者ではありませんが、それもご了承ください――
そうこうしているうちに、サフィールが声をかけた学者たちはかなりの数になって、いつの間にかそちら方面に造詣の深いルジット国王の従兄弟である公爵閣下まで巻き込んでの大きな話になってしまっていた。それが狙いだったのかどうかはわからないけれども、そこまでいけば国対国の仕事だ。
きっと、保険だったのだろう。自分たちが安全に目的を果たすための。もし公爵にゆかりのある調査団になにかあれば、プーリッサとルジットの問題になる。プーリッサ側は対応を慎重にするに違いないのだから。
それでも心配だった僕は、サフィールに尋ねたのだ。それまでの態度の悪さを忘れたふりをして。
本当に、行くの? なにがあるかわからない。あのメイズの呼び出しなんだよ、と。
サフィールはにこりと笑って答えてくれた。
――行くよ。メイズとの問題と、僕の償いはまた別だ。僕は僕の役目を果たしにあの国に行く。けれどねユージーン、決して僕がメイズを許したわけじゃないってことだけは、言っておくね。兄さんの言葉を借りるとしたら彼らは「クソッタレ」だからね――
そのとき僕の背中を叩いたサフィールの手は、いつになく力強かった。
◆
サフィールのグラスに冷えた酒を注ぐと、彼の夜のように黒い双眸がじっと僕を見つめてきた。光が入れば、夜明け間近の空の色だ。
「本当にいいの、ユージーン。もし君が希望すれば、プーリッサに行けるんだよ」
未成年の弟二人はともかく、成人している僕は、希望すればサフィールの助手として同行させてもらえた。
ただ、僕はそれを断った。
実父に、そして実母に挨拶をしたい気持ちはある。あまりいい思い出はないけれど、あのとき住んでいた家の、サフィールの大事な株をほじくり返して遊んだ温室や、大好きな絵本がたくさんつまった子供部屋の本棚がどうなっているのか知りたい。
だが、僕の居場所はここだ。子供の頃の懐かしさに浸るより、両親の支えになって弟たちのそばにいたい。サフィールが僕らにしてくれたように、今度は僕が弟たちを守りたい。何の外敵はなくとも。
「そうか、わかった。君はいい兄だねユージーン」
サフィールの優しいこのほほ笑みはプーリッサにいるころから変わらない。
「サフィールだって、いいお兄ちゃんだったよ」
僕がそういうと、サフィールは穏やかに目を伏せ、隣りに座ったハイリーの肩を抱いた。
君はすぐに泣いちゃうんだな、とハイリーがからかうから、サフィールは恥ずかしそうに目元を手で隠したんだ。
◆
翌朝。日が昇ったすぐあとに、ふたりを迎えに車が来た。このあと調査団の人たちと合流して、彼らはこの国を発つ。向かう先はプーリッサだ。
「いってらっしゃい、ふたりとも。ハイリー、くれぐれもサフィールのことをよろしくね。なにかあったら守ってあげて」
旅支度を整えた二人を思いっきり抱擁する。ジェイドもさすがにこのときは顔を出して、遠慮がちにハイリーに抱きついていた。ジュリアンはサフィールの隣でもはばかり無くハイリーに甘える。おみやげまでねだっていた。末っ子の特権だろうか。
「逆だよ、僕がハイリーを守る側だよ」
「だってサフィールは頼りないもんね、とくに腕っぷしは」
「ひどいなジェイド……」
肩をすぼめたサフィールは、優しくジェイドのことを抱きしめた。
ジェイドが一瞬不安そうな顔をしたのを、僕は見落とさなかった。
大丈夫、サフィールは。こう見えてこれまでだっていくつか苦難をくぐりぬけてきたし、そばにはハイリーがいるんだから。
僕の心を読んだように、ハイリーがにやりと不敵に笑ってくれる。
「じゃあ、いってくるね。帰ってきたらおみやげ話を聞かせてあげるよ」
「楽しみにしてる。ふたりとも、くれぐれも道中気をつけて」
振り返り振り返り離れていくふたりに、僕らも手を振り続けた。彼らは寄り添って敷地を出ていく。
その後姿に祈る。この旅が、素晴らしいものになりますように。どうかふたりで無事、……笑顔で帰ってきますように。
そうなると確信して、僕はふたりが見えなくなるまで手を振り続けた。




