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#9 アンデル 新月祭(後夜祭)

 クラウシフと戦わなければ。


 体を清めてから、泣いた後の変な高揚感に浮かされ、それを決意した。

 あのクラウシフの胸に誇らしげに飾られていた、イェシュカのガチョウの羽根。あそこにあるべきものじゃない。そもそもイェシュカはイェシュカで、ビットがいたではないか。裏切り者同士……なんて、本で覚えた憎たらしく下劣な言葉を呪詛のようにつぶやきながら、決行した。


 クラウシフの部屋のドアは、開放されていた。見た限り、クラウシフ本人はいない。父の寝室の前を通った時、押し殺した声が漏れ聞こえてきていたから、あそこにいるのかもしれない。このところ父と兄は二人きりで部屋にこもり、長時間話し合っていることがある。父の調子が悪いにも関わらず。仕事の引き継ぎなど、やることはたくさんあるだろうが、ひとり蚊帳の外だと思うと疎外感を覚えずにはいられない。


 部屋は明かりが点きっぱなしだった。入り口で呼び掛けても返事はない。やはり、父の部屋にいるのだろう。いきなり出鼻をくじかれたような気になって、思案した。戦う相手がいないから不戦勝というわけにはいかない。どうするべきか。


 私の部屋とは違って、馬術で使うユニフォームや、剣技の訓練で使う刃先をつぶした剣などが無造作に床に放り出されていた。ああ見えて、文武両道の彼の机の隣の棚は、書籍で埋まっている。


 ふと、金色の羽根が目についた。パールで留められた、すみれ色のリボン。それがベッドの上に、シャツにつけられたままくしゃりと投げ出されていた。これではすぐに形が崩れてしまう。

 それがまた私を苛立たせた。ハイリーを捨ててそちらをとったのに、こんなぞんざいな扱いをして。クラウシフは不誠実だ。せめて平らなところに置いておくべきではないか。


 勝手に部屋に入り込むのは気がとがめたが、放ってはおけなかった。手を伸ばし、ふとベッド横のナイトテーブルの上のものに目を奪われ、動きを止めた。


 ナイトテーブルにはハンカチが広げられ、その上に、もう一本のガチョウの羽根が載せられていた。ほどけかけた青いリボンもちゃんと一緒にまとめて置かれている。何度も泥を拭ったが、取れなかったのだろう。ハンカチは少し汚れ、羽根は泥が染みて色が変わっていた。


 私がどれだけ探しても、ハイリーの羽根を見つけられなかった道理がここにあった。

 どうして、クラウシフがこれを? 彼は、ハイリーの思いを振り切って、イェシュカを選んだのでは?


「ここで何をしてる」


 背後から飛んできた、冷たく硬い声が私の身をすくませた。ドアを塞ぐような形で仁王立ちしたクラウシフの姿。逆光で顔はよく見えないが、穏やかな表情をしているわけがない。

 彼の視線が、自分の手元に向いていることを痛いほど意識する。


「何をしていると聞いている。勝手に人の部屋に入った理由は?」

「話をしに」


 兄の恐ろしげな声と比べて、私の声のなんと小さく情けないことか。


 それまでクラウシフが、腕力を見せつけるためや自分の優位を示すためという、くだらない動機で私に暴力をふるったことはただの一度もない。だが、彼の出す低く苛立った声を聞いただけで、私は制裁を加えられることを覚悟した。そのくらい、剣呑な声音だった。

 しかし、引けない。私にも、自分の非を認めてさっさと逃げ出すわけにはいかない理由があった。


「話?」

「僕は――僕が、ハイリーから羽根をもらうことになったんだよ、兄さん。ハイリーが、僕にくれるって言った。ずっと捜してたんだ。なんで兄さんがこれを持ってるんだ」



 話すべきはそれじゃないのに、言葉がうまくまとめられなくて、なにより、捜し求めていたハイリーの羽根がここにあることが理解できなくて、私は一気にまくしたてた。論点がずれたまま。


 兄の表情は目まぐるしく変化した。憤怒から悲哀、そして困惑、行き着く先は無だった。すとんと、表情らしいものをすべて捨てた彼は、ずんずん歩いて私の隣までやってきた。


 殴られるのだろうと思ったがその場を動かなかった。ここで引いたら負けだ。膝が震えた。さっき、ホールで突き飛ばされ、まるでおもちゃのように私は転がった。兄がその気になったら、為す術なく木っ端のように吹き飛ばされる運命にある。それでもここで引いてはいけない。引けない。


 兄は手を伸ばし、その横にあったナイトテーブルから、青いリボンの結ばれた羽根を取り上げた。リボンがこすれて立てた音が、しゅすっと、やけに大きく聞こえた。

 そして彼は無言のまま、私に向かってそれを差し出した。


 自分のものだと訴えておきながら、受け取ることを躊躇した。別に、受け取りざまに兄にぶたれると警戒したわけではない。まさかこんなにあっさり彼がこれを譲ってくれるとは、想定していなかったのだ。


 羽根の軽さに対し、しっかりとしたリボンは重く、うっかり落としそうになる。慌てて両手で胸に抱き込んだ。解けかけたリボンの端がするりと、クラウシフの指の隙間をすり抜ける。その瞬間、彼が唇を噛みしめたような気がした。部屋は薄暗かったから見間違いの可能性もあるが。


「持っていけ。俺には不要なものだ」


 不要なもの。その言葉で、またも、私の胸中に怒りが湧いたが、――目的は果たした、これ以上この人と話しても無駄だ、と出ていくことにした。

 拍子抜けするほど簡単に私にこれを渡す兄は、もう、ハイリーにかけらも気持ちが残ってないのだろうか。それが気になったが、部屋を辞去するとき振り返ってみても、クラウシフの後ろ姿からでは、判断がつかなかった。微動だにもしない背中は、放心しているようにも見えた。

 

 自室に戻った私は、机の一番上の引き出しの中身をすべて外に出し、手に入れたばかりの新しい宝物をそこに納めた。大好きなハイリーからもらった、彼女の心の欠片。それは本来、私のために飾り付けられたものではなかったが構わない。

 そっと引き出しを閉め、中にあるその存在を思い出し、温かい気持ちになる。あまた、ハイリーに対して甘えとワガママを通してきた私にも、これだけは叶わないと思っていたものが、手中にある。誇らしい気持ちにならないわけがない。


 だが。その気持ちは心の九割を占めていたが、残り一割はどこか冷え冷えしていた。ハイリーの涙に、身勝手なクラウシフとイェシュカの顔。クラウシフはさらに、一度は受け取りを拒否したハイリーの思いを勝手に拾い上げ、自分のものにしようとしていた。これほど酷いことはない。

 どうして、彼はハイリーを裏切ったのだろう。検討もつかない。彼女の羽根を持ち帰ってくるほど気持ちが残っているのだったら、なぜ、彼女のダンスの相手にならなかったのか。それだけ未練が有りながら、なぜ私にこの羽根を譲った。

 

 その日のできごとが、私たち兄弟の間に溝になって横たわったのは間違いないが、翌日から表面上、何事もなかったかのように毎日が過ぎていった。私はしばらく、クラウシフの前でハイリーの名前を出すのも嫌だったし、彼も同じだっただろう。あのこと以外はまったく尊敬できる兄のままだった彼を、私はそれ以上責め立てたりはなかった。


 なぜなら、ついに父が倒れ生死の境をさまよい、なんとか目を覚ましたものの、医師に「いつ何があってもいいよう、お覚悟を」と言い渡されたからだ。


 クラウシフが、シェンケルの当主として立つ日が近づいていた。

 そのため公私共に多忙な兄に、それ以上噛み付かないくらいの配慮は持ち合わせていた。


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