8 「あたし、あいつ嫌いなの」
メイヴェーラ号は、帝国東部の沿岸をゆっくりと航海している。
周辺海域への警戒も含めて沖へ出ながら、沿岸部の港町を巡回し、食料や水を分けてもらったり柄の悪い奴がいたらぶっ飛ばしたり船体の整備をしたりするのだ。最早一般的な『海賊』のやることではないのだが。
ウィルゴを拾ったのは帝国最東端の岬を持つイルレイという町で、そこから南下した港町カンラが次の目的地だった。
陸地が見え始めたのは昼前のことで、このままいけば明日朝には上陸となるだろう。
「アレン。船長が呼んでる」
ウィルゴと並んで釣りに勤しんでいたアレンを呼んだのは、数少ない女性クルーのマルカだった。
「おれだけ? ウィルゴは」
「アレンだけ」
鮮やかな金色の髪と、紺碧色の双眸がまばゆいマルカは、なぜかウィルゴを鋭く睨みつけている。
彼女は四年ほど前にやってきたクルーだが、女だてらにアレンと同じ白兵第一隊に属して剣の腕を揮っていた。年頃はアレンやウィルゴと同じだが、すらりと筋肉のついた身体つきはウィルゴよりもよほど逞しく見える。
彼女から睨まれた当のウィルゴはぱちぱちと瞬いていたものの、大きな反応を返すことなく、釣り糸を垂らした海面を見下ろした。
船長室に呼びつけられる用事に心当たりがなく、アレンはきょとりと首を傾げながら甲板の手摺から飛び降りる。
「じゃあおれ行ってくるから、ウィルゴあとお願いね」
釣りなら何度かやったことがあるので一人にしても大丈夫だろう。
船長室へ向けて歩き出したアレンの後ろで、彼女はやたらと憎々しげに釣りをする新入りの背中を睨みつける。
「あ、そうだマルカ――」
そして、「時間があるならウィルゴと一緒に釣りしといてよ」とお願いしようとしたアレンの目と鼻の先で、新入りを片手で海へと突き落とした。
船ではよく見られる光景だ。小競り合いが高じたり、くだらないいたずらの結果だったりして、船員が海に投げ出される。マルカがウィルゴの背中を押した理由はわからないが、そういうわけで、アレンはわりと呑気に「ありゃりゃ」と呟いた。
数秒遅れでウィルゴが落っこちた音が聞こえてきた。
「なにしてんだよ」
「あたし、あいつ嫌いなの」
「だからって急にそんなことしたらウィルゴびっくりするだろ? ほら、全然浮いてこない……」
二人して海面を覗き込む。
ゆらゆら揺れる海面をじっと見つめる。
まだ見つめる。
見つめる。
「……、……浮いてこないぞ?」
マルカがウィルゴを嫌いということよりももっと重大な問題だ。
落っこちた新入りが浮いてこない。
こういう場合、普通はすぐに顔を出して「てめえふざけんな! 死んだらどうする! ロープ寄越せ!」と喚き散らすものだが。
甲板から外を覗き込むアレンたちを見つけたジオが「どうした二人して」と寄ってくる。
海面を見る人数が三人に増えたところで、なんの前触れもなく、アレンは唐突に理解した。
「――ウィルゴ泳げないんだ!」
「えっ」「は?」
着ていたシャツを脱ぎ捨てたアレンは一かけらの迷いもなく身を投げた。
そうだった。内地に近い山で生まれて帝都で育ったウィルゴが、泳ぎ方を知っているわけがない。
海面に触れる直前に息を止め、入水後、そのままウィルゴを捜して潜る。
透明度の高い海域でよかった。ぶくぶく為す術もなく沈みゆくウィルゴがすぐに見つかった。
初めて救けたときと一緒だ。
こんな状況だというのに少し笑みが零れて、アレンは水の中でそよぐその手をしっかりと掴む。力の抜けた体を抱えて、日の光がきらきらと差し込む海面を目指して浮上していった。
顔を出すと縄梯子が下ろされていて、甲板から多くの船員がこちらを見下ろしていた。
「生きてるか!」
ジオが手を振ってくる。当然ウィルゴのことだろう。
「いちおう!」
ぐったりしている新入りを肩に抱え直し、梯子に足をかけた。どやどやと頭上から聞こえてくる男たちの声の数がどんどん増えてくる。
「そのまま梯子上げるから大人しくしてろー」
「はぁい」
甲板のみんなの協力でアレンたちは引き揚げられた。誰かが呼んだグレイに頬を叩かれたウィルゴは比較的あっさりと気がついて、蹲って水を吐いている。
船員たちは大爆笑しながらウィルゴの背中を叩いた。
面白がっているのか水を吐く手助けをしているつもりなのか、とにかくそれなりの力で叩かれているらしく、苦しんでいる本人は痛そうに背中を丸めている。
「いやぁ生きててよかったなぼうずー」
「今度泳ぎ方教えてやっからなー」
ばしばしと背中を叩きながら去っていく船員たちに、「あ、ありが……げほげほ」と健気に返事するウィルゴが不憫でならない。
そこは「うるせぇ叩くな、死にかけたんだぞほっといてくれ」が正しい反応だ。
ウィルゴが落ち着いた頃には、みんな持ち場に戻っていた。グレイすら「こんだけ水吐きゃ心配ねぇよ」と呆れて戻る始末である。
「……鼻が痛い……きもちわるい……」
「水に入るときは息止めろよ」
そろそろウィルゴが何を知らなくても動じなくなってきた。
着ていたシャツを脱いで絞れるくらいには復活したウィルゴの傍らにしゃがみ込み、その身体に残る傷を眺める。
彼を拾ってから、ひと月が過ぎていた。
小さな傷はあらかた治り、少し深かったものも瘡蓋を残す程度になった。乱暴に縫い付けていた傷の抜糸も済んで、残るは一番酷かった脇腹の傷の包帯のみとなっている。
死ぬか生きるかの瀬戸際を彷徨っていたあの頃のことを考えると、奇跡のような回復だった。
人差し指を伸ばして、背中にある傷跡をつつつとなぞると、ウィルゴはくすぐったがる素振りもなく視線だけ寄越してくる。
「だいぶ治ってきたなぁ」
「……目を覚ました最初の頃は指先を動かすにも苦労したものだ」
「拾ったときは死んだかもって思ったしな。まあ、元気になってくれてよかったよ」
ウィルゴが沈黙した。
気付いたことだが、彼は何か慣れないことを言われたりされたりすると、戸惑って黙り込むらしい。どういう反応を返せばいいのかわからないのだろうが、こういう少しの沈黙に馴染めない船員から苦手意識を持たれているようだった。
「……いつかおまえが、あのとき生き抜くことができてよかったと、思えるようになったらいいなぁ」
本心が口先から零れ落ちる。
彼はまだ戸惑ったままでいた。
大きく表情を動かすことはないくせに、むしろ辛そうな様子さえ滲んでいて、アレンは頭を掻きながら猛省する。
一体どういう身の上やら、ウィルゴは自分の身を案じられることに特に慣れていないのだ。家族として船員としてアレンが普通だと思っている態度が、彼にとっては言葉をなくすほどの異常事態らしい。それに思い当たってからなるべくそういうことは減らそうと努力していたのだが、なにせそういう性分なので油断すると勝手に言葉が出てきてしまう。
「……、……腹が、痛いから医務室へ行ってくる」
悩みに悩み抜いた末のウィルゴの自己申告にぱちくりと瞬くと、彼はするすると脇腹の包帯を解いていた。
血が滲んでいる。
「どさくさで腹を叩かれたから傷口が開いた」
「おいおい……わざとじゃないだろうな?」
「多分。背中のつもりがもみくちゃになってずれたんだろう」
涼しい顔でのたまうウィルゴの表情はとても痛がっている人のそれではなかったが、自ら医務室へ行くと言えるようになったのは進歩だ。
「……アレン、は、船長室は行かなくていいのか」
濡れたシャツと包帯を抱えて立ち上がった彼の言葉に、アレンは凍りついた。
「――忘れてた!」