7 「この莫迦たれ」
船上生活が初めてであるウィルゴにとっての難関は船酔いだけに留まらない。
内地で育った人間には通用しない価値観がある。育ちのよさを感じさせるところが多々あるウィルゴにとってはなんでもなくても、船の上では許されないことが、それこそ山ほど。
何かやらかす度に誰かがウィルゴを叱り、ついでにお目付け役のアレンもどつかれ、二人で額を突き合わせて原因を究明するのにも慣れてきた。頭のいい新入りは、納得するまできちんと説明してやれば同じ過ちは繰り返さない。
繰り返さない、のだが。
「アレン!!」
厨房で火を扱っていた料理長のマツリの怒号に、アレンは肩をびくりと震わせながら「はい!!」と思わず怒鳴り返した。
「この莫迦たれをちゃんと見張ってろ!!」
罵声とともにマツリの義手に頭を殴られたウィルゴを見つけて、ああまた何かやらかしたのかあいつー、と周りが微笑ましい表情になる。一方教育係のアレンはやや遠い目になりながら、“莫迦たれ”の回収にかかった。
かつて白兵隊に属していたものの戦闘で左肘から先を失い、それからは料理長として厨房の番人をしているマツリは、当然見た目のいかつい中年親父だし口が悪ければ手も早い。木製の義手は掌部分が彫刻になっており、殴られるとそりゃもう、とても痛い。
しゃがみこんで頭を抱えるウィルゴに、ニアが心配そうな顔で駆け寄った。
「何をやらかしたんすか、ウィルゴさん」
「痛い……」
正直に呻いている彼の頭をニアがよしよしと撫でている。ここのところはかなり素直に「痛い」が出てくるようになったウィルゴである。
半ば呆れた気分でその和やかな光景を眺めていると、怒り心頭といった面持ちのマツリが右手に握る包丁で燻製肉を勢いよくぶった切った。
怖い。
「こいつ真水を思いっきりぶち零しやがった!」
言葉通り、ウィルゴの足元は濡れている。近くには桶が転がっていた。
次の陸への日数を数えながら、アレンは頭を掻いた。あと三日はかかる。ここにきて桶一杯分を引っくり返したなら、料理長がここまで怒るのも無理はない。
「これはまた大胆にやらかしたな……ごめんマツリ」
大人しく謝るもののマツリの眼光は鋭さを増しただけだった。
「これで二回目だぞ、大胆どころの騒ぎじゃねェ。それで平然としてやがるんだからとんだ野郎だな! 教育係ならもっとしっかり見とけボケナス!!」
「うわ、二回目とか本当ごめん。ちゃんと言い聞かせるよ」
凄まじい音をたてて肉を切っていくマツリがたいへん怖いので、アレンは苦笑して謝りながらウィルゴの首根っこを引っ掴んでその場から離れた。ニアはこちらを何度も振り返りながら、自分の持ち場に戻っていく。
不機嫌なマツリをこれ以上刺激しない程度のところまで離れて、隅っこの方に二人でしゃがみ込んだ。
余程痛かったのか、ウィルゴはまだ殴られた箇所を押さえている。
「う……水を零したくらいで……」
いつもの彼ならこんな言葉は出てこない。
あんな風に殴られたのは乗船してからも初めてだったから、動転しているだけなのだろう。実際マツリのあの拳骨は痛い。ぼやきたい気持ちもなんとなくわかるのだが──思わず手が出た。
胸倉を掴み上げて壁に押しつける。
「……水がどれだけ貴重なのか少し考えれば解るだろ!」
「…………」
思ってもみなかったというような表情だ。
百歩譲っても水を零したところまではまだ失敗で許される。マツリは二回目だと言った。手の早いあの料理長にしては寛大な方だった。けれどその後の一言は、いくら新入りといっても聞き流されるべきではない。
聞いたのがアレンでなければもう三発は頂いている。
「おまえ、海水と真水の違いわかってないな? 真水は海から調達できない。だけど料理や怪我の治療には不可欠だから、港に寄る度に街や村から譲ってもらったり買ったりするんだ。清潔な水なんてものすごく貴重なんだよ。それくらい内地で育っててもわかるだろ? 菌が船内に蔓延したら沈むって言ったけど、水がなくなっても船は沈む!!」
「…………、そう、なのか」
「そうなの。……なんでマツリが怒ったか解った?」
ウィルゴが僅かに顎を引く。
頭はいいのだから言われたことを自分で噛み砕いて理解するだろう。十分に反省したと見られるところで、アレンは深呼吸した。
「ほーら、そのへんにしろアレン」
ウィルゴの服の襟を掴んでいた手を、横から叩かれる。
ジオが苦笑いを浮かべて立っていた。
「ウィルゴはマツリに謝ってこい。口悪いし気は短いしすぐ殴るオッサンだけど、謝ったらあっさり許してくれるし、おまえは筋がいいって珍しく褒めてたぜ」
ゆっくりとアレンが襟を解放すると、ウィルゴは目を伏せて、いまだ燻製肉を勢いよくぶった切り続ける料理長のもとへ足早に去っていく。
その後ろ姿を見送り、内心首を傾げた。
何かが噛み合わなかった気がする。
いつもなら叱られた後、アレンがその内容や原因を説明してやれば「わかった、すまない、気をつける」と神妙にうなずくウィルゴが、今日は何も言わなかった。
なんともいえない気持ち悪さに眉を寄せると、ジオが「おまえが悪いぞ」と釘を刺してきた。
「でも間違ったことは言ってない」
「胸倉掴んで怒鳴ってちゃ他の奴らと一緒だろ。おまえだけは、きちんと冷静に教えてあげないとだめだ」
ウィルゴがマツリの傍に寄っていって頭を下げる。
もう一回ごつんとやられて頭を抱えたものの、気が済んだらしいマツリの指示を受けて、野菜を切っている船員たちに混ざっていった。
「毎回一緒に怒られて疲れんのもわかるけどさ。一番しんどい思いしてんのは、いままでしてきた暮らしがひとっつも通用しない海賊に飛び込んで、毎日毎日怒られてるウィルゴなんだからよ」
ちょっと笑ったジオの言葉に、アレンは今度こそ眉間の皺を盛大に深くした。
ウィルゴは、自分を貴族だとは言わなかった。
けれどその立ち姿、歩き姿、指先の一片。濁らない美しい帝都の発音に、海賊にとっては日常である俗語のひとつも混ざらない言葉。いまや見る影もないが乗船当初はやたらときれいだった手に、艶のある黒髪。
一つひとつから、その育ちのよさが滲んでいた。
生まれは山に近い内地だと言ったから、南西の都市に生まれて、帝都の貴族へ養子にでも出たのだろう。
「そうだよなぁ……しんどいよなぁ、あいつ」
「そーそー。自分が船に乗った頃のこと思い出せよ。毎日迷子になってぴーぴー泣いてたろ」
「泣いてない!」
……いや、一回くらいは泣いたかもしれない。
その頃にもよくよく面倒を見てくれたジオから顔を逸らして唇を尖らせる。
「……あいつしんどいとか言わないんだもん」
「それももうわかってることだろうがよ」
一緒に野菜を千切っていた船員に小突かれたウィルゴがふらついた。
多分、こういう小突きどつかれといった関わり合いも初めてなのだろう。どうしたらいいかわからないといった顔になって、結局口を噤む。船員の中には不器用なウィルゴとどう接したらいいかわからないと困る者も現れてきていた。
困られていることにも、きっと彼は気付いている。
だけどやっぱりどうしたらいいかわからないから、傷付いたって戸惑ったって黙り込んでいるのだ。
「ジオはさぁ、ウィルゴのことどう思う」
「……生まれが山で内地で育ったっつってたな」
「うん。おれやグレイはきっと位の高い貴族だったんだろうって思ってるんだけど」
「オレはな、貴族の館に買われた奴隷だったかもなって思ってる」
無言で隣の兄貴分を見上げる。
「確かに見た目や仕草はお上品なんだけどな……そのわりに命狙われたり、痛みを我慢する癖があったり意味わからんだろ。自分の意思を口にすることに対する怯えみたいなものもあって、人形みたいな感じがする。案外、抑圧された環境にいたのかもしれん」
「……本っ当、厄介な拾いものしちゃったよ」
「おまえの拾いもんだろ。命救った責任くらい果たしてやれよ」
「わかってるよ」
そうして眺めているうちに作業がひと段落したらしく、スープを作っていたニアがウィルゴに駆け寄っていく。あの少女は並々ならぬ事情を抱えたウィルゴをよく気遣ってくれて、気付けばアレンの次に彼と一緒にいるようになっていた。
ニアに手を引かれたウィルゴは、木の器にスープを二杯盛って、両手に持ってこちらへ近付いてくる。それを見たジオが楽しそうに笑いながら離れていった。
無言でその接近を見ていると、彼は数歩前で立ち止まり器を差し出してきた。
「…………」
「…………」
無言で受け取る。
壁に背を預けて立っているアレンの隣に腰を下ろした彼が、どんな表情をしているのかはよく見えない。
あの小さな少女にまで仲を心配されていたことに気付き、心の中で大きな溜め息をついた。
「悪かったよ。胸倉掴むことなかったよな」
すると、ウィルゴはぎくりと肩を震わせてアレンを見上げた。
またこの顔だ。
思いもよらないことを言われて驚いたような、傷付いたような。
「いや、……俺も、すまなかった。教えてくれたのに、態度が悪かった」
言葉を重ねるごとに俯きがちになっていくウィルゴのつむじを見下ろしながら、ニアとその他大勢がつくったスープを一口いただく。
船員たちは各々食事を始めていた。豆と山羊の肉を香辛料で煮込んだスープと、燻製肉と野菜の炒めものと、釣りの得意な船員が釣ったよくわからない魚の刺身。献立は毎日大体同じものだが、マツリが上手に味付けを工夫してくれる。
「俺の零した水で、何杯分スープがつくれたかなと、考えた」
「ぶふっ」真面目にそんなことを言うから噴いてしまった。
しかしウィルゴは続けて大真面目に、こんなことを呟く。
「温かい料理も、……何年振りだろう」
生まれてこの方、母の作る手料理か、海賊船に乗ってからはみんなで作ったご飯を囲っていたアレンには、到底酌んでやることのできない想いだった。
そんなのって損だ。
冷めているより温かいスープの方が美味しいに決まっている。
「おいしいだろ」
ウィルゴは返事をしなかった。その代わり、出来立てほやほやのスープを勢いよく飲み干した。
「あっ……」
「ん?」
「熱い……」
「当たり前だろ莫迦かおまえ! 誰か水!!」
小さく「舌が痛い」と呻きながら項垂れるウィルゴの肩を大笑いしながら叩いていると、ニアがぱたぱたと水を運んできた。この大騒ぎを聞きつけた船員がわらわら集まってきて、「どうしたどうした」「大丈夫か」とニヤニヤしながら新入りの頭を叩く。
こうなるともう貴族とか奴隷とかいうより、ただのうっかりさんなのではないだろうか。