6 「なー、ニア」
ニアという名前の少女は、ウィルゴよりも少し前にアレンが連れてきた『拾いもの』だった。
艶やかな黒い髪と紺碧色の双眸がとてもきれいな、十歳をいくつか超えたくらいの女の子で、メイヴェーラ号では最年少のクルーになる。
数少ない料理人の見習いとして船に乗る少女は、椅子から飛び降りてグレイに頭を下げた。
「ウィルゴ、この子はニア。いつもは厨房にいるけど、繕いものがすごく上手だから、何かあったら頼むといいよ」
彼女の頭をぐりぐり撫でながら紹介してやると、ウィルゴはまた少し困ったように逡巡していたが、やがて膝を折ってニアと目線を合わせる。
その流れるような仕草といったら女性クルーがニアに読み聞かせている他国の童話の王子様のようだった。
それがまた様になっているから面白い。
王子様。
──いや、さすがにないな。それは面白すぎる。
「……ウィルゴという。つい先日からこの船に乗っているので、色々と教えて貰えると助かる」
ニアはにこりと笑って小さな手を差し出した。ウィルゴもそれに応えて、二人はぎこちなく握手を交わす。
ウィルゴの手のひび割れに気付いた少女が、眉を下げて痛ましげにそこを撫でた。
痛かったのかびっくりしたのか、撫でられた本人は目を丸くして固まってしまう。
「ニアはすごく無口なんだ。喋ってるところ、おれも見たことない」
「無口のレベルじゃねぇんだけどな」
グレイの小声の突っ込みが入る。
「でも耳は聞こえてるから普通に会話できるよ」
「ニアと会話できんのはおまえだけだアレン。……で、なんの用だ。手荒れの軟膏っつったか」
「そうそう、ウィルゴの手がもうザックリパックリで痛々しいったら。痛いって言わないから全然気付かなかったよ」
ニアとの挨拶を終えたウィルゴがおずおず両手を差し出す。「おーおーこりゃまた盛大だな」と感心しながら、グレイは薬品の並ぶ棚から軟膏を取り出した。
「一応訊くが、おまえ痛覚はあるな?」
訊かれた本人は肯くが、全然そう見えないのが問題なのだった。
「そういや抜糸のときも眉顰めた程度だったな……」
椅子に座ったウィルゴの手を掴んで、グレイが軟膏を塗り始めても、彼の表情はいまいち変わらない。あのくらいの手荒れになるともう何もしていなくても痛いはずだから、いまなんて涙が浮かんで悲鳴を上げたっておかしくないのだが、そんな様子は微塵もなかった。
ニアもはらはらした表情でウィルゴの治療を眺めている。
「痛覚ってのは身体の限界を訴えるものだ。痛みがあるから恐怖を持てる。恐怖があるから思いとどまって自分の命を守れる。おまえみたいに痛いのを我慢するのが癖になってる奴は、どこまでが致命的な痛みなのか判んなくなって、痛いって誰にも言えずにいつの間にかその辺で野垂れ死ぬぞ」
「……さっき言われた。我慢していい痛みとしてはいけないそれがあると」
「そうだな。体にかかる外的・内的な物理的痛みは須らく我慢してはいけない痛みのうちだ。おまえみたいな素性も知れない奴が船に乗るのは反対だが、船長が許した以上うちの家族だ、家族が痛いのはみんな嫌なんだよ。だから堪えるくらいなら痛いっつってみんなに心配させろ、心配する方が楽なこともある。さっきのニアの顔、見たろ」
アレンの服の裾を握りしめたニアがぴたりと身を寄せてくる。
「傷病を負ったら速やかに報告・治療。これがメイヴェーラ号の決まりだ。遵守しろよ、新入りっ」
「っ――」
処置を終えたウィルゴの手を思いきり叩き落として、グレイがにやりと笑う。咄嗟のことだったからか、声を詰めて痛がるウィルゴの背中に思わず吹き出すと、恨めし気に睨まれた。
それを見たグレイは笑いながら薬の入った瓶を投げ渡してくる。
「オーケイ、その調子だ。手荒れだって莫迦にならんぞ、そのまま放っておけば膿んで蛆が湧く、ひどくなったら切断だ。それが嫌ならこの軟膏を一日三度塗って、水仕事は治るまで控えること。水に触れたら塗り直せ。ニア、薄手の手袋でも作ってやってくれ」
ニアは指先を揃えた右手をぴしっと額につけた。“ラジャー”。
「ついでに腹の様子も見せろ」
言うが早いかグレイはウィルゴのシャツをがばっと引っぺがす。痛みの余韻で反抗もできないその体からグレイが包帯を解いていくと、生々しい傷跡が無数に残る肌が現れた。
応急処置をしたのはアレンだし、治療の合間にたまに見ていたから慣れてはいたが、それでも見る度にどうしようもない気持ちになる。
初めてのニアはぱっと目を逸らしてアレンの腹に顔を埋めた。
ほぼ治りつつあるものや、皮膚の盛り上がりが傷跡として残ってしまったもの、またようやく塞がりつつあるといった具合のものもある。
「きれいな体だったんだろうになァ。残念だな、痕が残って」
「別に……命を拾ってもらっただけ感謝している」
「そうかい。こっちの治りは順調だな、このままよく食ってよく寝ろ」
ウィルゴの傷は、正面から斬られたものも背後から斬られたものもあった。大勢に囲まれたのだろう。最もひどいのは脇腹、ここはなかなか傷が塞がらずに難儀したしまだ油断できない。
「痛くない?」
アレンが尋ねると、新しく包帯を巻き直されながらウィルゴが首だけ振り返る。
「……治りきっていない傷が引き攣るのはたまに痛いが、船医長のくれた鎮痛剤がよく効いている」
しつこく諭されたのが功を奏したか、ウィルゴの答えは極めて的確だった。
「もしかして明け方にごそごそしてるのってそれか?」
絶対安静期間を終えたウィルゴは、いまはアレンや他の船員と同じ部屋で寝起きしている。ハンモックにうまく乗れなくてたまに引っくり返るので床に寝かせているのだが、よく寝返りを打っていたことを思い出して尋ねると、彼は首を横にした。
「いや、それは夢見が悪くて起きるだけだ。痛くて起きているわけじゃない。……起こしていたか」
これに反応したのはグレイだった。
「夢見が悪い? それは初耳だ」
「それこそ言ってもどうしようもないものだ。この傷を負ったときの──囲まれたときのことを夢に見る。起きたらもう明け方だし、不眠というわけでもないから問題ない」
包帯を巻き終わり、ウィルゴが着衣を整えながらまたしれっと答える。
彼のかんばせを彫刻のようだと思ったことがあるが、いまとなっては感情を表に出さないその様は発条仕掛けの人形のようにも見えた。
「問題は……まあないけどな……いや、もういい、アレンあと頼んだ」
「……面倒くさくなったんだろ」
グレイは無言でアレンたちにしっしと手を振った。やっぱり。面倒くさくなったのだ。
ニアと三人で医務室を出てしばらくしたところで、ウィルゴが「俺はまた何かまずいことをしていただろうか」と声をかけてきた。
足を止め、ニアとアレンで見つめ合う。
別にまずいことをしたわけではない。これといって致命的な問題でもない。だがクルーとしては打ち明けてほしかった。その程度の話なのだ。
ニアがちょっと笑って首を傾げる。“気にしてるみたいだね”。
そうだなあと肯きながら、アレンは後ろで悩ましい表情をしているウィルゴを振り返った。
「まずくはないんだよ。ただそういう悩みがあるなら話してほしかったなって」
「……悩みというほどのことでは」
「そう言うと思った、ウィルゴは強いな。でも、しんどいことは分け合っての家族だから、なんでもないことも話してほしいんだよ。なー、ニア」
にっこり笑顔が返ってくる。“ねー、アレン”。
ウィルゴは小さく息を吐いて頭を掻いた。
無造作に流された黒髪をぐしゃぐしゃに乱しながら眉を寄せる。
「難しいな。家族というのは」
「言ったろ、徐々に慣れていけばいいって。ウィルゴが痛いものはみんな痛いし、夢を見て苦しんでいるなら一緒に夢を見なくなる方法を考えたい。うちはそういう家族なんだよ」
困ったようにしばらく黙っていたウィルゴだったが、やがて口元を緩めた。
彼が乗船してから初めて浮かべた、微笑みにも似た表情だった。