5 「アレン! ゴー!」
ウィルゴの船上生活はアレンの想像以上に困難の連続だった。
死にかけの彼を拾ってすぐに出航してからこちら、穏やかな気候で風の弱い日が続いたため、陸地からある程度離れた沖でのんびりと海を漂っているような状況だった。こういうときのメイヴェーラ号は、慌てず焦らずのんびりと海上の日々を楽しむようにしている。
だが船長から次の目的地が告げられ、本格的な航海が始まると、山生まれ内地育ちという身の上は真実だったらしいウィルゴは驚くほどあっさり船酔いで昏倒した。
変なところでプライドが高いのか、気分が悪いことをアレンにさえ申告せず我慢した結果、甲板の隅っこで樽に紛れて倒れているのを発見されたのだ。
「アレーン! ウィルゴが死んでるー!!」とジオの大声に報せを受けたときの、アレンの心境はとても言葉にはできない。
余計な病人が増えたことにグレイが激怒し、アレンもとばっちりで怒られ、ウィルゴは医務室へ強制送還された。三日経ち、症状が軽くなると甲板に現れるようになったが、それでも顔が蒼白い。
誰もが通る道なので、皆そっと見守った。
「おいアレン、あいつ大丈夫かよ」
「まあな……船酔いは慣れるしかないもんな……」
「ああほらあんなフラフラしてっと樽に躓くぞ、危なっかしいな」
柱の影からはらはらとウィルゴを眺める海の男たちの図は非常に奇怪なものだった。
新入りが船酔いに悩んでいる頃よく見られる光景だ。傍から見ると近付きたくないくらい厳ついし暑苦しいのだが、彼らなりに愛情たっぷりウィルゴを見守っているつもりなので、誰も責めることはできない。
「あっ転んだ」
「アレン! ゴー!」
「おれは犬かよ」
まさに波を割ったタイミングで大きく船体が揺れ、まだ体幹のしっかりしていないウィルゴはよろけて床に倒れ込んだ。
すぐさまアレンを呼び寄せる男たちに半ば呆れながら、揺れが収まるのを大人しく待っているウィルゴの方に歩いていく。自分たちで声をかけてやればいいものを、あの新入りのあまりの華奢さや人馴れしない感じに怖気づいているらしい。最強の海賊ともあろう男たちが。
「頭、打ってないか?」
「それは大丈夫だが、この揺れどうにかならないか……」
「慣れろ」
憮然とした表情のウィルゴに笑いが零れた。
彼の手を取って立ち上がらせると、その指の背が赤く腫れているのが目に入った。
「……ウィルゴ、これ何?」
指の背や腹が数えきれないほどひび割れて血が滲んでいる。
アレンが顔を引き攣らせてしまうほどざっくり割れているところもあって、グレイが見たらまた激怒しそうな手だった。数日前に握手したすべらかな感触は跡形もない。
「……痛いだろ」
「いや、別に」
しれっと答えたウィルゴだが、彼はこの手で、当番の洗濯をしているのだ。
いや別にどころの騒ぎで済まないはずだった。想像するだに恐ろしい。
「なっ……んで言わなかったんだよ。これ! 小指も ザックリパックリいっちゃってるじゃん! 見てるだけで痛い!」
「言って治るものでもないし、痛いのはどうにでも我慢できる」
浮かんだ叱責をそのまま口に出そうとしていたアレンは、あまりにも何事もないようにそうのたまったウィルゴに言葉を失くした。
そういえば目を覚ました当初も、乱暴に縫いつけられた傷が痛いとは一言も言わなかったし、痛みなんて一切感じていないような顔をしていた。
船酔いだってそうだ、倒れるまで誰もウィルゴの体調が悪いことを知らなかった。
だからグレイは怒ったのだ。どうしてこんなになるまで言わなかった、あれだけ周りに船乗りがうろうろしていてなぜ誰も気付かなかったんだ、と。
痛みを我慢するのが習慣づいている。
一体どんな身の上なのやら、こっちの頭が痛くなってきた。
「……言って治らなくても、ちょっとでも痛かったら言え。船の中ではちょっとした怪我が命取りになったり、他の船員に迷惑がかかったりするし、菌が感染して船員の間に蔓延すれば船が沈む」
ウィルゴは殊勝な面持ちでアレンの話を聞いていた。
傷だらけの痛々しい手を握って、なんだか悲しい気持ちになってきた。アレンだったら痛い痛いと大騒ぎしてグレイに泣きついて「これくらい我慢しろ」と拳骨を頂くような傷だ。
「ここでは我慢していい痛みと、我慢しちゃいけない痛みがあるんだよ、ウィルゴ」
彼はまた無言になって、アレンの言葉を反芻しているみたいだった。
同い年の少年の面倒を見ているというよりも小さな子どもを諭しているような気分になってくる。
プライドが高いとか、そういうことではなくて、苦しいのを訴える言葉を持たない人なのかもしれない。
痛みは知っている。だけれどそれを訴えることを知らない。訴えたところでどうなるわけでもない。だから、痛いと言葉にすることさえ考えつかないのだ。
たまらない気持ちになった。
それは、だって、孤独の表れではないか。
「わかったらグレイのところに行こう。今日からは洗濯じゃなくて食事担当の週になるし、ちょうどいいな」
「……手間をかける」
「こういうときは『ありがとう』だ」
黙りこんだウィルゴの手を引いて、アレンは医務室を目指した。
梯子を下りるたびに、いまだ危なっかしい足取りのウィルゴをはらはらしながら待つ。油断したウィルゴが足を滑らせて落っこちたことはすでに数知れない。
「船酔いはだいぶよくなった?」
「慣れだろうな。最初は吐き気で食欲もなかったが、それで船医長に怒られた。吐いたら吐いた分食べて、食べた分吐いて、ぐっすり寝て、三日繰り返したらだいぶ回復した」
「よかった。みんな心配してたよ」
道中、いまも柱の影からちらちら見ている男どもを指さすと、ウィルゴはむず痒いのを堪えるような、変な表情をして俯いた。
「心配されるのも慣れてない?」
振り返って尋ねると、目を逸らされる。
「ウィルゴが痛いのを堪えるのも、ありがとうもごめんも言い辛そうなのも、心配されるのに慣れてないのも、話す気になったときに話せばいいよ。話さないままでも支障はない。メイヴェーラにはそんな奴らもたくさんいる。ちょっとずつ、ここでの生き方に慣れていけばいい」
ウィルゴから返事はなかった。
多分考え込んでいるだけなのだろうが、返事がないと無視された気分になるから、これも追々直っていけばいいと思う。
なんだか人間をひとり育てているみたいだなぁと内心で苦笑しつつ、医務室の扉を開けようとしたところで背後から声がかけられた。
「有難う」
「……おう、どう致しまして。──グレイ! 手荒れの軟膏ちょうだーい」
船長室以外のところでは特にノックする必要もないので、いつものように扉を勢いよく開ける。すると医務室の一角でグレイに治療を受けていた小さな後ろ姿がびっくりして振り返った。
グレイがじと目でこちらを見遣る。
「うるせェぞアレン」
「ごめん、ニアいたんだ。怪我したのか?」
「軽度の火傷」
面倒くさそうに応えながら、グレイはニアの処置を終えた。