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アンコール・サーガ  作者: 天乃律
第一章 厄介な拾い物
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1  ウィルゴとアレンと

 声にならない声で呼ばれた。


 その不思議な感覚に足を止めて後ろを振り返る。すると視線の先に横たわる少年が、僅かな呻き声を上げながら震える瞼を押し上げていた。


 つい先程まで昏睡状態にあった彼の額の手拭いを交換して部屋を出るところだったアレンは、再び枕元まで歩み寄る。


「起きた?」


 この傷でよくもまあ永らえたもんだ。


 人間のしぶとさに内心で感動しながら顔を覗き込むと、上半身を白いさらしでぐるぐる巻きにされた少年は、ゆっくり首を動かしてアレンの方を向いた。


 大怪我をして昏睡状態にあった人間にしては冷静な覚醒だ。


 目が覚めるや否や飛び起きるうちの船員たちとは大違いだなと、なんだか新鮮な気分になる。いや、これが普通なのかも。


 少年の漆黒の双眸は、波のない水面のようにアレンの姿を反射していた。


 もしかしたらまたすぐに意識を失うかもしれない。それでも「おーい」と声をかけてやると、彼は瞼を閉じて、また押し上げたのち、今度はしっかりした視線を寄越す。


 静かな空気を纏うひとだった。


 端整な顔立ちをしている。艶のある黒髪は、起きたばかりのいまは寝乱れているが、きちんと整えればそれなりに見栄えしそうな容貌だ。潮と太陽に焼かれたアレンの黄色い肌とは違い不健康なほど透き通る白い頬の右側には、痛々しい一本の旧い傷跡が縦に引き攣って伸びていた。


 首筋に巻かれた包帯、そして上半身を覆い隠すさらし。


 包帯では間に合わないほどの怪我だった。ちまちま巻くのが面倒になった船医が「もうさらしでいいだろコレ」と匙を投げたのだ。


「おまえ、一週間寝てたんだよ、まだゆっくりしてな。船医を呼んでくるから」

「ここは……」

「無理に喋らない方がいい。水も持ってこないとな。ここはうちの船の医務室で、少なくともおまえにとっての敵はいないから安心していい。ついでにおれはアレン。おまえの名前は?」


 ゆっくりとアレンの与えた情報を噛み砕いたらしい少年は、やや間を置いてから「名前」と小さく呟いた。


 喋らない方がいいって言ったのに質問しちゃったなぁとアレンが頭を掻いていると、横になったまま宙を見つめていた彼は乾いた唇を開く。


「名などない……」


 咄嗟に返す言葉がなかった。

 天井よりも遠くにある『何か』を懐古するような表情になり、彼は小さく息を吐く。


「……好きに呼んでくれ」


 この二言で、少年の抱える『何か』の厄介さを悟ってしまった。


 どうもすこぶる面倒な奴を拾ってしまったようだ。


 若干嫌気が差して天を仰ぎたくなったものの、本人を前にしてそれはあまりにもひどい態度なので自粛した。改めて自分の責任を見つめ直す。


 一週間前、瀕死の体で海に身を投げたこの少年を拾ったのは、ほかでもないアレンだった。


「じゃあ、メアリって呼ぶな。おまえ、気を失う前にその名前を呟いたから」

「…………」

「めちゃくちゃ嫌そうな顔だなオイ」




 アレンが呼んできた船医長の見立てによると、傷の治り自体は順調、あと一週間ほど安静にしていれば動けるようになるという。診察を終えて出て行く船医長に手招きされてそのあとをついていくと、医務室から十分に離れたところで足を止めた。


 眉間に皺を寄せた強面の船医長、兼副船長のグレイに睨みつけられ、アレンはそっと視線を逸らす。


「……おまえ、よくもまあ面倒な奴を拾ってきたな」

「やめてくれよ……さっき自分でも思ったところだよ……」

「船長はアレンの好きにさせろっつってたが、どうするんだ」

「まさかの丸投げ!」


 思わず膝をついてしまった。


 船長が放任主義なのはわかっていたことだし、そういう指示が出るのも八割方予想がついていたのだが、何かしらの意見をもらえるかもという期待は捨てていなかった。なにせアレンが拾ったときから面倒そうな感じのする奴だったのだ。


 火のついていない煙草を咥えながら、グレイが大きな溜め息をつく。


「本人が上手く避けたから致命傷にならずに済んだみてぇだが、あの傷を見る限りかなり執拗に命を狙われてるな。正直目を覚ますとは思わんかった」

「聞いてグレイ。名前を訊いたら『好きに呼んでくれ』って言うんだ」

「そりゃ最高にイカすこって」


 グレイの顔が面倒くさそうに歪んだ。


 記憶喪失というわけではない。だが名を明かす気はない。即ちその名は彼が命を狙われるに足る要因である、またはその名を知ればアレンたちにとって不利がある。そういうことだ。


「血塗れで見れたもんじゃなかったけどよ、身につけてた衣服もけっこうな代物だったろ。海の民とも山の者とも違うにおいだ、ありゃ内地の相当なお貴族様だな」

「やっぱそう思う? 上品だよな。きれいな帝都訛りっていうかさ」

「動けるようになる前に海に放り込んじまえ。厄介ごとは嫌いだぜ、おれは」

「人でなしー。それでも医者かー」


 それだけ告げて去っていく医者の後ろ姿を恨めしく見送りながら立ち上がり、アレンは再び医務室へ戻った。


 ドアを開けると少年は体を起こしていた。


 寝台横のチェストに置いてあるゴブレットに手を伸ばしているが、一週間昏睡していただけあってその動きはぎこちない。取ってやるから大人しくしてろとアレンが口を開く前に、彼の指は見事に水の入ったそれを引っくり返した。


「ああ、いいから、おれがやる」


 料理長にばれたら殺されるなと肝を冷やしながら、ぐらりと傾いた少年の体を支える。


「無理するなって。まだうまく動かないだろ」

「す……」


 声はそこで途切れた。


 まだ水を飲めていないからまともに喋れないのかもしれない。傷の痛みだってあるだろうに、なぜ無理して動いたりしたのだろう。


 できるだけ負担のないよう体を横たえてやると、「……まない」と、先程の「す」の続きらしきものが聴こえた。


「水、新しいの持ってくるな。料理長がスープ作ってくれてるけど飲めそう?」

「……ああ」

「じゃあもうちょっと待ってな」


 少年は掌を握ったり開いたりしながら静かに眉を顰めた。長期間寝こけたことがないからアレンにはその感覚がわからないが、ひどい熱を出して二日ほど寝込んだあと、しばらく体がだるいわうまく動かないわで苦労したことを思い出す。


 それでも、刀傷の痛みはよく知っているつもりだった。


 傷のない箇所を見つける方が難しいほどの重傷人のくせに、先程から苦痛に対する反応が一切見られないのが気にかかる。


「傷は痛くない?」

「飯を食って薬を飲んでいたら、痛くなくなるから我慢しろ、と」


 それはさっきグレイが伝えたことをそっくりそのまま述べているだけだ。


 つまり痛いということなんだろうか、と思いつつ「そうかぁ」と相槌を打ってやった。拾ったときは本当にひどい怪我だったから、訊いておいてなんだが痛くないわけがない。


「名前はなんて呼ぼう」


 僅かに震える指先を見つめていた彼に声をかけると、ゆったりと瞬きをしながら顔を上げる。


 動きのひとつひとつがやけにきれいだ。

 まるで周りに見られること前提で、上品な動きを窮めているみたいだ。


「好きに呼べと言うなら、好きな名前で呼んでやるよ」


 すると少年は少しだけ瞠目して、その瞳でアレンをじっと見つめた。


 アレンと同じ黒い髪。アレンと同じ、黒い双眸。この国では数が少ないこのいろの取り合わせに運命的なつながりを感じなかったといえば嘘になる。


 彼は口を閉ざしたまま眉を寄せた。


 そんなに名前が重大な身分にあるのだろうか。まるで手配書が回っている罪人ではないか。


 いい身なり、帝都訛りの言葉、上品な仕草、言えない名前。


 帝都の貴族のぼんぼんが何かやらかして出奔、逃亡の果てに瀕死の重傷を負って海に落っこちた……というのが、いまのところ一番ありそうな説だ。


 長い沈黙を経て、少年は身じろいだ。


「……ウィルゴ、と」


 彼の口にした名を、アレンは口の中で二度、繰り返した。

 ウィルゴ。──ウィルゴ。


「いい名前じゃないか」


 何気なく漏らしたその感想に、ウィルゴは険しく寄せられていた眉間の皺を緩め、目許を僅かに和らげた。


 泣きそうな顔だと思った。


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