1 「商業都市ヒルドレ」
イェルガ海賊団はカンラの港街で戦闘の後始末をしたあと、町中に散っていたクルーを呼び戻して、点呼ののち速やかに出航した。
昨日のウィルゴの提案を受けたジオが朝早く町長と話をつけて、もしも戦闘になった場合は海軍へ通報するという段取りにしていたらしい。死体の始末や他の海賊団の面々を縛り上げるなどして、海軍の部隊が押しかけてくる前に町を後にした。
「あんな町に近いところで海賊を殲滅して海に死体放り込むわけにいかねぇだろ。漁業で成り立ってる町なんだぜ。それなら海軍に処理させて、海賊に目ぇつけられたって思わせた方がいい。部隊を派遣してくれるって、請け負ったのはウィルゴだしな。様子見ていくしかねぇよ」
遠ざかる町を眺めながらジオはそう呟いた。
それから二週間ほどの穏やかな航海ののち、メイヴェーラ号はカンラより南、帝国と海向こうの諸島の貿易の関所を担う商業都市ヒルドレに到着した。
「陸が見えたぞ――」
誰かが大声でそう報告すると、クルーたちから歓声が上がる。
この船が家で、海に生きている海賊の男たちでも、陸地が見えると気分も昂揚するものらしい。甲板でアレンと向かい合って剣の稽古をつけてもらっていたウィルゴが思わず振り返ると、容赦のないアレンが手にした木の棒で肩を強かに打ってきた。
「痛っ……」
「よそ見しない! 稽古中とはいえ開始と終了の合図があるまで気を抜くな。戦闘に終わりの合図はないんだから」
「…………」
ご尤もだが打たれた肩が痛いので無言で抗議する。
するとアレンは棒を肩にかけて「まあいいや。今日は終わり」と苦笑いした。
「ヒルドレはしばらくぶりだなぁ」
「そうなのか?」
「うん。何年か前に軍艦が派遣されたから近寄らないようにしてたんだよね。なんでそんなことになったかは憶えてないけど」
多くのクルーがそうしているように、ウィルゴたちも船の縁に寄って、少しずつ近付いてくるヒルドレの地平に目をやった。
かの商業都市は貿易の関所というだけでなく、古くより栄える漁業によっても、東域カリン地方の経済を回す重要な役目を担っていた。広い海岸線に港は二つ。一つは小型の漁船などが所狭しと並ぶ漁港で、主に漁民が利用する。もう一つは貿易港、他国の大型帆船がずらりと構えて荷の積み下ろしをする場で、アレンが述べたように派遣されてきた軍艦が常時貿易を監視している。
いかに東海で名の知れたイェルガ海賊団といえども、海軍の控える港の近くに堂々と入港することはできないので、メイヴェーラ号はさらに南、ヒルドレの外れの岬に針路を取っていた。
「三年前にな」
「うん?」
すっかり慣れてしまった船の揺れに体を預けながら零すと、アレンが首を傾げる。
「三年前、ヒルドレの港で大規模な麻薬の密輸と荷の横流しが発覚した。たまたま港に視察に来ていた騎士団長が麻薬中毒者を捕えたことから芋蔓式に商人の悪事が暴露されたんだ。それを受けた皇帝ライヒアルドがこの地に軍艦カトリーナ号を配備して、貿易の監視強化を命じた」
「よく知ってるなあ」
「監視強化といっても軍人にできることはたかが知れているがな。だから帝室は領主に指示を出し、商業組合に掛け合って第三者機関を設置させた。いまは検閲も内部監査もかなり厳しいはずだ。ついでにヒルドレは帝都からつながるルイーズ街道の終着点でもあるわけだが、ここの関所の検問にも帝国陸軍が配備されている……のだが……」
言葉を切ったウィルゴは、隣でふんふんと聴いていたアレンと、いつの間にかずらっと集まっていた厳ついクルーたちに視線をやって苦い顔をした。
圧がすごい。
「……なんだ」
「おまえ詳しいな……」
「そんなに喋ってるの初めて聴いたぞ」
「勉強になるな」
「三歩でも歩いたら忘れそう。五年前? だっけ?」
好きなことを好きなように言い捨てて散っていく、もはや顔馴染みのクルーたちの後ろ姿を見送り、天を仰いで溜め息をつく。
アレンがにっこり笑った。
瞳が大きいせいでウィルゴよりもいくらか幼い印象を受ける同い年の拾い主は、屈託のない様子で嬉しそうにしている。
「だいぶ馴染んだな、ウィルゴも」
そうなのだ。
ひと月半前、のっぴきならない事情と死へまっしぐらの大怪我を抱えて海へ飛び込んだウィルゴは、この呆れるほどお人好し集団でお節介魔な男たち――と少数の女性たち――の巣窟、イェルガ海賊団に拾われた。
なんのかんのあって生き延びたのち下船のタイミングを掴めないまま世話になり、先日のカンラでの、一人逃げ出そうとした海賊の男を馬に乗って追いかけすっ転ばせたという一件がきっかけで、なぜかクルーたちからやたらと構われるようになっている。
帝都から遠く離れた東の海。
己を取り巻く厄介な事情を、一切明かさないまま。
前回と同じように先遣隊による陸地の偵察なども経て、メイヴェーラ号がヒルドレ南部の岩陰に碇を下ろしたのは昼前のことだった。
ウィルゴはカンラでは自分の日用品の調達を言いつけられたが、今回はクルーと組んで買い出しに出かけることとなっている。
通常の当番であれば今回はまず留守番が回ってくるはずだったのだが、カンラで大砲を五発ぶっ放したせいで会計とローテーションに狂いが生じたらしい。
「それでは先程指示した通りの物品を各自購入のち、二時までには総員甲板へ一旦戻ってくること。その後は翌朝まで自由行動だが明日は一日船番だからはしゃぐなよ」
第一隊副隊長のガルシアが先頭に立ち、物品リストを配布していく。
ウィルゴはアレンとマルカの二人と一緒に洗濯用品の買い出しとなった。
このトリオが発表された瞬間、マルカが悪鬼のような表情になって金髪を逆立てたのを感じたウィルゴだったが、努めて気にしないよう表情を取り繕っている。
もう二週間以上前のことになるが、出会い頭でマルカに海へ突き落とされたことに関しては、結局あれから言及していない。
海に落っこちたウィルゴを助けた船員たちの手際からみて落水は珍しくないようだったし、よく面倒を見てくれるアレンやジオが騒ぎ立てるようなこともなかったので、大した問題でもないのだろう。水の中での動き方を知らなかったために死にかけはしたが、イェルガ海賊団に命を救われた新参者として、先輩クルーたるマルカと険悪な関係になるのは避けたかった。
彼女の方から一方的に、ちょっとよくわからない恨みを向けられていることについては、ウィルゴが大ごとにしなければ済むことだ。
「……じゃ、行こうか。ウィルゴにマルカ」
「ああ」
「ええ」
ただ、ものすごく微妙な距離感の二人の間に立たされてちょっと困った様子のアレンは、不憫だなと思う。
ちなみにカンラを出たあとでの航海の間も、すれ違いざまに足を引っ掛けられるとか、小さく「女装男」と悪態をつかれるとか、そういう地味な嫌がらせは続いている。
さすがに女装男は傷付いたが――アレンに「なんかごめんな」と言われた程度には顔に出たらしかった――、ここまであからさまに態度で「おまえが嫌いだ」と言われるのも珍しいもので、いっそ気持ちがいい。
マルカは相も変わらずウィルゴへ敵愾心に似たものを注ぎ続けているが、憎さ余って単独行動なんてことはせず、アレンの横に並んで大人しく出発した。
「どうやって上陸するんだ? 下は海だが」
岩場の影に碇泊したメイヴェーラ号は、峻厳な岬に右舷を添わせるようにして停まっているが、どこにも陸地と接していない。縄梯子を伝って下りるにしたって海に浮かぶだけだ。
まさか陸地まで泳ぐつもりでは……と構えたウィルゴの目の前で、鍛えられた筋肉の眩しいいかにも力仕事担当といった体のクルーたちが、甲板の船尾側に固定してあった小舟を運んできた。
「こういう場合はねー、小さい船に乗ってそっと上陸するんだよー」
「成る程」
細いウィルゴの腕ほどもありそうなロープでしっかりと小舟を四箇所ほどつなぐと、何人かでロープを掴んで、ゆっくりと船を下ろしていく。三隻下ろしたところで買い出し隊が縄梯子で降り始めたので、ウィルゴもその列に並んだ。
先に下りていたクルーのからかい好きなおじさん連中に「ウィルゴ! ゆっくりだぞ!」「落ちたら受け止めてやるからな!」「今回は落ちても海だから大丈夫だぞ」と囃し立てられながら恙なく着地。
アレンとマルカは梯子どころか、一本垂らしただけの縄を伝って器用に降りてきた。
何人か乗り込んだところで甲板につながっているロープをほどき、船番のクルーが漕いで近くの岩場まで送ってくれる。
「ウィルゴ! ヒルドレは海老が美味いから食ってこいよ」
「海老……」
からかい好きおじさん連中筆頭、よくウィルゴの言動をはらはらしながら遠目に見守っているウォンがぐっと親指を立てた。
「海老食ったことないのか?」
「いや、ある。ヒルドレではないが」
「そうか。絶品だからなー絶対食えよー」
言いながら船を漕いで戻っていくウォンを見送り、アレンとマルカのあとを追う。
メイヴェーラ号をつけた岬は緩やかに内側へと湾曲した地形になっており、送ってもらった岩場の上に覆いかぶさるように広がる崖で、ちょうど船の巨体は港の方から見えないようになっていた。うまい隠れ場所があるものだなと感心しながら、足元の岩に気をつけて進む。
岩場は徐々に緑に侵食されて森になり、アレンたちはその森の中を迷わず突っ切っていった。
森を抜けると、やや離れたところに見える貿易港の手前まで続く砂浜に出る。
「えーっと」
先程ガルシアから受け取ったリストを開いて、アレンが読み上げた。
「洗濯用桶、十個。洗濯板、二枚。予備のロープ、二巻き」
「市場で済むわね」
「そうだね。量が多いし、昼食べたあとで買い物しようか」
ヒルドレ初上陸のウィルゴは、先輩二人の意見に従う以外ない。
「ウィルゴは頭隠しといて」
大人しく肯いて、腰に巻いていた布で目立つ黒髪を覆った。先の町でアレンが購入してくれたものだ。特徴となり得る右頬の傷も、到着を待つ間に化粧で隠してある。
さすがにもう女装はしない。
ヒルドレの漁港周辺には規模の大きな生鮮市場が構えており、学校や役場などがある町の中心部へ近付くにつれて、日用品や衣料品店など輸入品を扱う店が増えてくる。
漁港の向こうが貿易港、つまり軍艦カトリーナ号が常駐する港になるので、間違ってもそちらには近付いてはいけない。
「ヒルドレか……話にはよく聴いていたがまさか自分の足で来ることになろうとは」
「帝都の方でもやっぱり有名?」
「ああ。貿易の要だからな。当然、ヒルドレで輸入したものが帝都に流通する」
「それもそうか」
この町を含む、キーリ帝国東域カリン地方の一帯を治めるは、オレイシオ・マズウェル男爵。
会ったことはないから問題ないが、確か彼の別邸がヒルドレにあるという話だったし、何より海軍が常駐しているというのが拙い。この買い出しが終わったらまた船に引っ込むべきだろうなと思いながら、小さく息を吐いた。