8 「いつか私が殺して差し上げます」
男が港に到着したときには、ひどい騒ぎになっていた。
キーリ帝国海軍上層部が長年頭を悩ませている『東海一帯を束ねる最強の海賊団』の面々が、戦場となった港の海岸の後始末をしている。斬り伏せた別の海賊団の死体の始末をする者、あるいは息のある者や軽傷の者を捕縛して漁船に詰め込む者、あるいは血に汚れた石畳を洗浄する者。
そして、それに手を貸すカンラの町の民。
「ユーリェン殿、如何いたしますか。彼らは……」
「……イェルガ海賊団だ。この戦力ではどうしようもない」
別件で町を訪れていた男が、今朝早くに「海賊同士で戦闘が起きている」という町の者の通報を受けて駆けつけた帝国海軍の一部隊と合流したのはいましがたのことだ。
戦闘はすでに終わった。見ればわかる。イェルガ海賊団の圧勝である。
「後始末が終われば出航するだろう。そういう連中だ」
キーリ帝国の東部に広がる東海一帯の大部分を縄張りとして、三〇年の長きに渡り最強の名を恣にする世界最大の海賊団。
不落の艦船メイヴェーラ号を母艦とし、船員およそ二〇〇名、配下の海賊団の数は二〇を超える。船長のイリヤを母と仰ぐ船員たちの不屈の忠誠心と、帝国海軍の足許を見る操舵技術、そして何よりも縄張りの海域に住まう人々からの根強い支持を得ている破落戸どもである。
海軍の総力を挙げて潰しにかかるならまだしも、戦闘の取り締まりに来た若干二〇名の一部隊では、戦う前から結果はわかりきっていた。
頭部を覆い隠していたフードを取り去り、男は港の光景を見やる。
海軍よりも海賊に頼る町民。
町の平和を強大な戦力で獲得する、海賊。
「……この国は歪んでいる……」
口元はまだ布を巻いたままだったから、この言葉は背後に控える海軍兵士たちには聞こえていなかった。
琥珀色の瞳が悲痛ないろを浮かべる。
男がこの場所に辿りついたのは先程のこと。
だから彼は知らない。
黒い髪を布で覆い、右頬の傷を白粉で隠し、女性ものの衣服を身につけた、黒曜石の双眸をもつ少年が――、
先程男が人違いをした黒い髪の少年に肩を抱かれ、見事な乗馬技術を褒めそやされていたことを――
彼は知らない。
***
死んでいたような気がする。
薄暗く湿っぽい橋の下で蹲り、ただ死神の足音を待つばかりだったあのときと同じように。
冷えた体を抱きしめて噛み合わない歯の音が頭蓋に響くのを他人事のように聴きながら、けっして長くなかったその生を反芻していた死に際と、同じように。
思い出したように息を吸うと、その拍子に瞼が開いた。
最初はぼやけていたが瞬きを繰り返すと焦点が合うようになる。天井の木目をひとつふたつと数えていると、「起きたか」とぶっきら棒な男の声が降ってきた。
燃えるように赤い短髪の印象的な、屈強な男だった。
枕元の椅子に腰かけて本を読んでいたらしい。横たわっているのは、男の寝室と思しき狭い部屋の中の寝台だった。わざわざ付き添って目を覚ますのを待っていたのかと思い当たるとなんだか薄ら寒くなる。
そうだ。
数年前に橋の下で死にかけていたときは、こいつに拾われたのだった。
「なんだ……豚小屋か……」
「起き抜けにそんだけ皮肉が出てくるなんて相変わらずだな。痺れるぜ」
喉が痛い。口の中がからからに乾いている。
その不快感に目を歪めると、男は察したような顔になって窓際のテーブルに置いてあったゴブレットを差し出してきた。長いこと動いていなかったせいで全身の反応が鈍いが、それをあからさまに見せるのも癪なので涼しい顔をして身を起こす。
受け取った水を喉に流し込み、治療された跡のある自分の体を見下ろした。
すると男が厭味ったらしい笑みを浮かべる。
「あんなとこで死にかけてなにやってんだよ、『斬りひと』……いや、『皇帝の双剣』殿とお呼びした方がいいのかな?」
その呼び名に、ぴくりと目尻が反応したのが自分でわかった。
「五年も姿くらましてどこほっつき歩いてやがったか知らねえが、いつの間にか御大層なお役目に就いてたみてぇだな。目ぇ疑ったぜ、キーリ帝国暗部を震撼させる姿なき暗殺者様が――皇帝陛下の隣に控えてんだからよ」
男は愉しそうに口角を釣り上げて黙った。
こちらの反応を楽しんでいるようなその態度が鼻につくものの、昔からこいつはこうだし、命を拾ってもらったことに変わりはない。さすがに死んだと思った。かなり間抜けなへまをして囲まれ、この人生で初めての重傷を負った。しかしなんの因果か死に損なったらしい。
首をくるりと回して男を見る。
「……服」
「あ?」
「服を貸せ。おまえの煙草臭いので我慢してやるから」
「てめえそれが助けてもらった奴の言うことかよ!?」
と怒鳴りつつ、すでに寝台の足元に用意してあった衣服を投げつけてくる。厭味な笑みも煙草の臭いもついでに世話焼きな性格も健在のようだ。
がしがしと頭を掻きながら、部屋の壁に立てかけてあった棒状のものも寄越してくる。
包んであった布をほどくと、中から一振りの剣が姿を現した。
太陽の装飾がついた柄に大鷲の柄頭、細やかな彫刻の施された鞘。
「近くに落ちてたから拾ってやった。感謝しろ」
生きていると知ったときとは比べ物にならない激情が込み上げる。
この男の目の前で甚だ不本意ながら、喉を掠るような吐息を洩らし、その鞘に額を当てて祈るように頭を垂れた。
「――有難い……」
「お……おう……素直に感謝されるとそれはそれで気味悪いな……」
「いや別におまえに言ったわけじゃないけど」
「てめえいますぐ追い出すぞ!!」
額に青筋を浮かべる昔馴染みに笑みを向ける。
すると彼は大きく溜め息をつき、枕元の椅子に腰かけてこちらを睨みつけた。昔からこいつはこうだったと、先程考えたのと同じ、男の方もそうやってなんとなく懐かしい気持ちでいるに違いない。
「黒髪、黒い眼、右頬に傷跡」
「…………」
「生きてるぜ」
今度こそ、己の表情がはっきりと変わったのを感じた。
生きている。
彼が。
「おまえにそんな表情させる、あの餓鬼は一体何者だ?」
応えなかった。
手早く衣服を身につけて寝台から下りる。男は一瞬だけ慌てて「おい」と声を上げたが、すぐに諦めたような目つきになって項垂れた。
「ったく目の色変えやがって、恋する乙女かよ」
「そんな幸福な話じゃないさ。ただ約束しただけ」
「約束ねぇ。『斬りひと』が律儀にそんなモン守ろうとしてるってだけで卒倒ものだがな……」
しつこい悪態はさらりと無視して、脳裡に浮かぶ彼の横顔を想う。あんな甘っちょろいひ弱な世間知らずが、よもや自分と別れたあとも生き延びているとは思わなかった。
神託はまだ遠い。
今度こそ筋書きが変わるかもしれない――
「約束、しただけだ」
待っていてくださいね。私の主。
すぐに行きますから。
「いつか私が殺して差し上げます――と」