4 「南の空を仰ぐ」
……昔の話だ。
マツリが利き手を落とすより前。皇帝が替わるよりも前。アレンがこの船に乗るよりも、ジオがこの船に乗るよりも、ちょっとだけ前の話だ。
ジオが生まれ育ったのはキーリ帝国東部沿岸、南域寄りにぽつんと在った田舎も田舎の漁師村だった。
ただ広大な東海とそれに伴う資源に恵まれた、逆に言うと海しかない貧しい辺境の地。朝から晩まで潮騒が耳に優しく、ときに荒々しく響き、村の者は海に生まれて海に育ち海に死ぬ、そんな揺り篭のような僻地。
漁師の父と海女の母と小さな妹の四人家族。祖父は二方とも数年前の大時化で海に飲まれた。祖母は、父方がジオの生まれるより先に病没し、母方はジオが二つのとき海で鮫に喰われて死んだ。
村のみんなが顔見知りで、家系図を辿ればどこかしらで姻戚関係にあるような、狭い村だ。
あの頃すでにイェルガ海賊団の名は東海一帯に轟いて、国内の海賊もほとんどが配下に下るか蹴散らされ、帝室の手ではなく義賊の者によって海の平和を保つという歪んだ図式が何年も続いていた。
誰もがそれでいいと思っていた。
そもそも海に生きる民にとっては遠く離れた帝都に坐わす神よりも、その日その日の海の様相そのものが神。
内地のお貴族様の権力争いなど露ほども知らず、というかそもそもそういう階級や身分の差が人間の中にあるのだということも知らず、ジオは極めて健やかに海の子として育った。
海に生まれて海に育ち海に死ぬ。
自分もいつかは父のように海に出て、村の誰かと所帯を持ち、平凡な海の男として死んでいく。
そうだと信じて疑わなかったし、それが自分にとって何よりの幸せで、誇りだと思っていた。
それが一変したのは八歳のときだ。
妹はまだ四歳だった。
基本的に穏やかな海風の吹く快適な気候が半年ほど続くその村は、あの夜、肌を打つ熱風に包まれた。
「ジオ! 起きろ!!」
父の険しい声に叩き起こされたジオが目を擦りながら起き上がると、怖い顔をした母に抱きかかえられた。見ると妹も同じように抱かれて、両親の異様な緊張を悟ってか半べそをかいている。
「なに……何があったの!?」
「わからん。だが海賊を名乗る男たちが村中で暴れて火をつけたらしい。おまえは母さんたちと一緒に隣の町まで逃げろ」
「父さんは!?」
「父さんもすぐに追いかける。村のじいさんばあさんを逃がさにゃいかんからな」
村には家族に先立たれた独り身の老人も多かった。もちろん彼らも大切な村の仲間で、ジオも小さい頃は面倒を見てもらっている。父がその人たちを救けに行くのは至極当然のことだった。
母とともに家を出たジオは、目の前に広がった光景にただ呆気に取られた。
夜になれば灯かりひとつなくなる村が目も焼けるほど明るい。いつもはっきりと見える夜空の星々が翳むほどの炎が、顔見知りの家々から激しく燃え盛っていた。
その家の周りで、見知らぬ男たちが剣を振り回している。――いま、村人がひとり斬られて倒れたのが見えた。
「母さん……」
「ジオ黙って。一人で走れる? 母さんと手ぇつないでいこう」
「は、走れるけど、なんでこんなことに……」
「いいから逃げるの。隣町で馬を飛ばしてもらって海軍を呼ばなくちゃ……」
母も険しい表情をしていた。妹は意味がわからないままその腕に抱かれているが、泣きわめいてはいけないことを幼心に察しているらしく、両手で口を覆って必死に涙を堪えている。
脇目も振らずに母と手をつないで走りだしたそのとき、父の悲痛な叫び声が聞こえた。
「かあさん」
「振り返ってはだめ」
「でも父さんが」
「ジオ!!」
母の絶叫が響き渡る。はっとして口を噤んだが、家から出てきた男たちはすでにその声を聴き咎めて「こっちだな」と向かってきていた。
――あのとき、自分が母の言いつけに従って妹のように利口に黙っていれば。
――あのとき、母が自分を嗜めさえしなければ。
必死に脚を動かして母とともに走ったが、どう考えても向こうの方が足は速い。「ああっ」母の呻き声に振り返るが、背中を押されてジオはすっ転んだ。妹は母の手から離れて、ジオのもとへと駆け寄ってくる。
「逃げて……」
妹の、ちいさなカエデの葉のような手を掴んだ。
「逃げるの!!」
弾かれたように走りだす。
妹を半ば引きずりながら逃げる後ろ姿に母のくぐもった悲鳴が聞こえていた。きっとジオたちが振り返らないように必死に声を抑えたのだと思う。振り返ったら現実が牙を剥いて襲ってくるから、前だけを向いて、きっと父も母も生きていると、振り向きさえしなければ二人とも助かるのだと言い聞かせるように――妹を引っ張って逃げ続けた。
ジオたちの住んでいた村から北上していくと、ひとつ町を隔てて海軍の駐屯地をもつ比較的大きな都市がある。
母が呼ぼうとしていたのはそこの部隊だ。隣町に行って馬を飛ばしてもらう。その一念だけを抱いて、村から離れるにつれて泣き声を上げ始めた妹の手をしっかと掴み、ジオはただ走り続けた。
隣町には、この頃は知らなかったが、大きな歓楽街がある。
ジオがぶつかったのはその店のうちの一つから出てきた海軍兵士だった。
「あっ……」
腰の辺りにぶつかって、反動で地面にすっ転ぶ。
「ああ……? なんだ、餓鬼か……」
「あの、あのっ、海軍のひとですか!?」
軍服と思しき衣装に身を包んだ二人組に掴みかかると、冷たい眼差しが降ってくる。
「助けてください、村に海賊が来てお父さんやお母さんが……家に火もつけられていて……すぐ来て!!」
「その汚い手をいますぐ放せ小僧」
ジオが服を掴んだ方は忌々しそうな目つきになって手を振り払い、もう一人は地面に座り込んで泣きわめく妹を見下ろし舌打ちを零した。
「……え……?」
「なぜ我々が下賤の民のために出動しなければならぬ。我らは貴族ぞ」
「やかましい……これだから餓鬼は嫌いだ」
絶句する子ども二人をせせら笑いながら兵士たちは遠ざかっていく。
八歳のジオにはその場で彼らを罵る言葉も、勇気も、度胸も発想もなかった。全身の力が抜けてへたり込むと、ここまで休憩も取らずに走り続けてきた反動で、最早指先のひとつも動かせなくなっていた。
ぱたんと地面に頬をつけて倒れる。
妹の泣き声が頭の中に反響していた。
地獄があるとすればそれはきっと先程焼かれた故郷の村のような光景なのだろう。
悪魔がいるとすればそれはきっとあの兵士のような醜い顔をしているのだろう。
母が助けを求めようとしていた相手に手を振り払われた。幼い八歳のジオには、その先どうすればいいのかわからなかった。
「――おいぼうず」
そのとき気だるげな様子で声をかけてきたのは、煙草を口に加えた而立の男と、顔に残る数多の傷跡が凶悪な風貌に一役買っている男だった。
のちに剣の師と仰ぐグレイ、そして当時白兵隊総隊長を務めていたマツリの二人である。
「どうした、なに倒れてる。腹でも減ってんのか。妹泣いてんぞ」
「村が……」
「村?」
目を細めた煙草の男が、南の空を仰ぐ。
「やけに明るいと思っていたがまさか火事か」
「海賊が……海賊が村に! 父さんと母さんが、みんなが……」
二人の聴く姿勢を見とめた瞬間、起き上がる力が湧いてきた。
がばっと体を起こして必死に訴えるジオの断片的な言葉を聴いて、二人は険しい表情になって肯く。やがて傷の男が指笛を吹くと、歓楽街の方からぞろぞろと、これまた柄の悪い屈強な男どもが湧いてきた。
「どうしたマツリ――」
「せっかく美味い酒が出てきたところだったのによう」
「船長に報告に走れ! 南の村に海賊の襲撃! 武器のある者は馬借りてすぐ向かえ!!」
傷の男の咆哮に似たその命に、男たちが応と答えて次々に走りだす。
ジオは呆気に取られてその様を見ていた。
大人になったいまでも思う。
一人の声に応えた男たちが規律正しく迅速に出陣していくそのさまは、正しく、海軍のあるべき姿であった。
あのあとイェルガ海賊団に保護されたジオと妹は、村の様子が落ち着いてから、クルーに連れられて故郷に戻った。
彼らが到着した頃には粗方の略奪も蹂躙も済んでいたという。引き揚げるどころか村に居座ろうとしていた不埒な海賊たちを、イェルガ海賊団の面々は殲滅してくれた。
村の人々の遺体を丁寧に荼毘に付し、大地に残る血の跡をできる限り洗い流し、血の臭いが消えた頃にジオたちを呼んだ。生き残ったのはジオと妹の二人だけと見られている。
木造の家はほとんど焼け落ちていた。
呆然とその残骸の前に佇む兄妹は一旦メイヴェーラ号に乗せられ、イェルガ海賊団配下の町に預けられることとなった。人のよさそうな夫婦に妹を預け、ジオは船に残ってクルーとして働くことを択ぶ。
いつか誰にもこの身を、自由を侵されないくらい強くなって、妹を護りながら二人で生きていくために。
それから月日が流れて、アレンが入隊し、ジオもいい大人になったところで船を下りるだの下りないだの一悶着あって、年に一度は顔を見ていた妹がすっかり大きくなって嫁に行くことになり、するとまあイェルガ海賊団を抜ける必要もないかとすったもんだの末に結局残ることとなった結果――
いまでもジオは悪夢の海の中にいるし、海軍を憎んでいる。