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アンコール・サーガ  作者: 天乃律
序章
1/29

伝説の幕引き

 この玉座の間に足を踏み入れるのは、六年前の戴冠式以来だった。


 あの日、この石造りの大広間の壇上で、豪奢な衣装に身を包んだ若干十二歳の少年は、敵意と疑念と崇拝と畏敬の折り重なる視線の中で冠を受けたのだ。


 壇上に立ち、柔らかな天蓋を両手で開くと、権力と欲に塗れた醜悪な椅子が現れる。


 座るためというよりは、ただ絶対的な神性を象徴するものとして石のように佇む玉座。見下ろしながら顎を引いたとき、視界の端で金の飾りがきらきらと揺らめいた。


 天帝の血を受け継ぐ皇族、中でも太陽神の子孫たる皇帝は神聖な存在であり、無辜の民草はその顔を直接目にしてはならぬとされている。


 だから皇帝は本来、民が誤ってその顔を直視してしまわぬよう、常に頭部や顔を隠すための聖布を被らなければならない。もしも目にしてしまったときは燃えてしまうとさえ言い伝えられているほどだ。


 さすがに四六時中布を被っていては執務に支障が出るので、公式な場以外では略式で済ませているが、それでも額や耳の上に戴くじゃらじゃらした飾りは重かった。


 ――無論、そんなものはただの言い伝えであることは彼自身が最もよく知っている。


 自分の顔を見るだけで人間が発火するというのなら、皇帝の起臥するこのオルラルド城に勤める使用人や衛兵たちはすっかり丸焦げ、城下自体とっくに炎上して焦土と化していてもおかしくない。そもそも帝国六〇〇年の歴史の中、初代皇帝・太陽神カルカスの直系の血がいまも間違いなく継承されているなどとは誰も思っていなかった。


 血は絶えるものだ。

 ときに病で、ときに戦で、ときに骨肉の争いで。


 太陽の紋章が細かく彫刻された背の飾りに、そっと指先を這わせた。


 帝国の東部にある東海、その水平線から昇る太陽。朝陽の眩さすら感じさせそうなほどの精緻な彫りである。惚れ惚れするほど美しい。十二歳の自分は戴冠式を終えたあと、あれを売ったら一体いくらになるのかなと呟いて側近にしこたま怒られたものだった。


「……こんなものがあるから……」


 誰にも聞こえないように小さく呟いたあと、乱暴に腰を据える。


 惚れ惚れするほど美しい──ただの椅子だ。


 きれいな細工がしてあって、金ぴかで、赤い天鵞絨の張られた、ただの椅子。なんならいつも使っていた執務室の椅子の方が座り心地がいい。


 こんなものに腰を下ろす権利を得るために、またはそれに近しい権力を握るために、頭の凝り固まった貴族連中は奸計を張り巡らせる。この椅子はそんな猖獗の巣窟の中、天蓋に守られて吾知らぬ顔で千年もずっとぴかぴか光り輝いているのだ。

 いい気なもんだ。忌々しいくらい。


 足を組んで頬杖までついてみると、開け放ったままの扉の脇から直属護衛が顔を覗かせて、呆れたような顔になる。


「こんなときでも懲りずに行儀のよくない人ですねぇ、貴方は」


 およそこの帝国に君臨する者に対する言葉ではないが、その飄々とした振る舞いが好きだった。


「やかましい、こんなときだからこそだろ。……避難は済んだのか」

「ええ。城に勤める使用人らは全員、北離宮へまとめて避難させました。城内に残っていたお貴族様たちも番犬殿の先導で南離宮へ。じきあの人も戻ってきましょう」


 護衛は肩を竦めながら、まともな神経の持ち主であれば遠慮する広間のど真ん中の通路を突っ切って、真っ直ぐこちらに向かって歩いてくる。


「みんな『最後まで陛下をお護りしたい』って、言うこと聞かずに引き返そうとするものだから。連れていくのに苦労しました」

「それはご苦労」


 珍しく本当に疲れたような表情をしていたので、おかしくなって喉の奥で笑った。


 壇の下で足を止めた護衛が口元を緩める。


「玉座がよく似合う。……立派な皇帝になられましたね」

「冗談はよせよ」

「いいえ、本気で。兵士だけでなく使用人の皆に至るまで貴方を護りたいとやかましいんですから、それだけ価値のある君主であるということでしょう」


 言葉は返さなかった。

 代わりに、見知った顔を脳裡に一つ一つゆっくりと反芻していく。


 城内を散歩していたら顔を綻ばせて敬礼してくれた兵士、庭の隅々まできれいに手入れしてくれた庭師、毎日美味い食事を用意してくれた料理長、いつも身の回りを清潔に整えてくれた侍女、たまにこっそり城を抜け出すときは黙認してくれた門番、心を籠めて馬の世話をしてくれた厩番、数えきれないほどのオルラルド城に詰める者たち。


 よく勤めてくれた。

 できればこの騒ぎが収まったあとも、彼らがこの城を守ってくれたらと思う。


 その沈黙に何を悟ったか、お喋り好きな護衛は口を閉ざして一礼すると、壇の下の右手側にそっと控えた。


 顔見知りの反芻はやがてともに政務を回した側近たちへと及ぶ。そして最後から二人ほど手前で、この護衛との出会いがゆっくりと蘇ってきた。


 帝都に入るより前、己のものを何一つ持たなかった自分が欲した、最初で最後の自分だけの『所有物』。


 もともと帝室にはなんら縁のなかったこの人を、精一杯の我が儘で強引に護衛として召し抱え、これまで何度も助けてもらった。


「……すまなかったな」


 つい零してしまった謝罪には平坦な声で「何がでしょう」と返ってくる。


「こんなところまで付き合わせて」

「ふむ?」

「おまえの腕ならどこへなりと行ってもやっていけるだろうし、こんな窮屈な場所から逃げる機会などいくらでもあったはずなのに……いままで一緒にいてくれた」

「ふふ。最初に会ったとき自分で仰ったくせに。『おまえはおれのものだ』って」

「おまえに自由を返してやるべきだと考えたこともあったし、いまがそのときなんだろうと思ってはいるが、すまない。放してやれない」


 ちょうど天蓋に遮られて様子は見えないが、きっと薄い笑みを浮かべたまま聴いているのだろう。


「最後までいてくれ。そこに」

「お望みとあらば地獄の涯まで」


 返答に躊躇いはなかった。

 からかい交じりの声に安堵した自分がいる。


 しばらくそのまま会話もなく待っていると、複数の足音が近付いてきた。先頭に立っていたのは皇帝として戴冠するきっかけをもたらした腹心で、その背後には彼の指示で避難しているはずの諸侯が肩を並べている。


 ゆっくりと瞬きをして問いかけると、彼はやや居心地悪そうに玉座の前まで歩み寄り、片膝をついて拝跪した。


「……おれは全員避難させろって言わなかったか?」

「恐れながら……。息絶える最後の瞬間まで陛下を護る盾でありたいと、皆さま頑固でいらっしゃるものですから」


 こっちもか。


 護衛の含み笑いが聞こえてきたので睨みつけると、「ほらね」と言わんばかりにその双眸がきらめいている。


 次々に膝を折る彼らの姿を見渡して、どいつもこいつも、と呆れ半ばに溜め息をついた。


「たまには一人にしてくれよ。皇帝にだって一人の時間は必要だぞ」


 真っ先に顔を上げたのは後見として常に様々な知識を叩き込んでくれた宰相だ。


 耳順もとうに過ぎたはずだが、そうとは見えないほど若々しく頑強で、ついでに口やかましく手厳しい。このときも平素と変わらぬ強い眼差しをぎらぎらと光らせながら、玉座に踏ん反り返る彼の主を見上げていた。


「この内乱が終わりますれば幾らでも差し上げましょう。ただし、いまだけは、貴方さまが嫌だと駄々をこねてもついて行かせて頂く」

「もー、勘弁してくれよな……」


 つい口から零れた皇族らしからぬ言葉に、腹心を中心に笑みが広がる。普段なら市井の者のような言葉遣いはやめなさいだの、皇帝たるもの威厳ある言動をだの、ぶつぶつ文句を垂れるくせに。


「もー、勝手にしろ。ただし逸って短い老い先を縮めるような真似をしたら許さないからな」

「はっは! 陛下にお世継ぎが生まれるまでは死んでも死ねませんとも」


 顔を上げた腹心は左手側に控え、諸侯らは通路の両脇に侍るかたちとなった。


 天蓋の左右に別れた皇帝側近の二人は目を合わせると、いつも通りに皮肉の応酬を始める。


「陛下の下知に逆らってぞろぞろ引き連れてくるなんて無粋ですねぇ」

「その減らぬ口を閉じろ駄犬」

「私はちゃんとみーんな宥め賺して安全なところに置いてきましたけど?」

「宰相どのを始め皆さま決意が固くていらっしゃる。貴様で説得できるというのならばやってみるがいい」

「……はいはい、もー、こんなときまで何をやってんだおまえら」


 仕方なしに口を挟むと、渋々といった様子で双方引き下がった。


 最初のうちは誰かの喋り声や咳払いが響いていたが、段々と口数も減り、ついには身じろぎや衣擦れが大きく聴こえるまでに静まり返る。


 無意味に思われるほど天井が高く奥行きも広いこの玉座の間では、僅かな音でも派手に反響してしまうのだ。


 戴冠式のときも、音を立てないように苦労したっけ。


 耳を澄ましてみると、馬蹄音が聴こえた。


 戦火が近付いてきている。

 金属同士のぶつかり合う音。兵たちの怒号。馬の嘶き。


 この皇帝の命を奪おうとする死神の足音は少しずつ、だが確実にこの場所へと向かいつつあった。


 開け放たれた扉の先に続く暗い通路をじっと見据えていると、一騎を先頭にして敵軍の兵士たちが駆け込んでくる。


 広間に奔った緊張を右手の一振りで収め、馬上からこちらを見つめる少年に視線を合わせた。


 ――いま玉座に座っているあの皇帝は帝室の謀略により用意された替玉である、恐れ多くも太陽神カルカスの子孫を詐称する偽帝である、吾こそが真の帝である――そう声高に叫び戦力を集め蜂起した、名を真帝軍、その大将。


 自分と同じ年くらいの少年だ。


 黒い髪をうなじの後ろで一つにまとめ、黒曜石のような双眸で静かにこちらを見つめている。背後に続いた騎兵とは違って武装しておらず、纏っていた外套を脱いだその下は至って軽装だった。


 彼はその怜悧な目元に侮蔑と憎悪を浮かべて口を開く。


「皇帝陛下直々のお出迎えとは随分と厚待遇ではないか」

「『本物の皇帝』を名乗る者が城を訪ねてきたのだ。おれ自身で迎えてやるのが礼儀というものであろう……」


 緩慢な動作で立ち上がると、腹心は責めるような目つきで見てきたが、知らぬふりで壇を下りた。


 少年の背後の騎兵が各々武器を構える。しかし彼もまた堂に入った右手の一振りでそれを収めた。その様子をぐるりと眺めて、城の中や城門付近で戦っていた自軍の奮闘ぶりを悟る。


 玉座の間まで辿りついた真帝軍の面々もすでに満身創痍で、余裕な顔をしているのは将たる少年くらいのものだった。


「辿りついたのは騎兵が八と首領一人だけか。ここまで随分と苦戦したようだな」

「正直ここまで削られるとは思っていなかった。偽帝の分際でよくもまあ、立派な戦力を蓄えたものだね」


「貴様!!」激昂した宰相の怒号がきんと響き渡る。


「陛下、私めにそこな小僧と闘わせてください、斯様に侮辱されては黙っておれぬ!!」

「下がれ」


 前列まで躍り出ていまにも剣を取りそうな勢いの彼の腕を掴んだ。


 短い老い先を縮めるなと言ったばかりなのに、全くこのじじいは血の気の多い。


「しかし陛下!」

「下がれと言っている。最早これ以上の流血は双方望むところではなかろう。おれと貴様の生死を以て戦の勝敗を決しよう」

「陛下……!」

「何を仰います!?」


 側近らが声を上げて動揺する中、馬上の少年は口の端を釣り上げて「それはいい」と身を翻す。軽やかに馬から下りると、腰に佩いていた剣をすらりと抜いた。


 こちらも細身の長剣の鞘を払う。


 すると耐えかねて肩を掴んできた護衛が、切羽詰まった声で怒鳴りつけてきた。


「何を……何をふざけたことを言っているんだあんたは!」

「おっと、おまえに怒られるとは思わなかったぞ」


 噛みついてきた護衛にちょっと笑うと、裏切られたような表情で絶句したその人は「だって、それは……そういうのは私の仕事だ!」と唇を戦慄かせる。


 初めてこいつがまともに動揺するようなところを見たなと、場違いにもなんだか嬉しくなった。


「全員、下がれ。おれより前に出ること罷り成らぬ。これは命である」


 肩を掴むその人の手をゆっくりと引き剥がし、不安そうにこちらを見つめる臣下たちの顔を視界に焼きつける。


 ここまでついてきてくれた。最後まで共に在ろうとしてくれた。

 それだけで十分だ。


 こちらが場を鎮めている間に、少年の後ろに控えていた騎兵たちも下馬していた。


「よいな。おれと貴様の生死を以て勝敗を決する、その瞬間敗軍は即座に降伏し武器を置く、投降すれば命は保証する」

「帝室の血筋を詐称するような奴の命など聞けるか、と言いたいところだけど、それでいいよ」

「貴様は悪態を吐かなければ会話もできぬのか。──どちらが本物の皇帝か、ここではっきりさせてやる」

「生き残った方が本物。そういうことだね」

「死んだ方が偽物。そういうことだ」


 少年は薄く微笑んだ。

 冷たくも、優しくも見える、不思議な表情だった。


 いま一度振り返り、飛び出しそうな護衛と、それを押さえる腹心と、様々な表情で縋るような視線を向けてくる臣下たちを視界に収める。


「皆の者……」小さく呟くと、続く言葉を聴き洩らすまいと息を呑んだ。



「大義であった」



 頭を覆っていた装飾と額飾りを取って床に投げ捨てる。太陽を模した彫刻の施された、重い、重い略式の王冠が転がる音が空しく響くと、黒い髪が視界に散らばった。


 軽い。

 なんだかようやく解放されたような気持ちだ。


 真帝軍大将とそっくり同じ黒髪に、似た輝きを放つ黒曜石の双眸、こんなもののために彼らはいま、こうしてこんなところで対峙している。


 かたや冠を抱き。

 かたや憎悪を燃やして。


 その巡り合せの途方もない残酷さに、眩暈がしてくるようだった。


「陛下……」


 誰かの声が聴こえても、もう二度と振り返らない。



 この六年間、皇帝と偽って玉座を穢し続けたこの裏切り者を心から信じて支えてくれたあの人たちを、地獄の涯までも連れていくわけにはいかない。


 地獄に落ちるのはこの己と、目の前のこの少年だけでいい。



 ──さらばだ。

 さらば、太陽。忌々しい佞雄の掃き溜め。


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