下拵え
翌日。
朱里は首領室にいた。
「——依頼者の連絡先、ね。まぁいつもの事だから予想はしていたよ」
首領はそう呟くように言い、目の前にいる朱里に紙切れを渡した。
そこに書かれていたのは、依頼者のメールアドレス。こうなることを予測していた首領が、あらかじめ依頼者に聞いておいたものだ。
「ありがとうございます」
朱里は紙切れを受け取ると、失礼します、と首領室を出て行った。
「——見ず知らずのメールアドレスから突然メールが来たら依頼者も焦るだろうに。一応連絡をすることがあるかもしれないとは言ってはおいたが……全く如月は……」
誰もいない首領室で、首領は溜息を吐く。
その頃、朱里は自室でフリーメールアプリを開いていた。
『秋本幸子様
初めまして。見ず知らずの者が突然メールを送る無礼をお許しください。
私は、暗黒の疾風の構成員であり、今回秋本様のご依頼を受け持つ事になりました、水無月環奈と申します。
ご依頼を遂行するにあたりまして、一度、秋本様と会ってお話がしたいと思うのですが、可能でしょうか。
もしご多忙であればメールでのやり取りでも構いませんが、出来れば一度はお会いしたいです。
お返事をお待ちしております。
水無月環奈』
水無月環奈。それは、朱里が仕事をするときに名乗る名前。表社会では、間違っても本名を口にすることはなかった。
無題で送信するのが常であるため、件名欄には何も入れない。
送信先に先ほど貰った紙切れに書かれていたアドレスを打ち込み、本文を見直し、送信。
そこまで終わるとスマホにロックをかけ、一つ溜息を吐くと、既に淹れていた珈琲を口にした。
数時間後。
本を読んでいた朱里は、テーブルの上のスマホが揺れる音で、本の世界から現実に引き戻される。
見てみると、依頼者から送られてきた、先程のメールの返信だった。
『件名:水無月環奈様
初めまして。秋本幸子と申します。
依頼をお引き受け頂き、ありがとうございます。
面会の件ですが、私も一度水無月様とお会いしたいと思いますが、多忙な身でございますので、申し訳ございませんが、もう少し考えさせていただけますでしょうか。
また、近いうちにメールをお送りいたします。
秋本幸子』
「やっぱ秘書さんって忙しいんだねぇ」
メールを読んだ朱里は呟く。
そして、数日後。
朱里は自室で珈琲を淹れていた。
テーブルの上にある籠の中から珈琲の袋を出して、挽いてある珈琲豆をさらさらとドリッパーに移す。
しゅんしゅんと音を立てるやかん。
朱里は火を止めるなり、ドリッパーにお湯を注いだ。
あとは珈琲をあらかじめ用意しておいた自分のマグカップと、コーヒーカップに淹れて完成だった。
「はい、珈琲」
「ありがとうございます。で、これが資料です」
コーヒーカップを前にして座っていたのは、翔。
翔はその日、朱里に頼まれた調べ物の結果を渡しに来たのだった。
そこに記されていたのは、対象者である政治家、五十嵐隼の政策や実績、そしてその評判であった。
本人の公式ホームページやTwitterへのツイート、Facebookへの投稿。SNSでの人々の反応。彼は地域行事にもよく行くようで、その時の写真や動画などもあった。
「ありがとね。……ふーん。評判はいいみたいだけど……」
「あ、ちなみに動画はこんな感じです」
翔が自らのスマホで動画を再生すると、にこやかな表情で話す対象者がいた。
「……言葉巧みだね。あと、人によってはこの喋り方とか嫌いな人はいるだろうなぁ。なんて言うか……上から目線な感じとかさ。」
「あ、やっぱりそう思いました? 僕もですよ。……でも驚きましたね。こんなに評判がいい人が不正だなんて」
「そう? 私は今の動画で何となく納得しちゃった」
と、その時。
朱里のスマホが揺れ、着信を告げた。
確認してみるとそれは依頼者からのメールだった。そこには、夜ならば会えるため会いたいとの旨が記されていた。
「よし、本格的に始動かな?」
朱里は、翔には聞こえないほど小さな声で呟くと、返信マークへとその親指を動かした。




