善と悪
朱里は、ある部屋に向かっていた。
遠くから、響く罵声。
苛立ち、怒り、恐れ、理不尽。
そんな声を聞き慣れてしまった自分に、少しだけ笑えた。
遠くで、全く別の構成員によって何者かが拷問されている声を聞きながら、朱里は辿り着いたその部屋の戸を三度叩く。「入っていいぞ」という声を聞いてから、朱里はその比較的静かな部屋へと足を踏み入れた。
そこでは、司令塔と伊紀が向かい合って座り、語らっていた。司令塔の少し後ろには、拷問班が暇そうに控えている。
「遅かったな。すんなり向こうが話してくれたもんだからよ、もう話は終わっちまった」
「そうなの? ごめん」
「いや、別に構わないが」
「——あんたらの事は、理解出来ない」
不意に、伊紀が呟いた。
その声を、朱里はしっかりと捉えていた。
「……別にあんたに理解してもらおうとは思ってないけどね。ただ、面白そうだから話を聞こうか。どうせあんたは死ぬ運命さ、最期に全部話せばいい」
朱里は戸の前から伊紀と司令塔の間にある机の横へと歩きながら、淡々とそう言った。
伊紀の目は見開かれている。自分の視界の中に入ってきた朱里に、呪いでも吐くかのような声で、彼は。
「——俺を、殺すのか」
「そういうことだね。本当はお仲間と一緒に瓦礫の下で眠ってもらっても良かったんだけど」
あまりにもあっけらかんと言う朱里に、伊紀はその部屋の中で初めて、苛立ちを顔に出した。
それでも何とか、その苛立ちを声には出さないようにして、語りだす。
「お前らは本当に人の命をどうとも思ってないんだな……そうだろ」
司令塔が何か言おうとしたが、朱里がそれを止める。伊紀は何かを抑え、飲み込むようにして、言葉を紡ぐ。
「俺は動物実験ばっかりしてるマッドサイエンティストやその集まりのマッドサイエンティスト協会を疎んでいるさ。そうさ。嫌悪していたと言ってもいい。でもな……」
話すうちに、伊紀の中で何かの箍が、外れた。
「でも、俺はお前らのことを、暗黒の疾風のことを一番嫌っていた! お前らのことが一番理解し難く、お前らのことを一番憎んでいた! 同類のことを——人間のことを殺せるような、心のない奴らだからだ!」
拷問班がざわつき、司令塔が立ち上がったが、それをまた朱里が抑える。そんな朱里も、顔がぴくぴくと動いていた。
伊紀はそれに気付かない。
「お前らのような悪の組織なんて……無くなって仕舞えばいいと、何度思ったことか!」
——バシン!
伊紀と司令塔の間にあった机が叩かれ、震えた。
「——それだけは言われたくないね」
女の声とは思えないほど低く、背筋がゾッとするのを通り越し、凍りついてしまいそうな声。
その声は、怒りと、憎しみの結晶。
「話したい事は、それで全部?」
深呼吸をして、朱里は感情をぐっと飲み込み、問うた。伊紀は一言、「そうだ」と言った。
「なら、今度はわたしらの番だ」
そう言って朱里は、語りだす。
「あんたらはさ、なんかやたらと裏社会の組織を悪者扱いするよね。わたしらもだし、今回の依頼者のマッドサイエンティスト協会も、あんたらの中では悪者だと……さっきあんたが言ったのは、そう言うことだよね」
無言と言う名の肯定が、聞こえた。
「でもね、わたしらは悪の組織だなんて思ってない。裏社会に通じる人ならわたしらを悪だと思わない人も多い。表社会にもそう思う人がいるぐらいだ。
分からない? 善と悪なんてね、紙の裏表のように簡単に変わってしまうものなんだよ」
「……よく聞くよ、そんな話は。でも実際、お前らは悪じゃないか。簡単に人殺しをするお前らには、心なんて無いんだから」
そう言った瞬間、伊紀は喉元に冷たいものを感じた。
「なっ……なんなんだよ」
浅く喉元に傷をつけられ、その時漸く、それがナイフだということに気付いた。気付けば、朱里の顔が数秒前よりも近くにある。
「——いい加減にしな」
そう言った朱里の顔は、怒りで歪んでいる。
「わたしらにだって、心はあるんだ。ロボットじゃないんだから。音楽を聴いて寛ぎ、本を読んで感動して、仲間を傷つけられて泣き、馬鹿にされて怒る。あんたらと同じなんだよ」
朱里はそう言うなり、突然伊紀に突きつけていたナイフで、自分の腕を切りつけた。
その場にいる誰もが、息を飲んだ。
朱里は痛みと怒りに顔を歪め、じわじわと滲み出てポタリと零れる血をそのままにして、語る。
朱里の表情は、最早怒りに狂った者のそれだった。
「切れば血が出る。体だけでなく、心だってそれは同じ。誰だって同じだ。心のない奴なんていない。それすらあんたは分からない? そんな事が分からない奴は、最低な奴なんだよ!」




