首領の命令
——裏路地の奥に、もう使われていなさそうな、古ぼけた二棟のビルがある。普通の人がその建物の前を通ったなら、そう思うだろう。
しかし、それは表社会に住まう人々の認識。裏社会に住まう者達の中には、それが一体何なのかを知らぬ者はほとんどいない。
この建物を本拠地とする組織は、裏社会の中では最も有名だ。表社会の人でもその名を知っている人がいるほどである。
——その組織の名は、暗黒の疾風という。
さて。「暗黒の疾風」の本拠地は、地上ではなく地下にある。二棟あるビルの真下には広い空間ができており、その三分の一は事務所、残りは構成員の暮らす寮——寮棟と呼ばれている——となっている。この棟の廊下には沢山の扉が連なっており、そこにはそれぞれ住んでいる者の名が記されている。扉の先にはキッチン付きの一室が設けられており、そこに構成員は住んでいる。ちなみに、トイレや風呂場、洗濯スペースはそれぞれ男女別に共用の場所が用意されており、そこを利用する形だ。
こうして構成員はいつでも任務に向かえるよう、ここで暮らしつつ待機しているのだ。
その一室には、標準装備の水道、シンクにガスコンロ、換気扇や粗末なベッド、単調なテーブルにチェアが数脚の他に、小さな机(引き出しつき)と椅子一脚がある。食事と仕事の切り替えをするためだろうか。
化粧台には大量の化粧道具やパーマ用のアイロンにストレートパーマ用のアイロンが無造作に置いてあるが、これは仕事の為の物か。
さらに、そこまで大きく無い衣装箪笥や食器棚が並んでいる。本棚には大量の本が詰まっているが、ここの住人は本好きなのだろうか。
小型のテレビにはBlu-rayレコーダーやビデオテープとDVDのレコーダーが繋がれているが、ビデオなどほとんど使われていない今、後者が必要なのかは怪しく見える。これらの横にはCDが山積みになっている。ラジカセ等は見当たらないが、もしかしたらレコーダーのいずれかで再生しているのかもしれない。
そんな部屋の中で、ベッドに座って本を読んでいるのは、一人の女性。切れ長で細いつり目は狐のよう。卵形の顔はあまり日には焼けていない。すっとした鼻、弧を描く唇は少し暗い紫色。そんな彼女はどこか血の通わない人形を彷彿とさせる。だが、腕や足は適度に鍛えられ、それなりに細くとも健康的な体つきである。
コンコン。
不意に、何者かが部屋の戸を叩く。
「はーい」
彼女がアルトの声を発する。
「如月さん、首領が呼んでます」
「ああ、翔か」
その声は、コードネーム『伝書鳩』——原田翔の声だった。いつも彼女が首領に呼び出されるときは、彼女の元には大体翔が託けに来る。声の高さは、男性にしては少し高い方だろうか。
「今行く」
部屋の中にいた彼女——如月朱里は本に金属製の猫の栞を挟むと、すっと立ち上がり、それをテーブルに置いて部屋を出て行った。
地下通路を通り、寮棟から事務所がある地下空間——事務棟に移動する朱里。
事務棟の一番最深部には、首領室がある。その扉を、朱里はノックする。
「誰かね?」
「如月です。原田に呼ばれて来ました」
「入りたまえ」
「失礼します」
その重たい扉を開くと、そこにはこの組織の首領がいた。
「何の御用でしょうか」
「依頼だ。取り敢えずこれを読め」
首領が差し出したのは、一つのバインダー。
朱里は慣れた手つきで「失礼します」とそれを受け取った。『依頼』と書かれた紙をめくれば、そこには依頼者と対象者のデータが揃っている。
『依頼者:秋本幸子 三十歳 秘書
対象者:五十嵐隼 三十二歳 政治家
内容:暗殺——』
それを見つつ、朱里は首領の声を聞いていた。
「今月中に依頼の達成をお願いしたい、と依頼者は言っていた」
「分かりました」
それでは、と朱里は礼をして、首領室を後にした。




