第1話 綺麗な満月の夜に
それは満月の綺麗な夜のことだった。
私――ミレニア・シスカは眠っていた。そして、突然の物音と、悲鳴と、生臭い臭いとで叩き起こされたのだ。
闇に慣れない目に真っ先に飛び込んできたのは、嫌な臭いを発する液体を、ちぎれた首から噴出させる誰かの身体。そう、頭が取れていたから、それが誰なのかとっさには分からなかったのだ。
ぐちゃり、と水っぽい音がして、私の寝ていたベッドのすぐ横の床に、丸いものが落ちてきた。それは反動でそのまましばらく回転していた。
「あ――」
目が合った。
弟の、ミオだった。
顔は歪められ、恐怖にひきつった目が悲しげに見開かれていた。私の大好きな、少し弱気な、でも優しさに満ちた眼差しはもうどこにもなかった。
部屋を見回す。
両親と弟と暮らす家は、家とは名ばかりの平屋建ての一室だけだった。普段は狭いと文句を垂れることもあったが、おおむね満足して暮らしていた。
家の床には、ぬるついた液体がまき散らされて足の踏み場もなかった。ところどころに肉の塊が落ちていて、砕かれた骨が散乱しているのが見えた。髪の毛が生えた丸い肉塊が二つ、その中に混ざっていた。
家族で揃いの、血のつながりを感じさせるブルネット。私は綺麗なブロンドに憧れることもあったけれど、癖もなくて艶やかな髪は、本当は自慢だった。
その瞬間、私は全てを失ったことを悟った。
もはやこの世に私の愛すべきものはなにもない。父も、母も、弟も、あるはずだった私の平凡ながら平穏な未来も、この手をすり抜けて闇に消えたのだ。
弟の首を抱えたまま、ベッドから立ち上がる。私の全てを無残に喰らったモノは、部屋の真ん中に立っていた。
雲が切れたのか、窓からの月光が冴えを増す。青白い光が、舞台で主役を浮かび上がらせるように、そいつを照らし出した。
それは若い男の姿をしていた。血で染まった、それでも光り輝く白い髪。膝裏まで伸ばされた髪は、うつくしい真白の流れになって背中を覆っていた。服装は、この辺りでは見かけない上等な生地で優雅に仕立て上げられたものだった。長い上衣に、華やかな刺繍の入ったベスト。固そうなブーツは、今は血を踏みにじって赤く染まっている。
驚くべきは、月光の下でも目を惹きつけるその顔だった。白皙の、異様なほどに整った顔立ち。長い睫毛にけぶる、ぞっとするほど赤い瞳が、月の光を反射して輝いている。もはや魔性を超えて異形の域に達する、神かなにかが丹精に作り上げた芸術のようだった。見たものすべてが膝をついて頭を垂れたくなるような、この世のものとは思えない威厳を持っていた。
それでも、私には関係ない。
私にとっては敵にすぎない。
弟の首を手にして睨みつける私に、男は微かに形のいい唇を緩めた。嘲笑だ。
「――私が憎いですか」
男が口を開く。そいつになにがしかの意志が存在することに虚を突かれる。なにかを考える頭を持っていて、こんなことができるのか。
「憎い」
「そうですか。しかしあなたのような下等生物は、私の餌になるしかない」
男の腕が振り上げられる。普段見かける街の不良とは速さが違う。今まで見たどの人間よりも素早い、狩りに慣れた身のこなしだった。
「ぐぁっ」
吹き飛ばされて壁に激突する。背中をしたたかに打ち、息が止まる。弟の首はどこかに飛んでいってしまった。
「おや。今ので死なないとは、頑丈なのですね」
くすくすと耳障りな笑いをこぼしながら、男が近づいてくる。私は近くの棚に置いてあったペーパーナイフを掴んだ。笑いがますます大きくなる。
「余計な手間を取らすな。喰われる分際で」
胸倉をつかまれる。抵抗する間もなく顔が近づき、首筋に歯を立てられる。鋭い犬歯が肌に食い込み、痛みが襲った。
「死ね!」
渾身の力でもって男の髪を掴み引きはがす。食い込んだままの歯が傷跡をえぐったが、もはや熱いということしか感じない。そのまま、なにかに驚いている様子の男の緋色の瞳に、ペーパーナイフを突き刺した。
どうしてそんなことができたのか分からない。あれだけ捕食に慣れた様子の男相手に、なぜ下町の喧嘩しか体験していない私が対抗できたのか。でもそんなことはどうでもよかった。敵を倒す。それだけが頭を占めていた。
男がゆっくりと後ろに倒れる。ペーパーナイフは深く突き刺さっていて、脳天まで達しているだろう。どさりと鈍い音を立てて男の身体は血みどろの床に転がった。もはや微塵も動く気配はない。
私の発する荒い息だけが、静寂に沈む部屋の中に響く。その場にへたり込んで、それから萎えた手足を叱咤して男のそばににじり寄った。
男の顔は驚愕に染まっていた。自分が死んだことが信じられないと言わんばかりだ。潰れた眼窩からは血が流れ、頬を伝っていた。
ペーパーナイフに手を伸ばし、ぐいと捻じってから引き抜く。血が噴き出して顔にかかったが、興味もなかった。
私はこれからどうしたらいいんだろう。
ペーパーナイフを持ったまま、ぼんやりと考える。家族の弔いをして、それ以後のことがまったく思い浮かばない。私ももう一六歳。幼馴染と結婚しようというような話も出ていたが、この後平然と日常に戻れるのだろうか。
思索に沈んでいた。だから気付かなかった。いや、普通は思いつきもしない。一度殺した男が、また生き返るだなんて。
強い力で肩を掴まれたと思うと、床に激しく頭をぶつけた。視界にうつるのは天井、そして先ほど殺した男の顔。憎悪に歪み、私を見下ろすその表情は、月光に照らされていたときよりもずっと、私に近い生き物のように感じられた。
「なぜ私を殺せた?」
低い声が降ってくる。血でぬめる手が私の首に伸びる。息が詰まり、顔に血が上る。
「答えろ!」
さっきまでの余裕はどこにもなく、相手を威嚇するような大声だ。私に馬乗りになって、生殺与奪の権を握っているのは男の方なのに。圧倒的に有利なはずの男の方が焦っている。そのことがたまらなく可笑しくて、私は笑った。
「さあ――あなたが強くないからじゃない?」
男の目が見開かれる。気づけば、私が潰した眼球は回復していて、赤い瞳が二つ、激情に燃えていた。
首にかかった手に力がこめられる。指の形がはっきりと分かるほどで、意識がもうろうとしてきた。
「私はこの世で最も強い。貴様に殺されるなど――傷つけられることも、あってはならない!」
「ぐぅっ……!」
人生で一番「死」に近づいた。それでもこの男に殺されるなんてまっぴらだった。手には冷たいペーパーナイフの感触。その冷ややかさに励まされるように、私は男の手をナイフで切りつけた。
「なぜだ。なぜ貴様は――」
新しく血が流れ、力が緩む。その隙に呼吸を取り戻し、靄のかかる頭を振った。
そのとき、外から大勢の人の気配と声がした。武器を鳴らす固い音も。自警団だ。私の家の騒ぎを聞きつけて、やって来たのだ。
男が素早く立ち上がり、私から離れる。切ったはずの手は治り、一筋の血の流れだけが白い指を辿っていた。
腕に力を入れて上半身を起こす。刹那、男と私の目が合った。あれほど乱闘を繰り広げながら、この男が私を見たのは、これが初めてではないかと思った。
男が口を開く。
「フレデリック・ディルニス・ノルン・ジルスコニオの名において誓う。私は必ずお前を殺す」
そのまま、上衣の裾を翻して闇に消える。窓から差し込む月光は、床を照らすばかりだ。私は家に、一人きりになった。