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マザー・アイ  作者: 淀川滓音
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出会い

悠介の母親は、怒ったことが一度もない。

優しい、と言えば本当だし、冷たい、と言えば、それも本当のように思えた。

悠介が同級生を殴った時も、他のクラスの女の子の財布を盗んだ時も、いつだって母親は小さく微笑みながら玄関で悠介を出迎えたのだった。

「お前の母ちゃん、綺麗だし、優しいよな」と小学六年の時、幼馴染の草薙隼人に言われたことがある。確かに、時を経ても母親は全く衰えなかった。でも悠介は違う、と言いたくなった。優しいとは違うのだ、と明確に感じるのに、何故か悠介は反論できなかった。幼い子供にとって、その「違和感」を言葉にして説明するのは難しいことだった。

 もう一つ、悠介に父親はいない。覚えている限りでは、悠介に父親がいたことはなくて、物心ついた時から悠介は母親と二人だった。会ったこともなければ、母親から聞かされたこともない。「お父さん、どんな人だったの」と聞いたって、母親はいつも小さく微笑んで、だんまりだった。

 悠介は、立ち止まって目の前の高層マンションを眺めた。十日後に迫ったクリスマスイブに備え、十メートル超のクリスマスツリーが玄関前で色鮮やかに光っている。十階の二号室が悠介の家だった。南東区の中央に位置するこのマンションの窓には、夜中になれば星の数よりも多そうな街の灯りが映る。そんな家の中で、母親は働かず、一日中家にこもっている。それなのに、何不自由ない生活。悠介はずっと疑問だった。でも、その理由は尋ねたことはない。いや、あったかもしれない。まあそんなのはどっちだっていいことだ。

「何度も思うけどさ、やっぱり菱田の母ちゃん、やくざの愛人なんだろ」

 隣に立っている隼人が言った。十六歳ながらヤニでうすら汚れてしまった歯を、惜しげもなく見せてニタニタと笑っている。

「そんな訳ないだろう」

「いいや、あるね」彼が、はっと息を吐いて笑った。ふわっと白いもやが漂って、消えていく。

「だってお前んち、たまに人が出入りしては、お金を渡していくんだろ」

「…お金とは限らないだろ」

 そっぽを向いてそう答えた悠介の口からも、白いもや。両手を擦り合わせて、それを吹きかける。

「寒いから、おれもう行くわ」

 隼人が言う。隼人が住む団地は、マンションのすぐ前に立っていた。暮らしも性格も、全く正反対の二人。金銭面で苦労したことない悠介にとって、隼人はありえない暮らしをしているように見えた。

 立ち去っていく隼人の背に、悠介は思わず声をかける。「隼人!」

 隼人が、立ち止まってこちらを振り返る。不思議そうな顔をして、そうして理解したかのようににやり、と笑った。

「連れて行ってくれよ、あそこに」

 つめたい風が吹き抜けて、悠介の首に巻かれていた赤いマフラーが揺れた。

 柔らかくて温かい洗剤のにおいは、いつのまにか消えてしまったようだ。


 雑居ビルの地階にあるダーツ・バーには、今日も若い男性組から中年層まで、様々な客が訪れている。ダーツボードがずらりと等間隔に十枚並べられ、男たちが煙草を吸いながら矢を放ち、時折大声で笑っている。充分に広さのあるフロアは副流煙で満たされ、そこに入ればたちまち悠介は咳き込んだ。

「おいおい、おこちゃまか、おまえは」

 受付を済ませ、矢を貰った隼人がすかさず茶化した。名前の欄に、隼人は「草薙昭人」と兄の名前を記し、年齢の欄には「二十歳」と記していた。

「この二〇三五年にも、変わらず手書きの受付用紙なんて、珍しいよな」

 隼人は、一番奥のテーブルに向かいながらそうつぶやく。

「まあ、ICチップなしでもいいんだから、こっちとしてはありがたいんだけど」

 西暦二〇二五年から、個人情報の入ったICチップを体内に埋め込むことが義務化された。国民全員に急遽義務付けられたはずなのに、ほとんどの民間企業ではそれに対応できる機械が設置されていない。しかしそれにしても、このダーツ・バーは設備が古く、何もかもが色褪せてレトロな雰囲気を醸し出していた。

「おまえ、酒はどうする」

 聞かれて、周囲を見渡していた悠介は我に返った。見れば、ボーイに隼人がカクテルを注文しているところだった。

「いや、俺はいいよ」

 そう断れば、「じゃああいつも同じやつで」と楽しそうに隼人が言った。

「おい」

「おまえは二十歳、おれも二十歳」

 にしし、と隼人が気味悪く笑う。いくら私服に着替えていたって、高校一年生であることに変わりはない。体格だって、大人のそれにはまだまだ及ばない。隠れて飲むならまだしも、こんな開けた場所で堂々と飲んでいいものかと、悠介は少し焦燥感を抱いた。

「なに、さっきからしけたツラしてんの。女絡みか?」

 よっ、と隼人が矢を投げながら言う。六点のエリアにぷすっと矢が刺さった。

「そんなんじゃねえ。…ただ、あの家を見ると憂鬱になるんだ、ここ数年ずっと」

「ええ、なんでだよ。あんなに立派なオウチなのに」

 そうだろうよ、と悠介は思う。立派であることに間違いはない。でも、中学二年の時、初めて同級生を殴ったときの少し前あたりから、悠介はずっともやもやしたような、むかむかしたような気持ちを、家を見る度に抱いてきた。子供の時には「優しかった」母親が、その時から「薄気味悪く」感じられるようになってきたのだ。何をしても怒らない。何をしても歯を見せて笑わない。ただ口の端を少し上げただけの、あの小さな微笑みを端正な顔に浮かべるだけ。まるで感情のない、機械人形のようだった。悠介はそんな母親の、困っている姿が見たかった。うちの子がすみませんと謝罪をし、悠介に怒る姿が見たかった。人間として感情を表に出す瞬間を、無意識のうちに求めていた。

「お前さ、中学の時に問題起こすたび、変な奴連れてきただろ。あれ誰だ」

 煙草をふかして、隼人が聞いてくる。悠介は色あせた赤色の、一人掛けのソファに座ったまま、ぶっきらぼうに矢を投げた。知らねえよ、と答えた瞬間、矢がぷすりとトリプルリングに刺さった。

「おお! 十三のトリプル!」

 すげえ、とはしゃぐ隼人を、ぼーっと見つめながら、悠介はため息をついた。あの男は、一か月に一回家を訪れる母親の「親戚」だった。第三土曜日の夜に訪れ、母親と悠介の健康状態をチェックする。ぴしっとしたスーツを着込み、ワックスで白髪の混じった髪を束になるほど固めた姿は、何度見ても慣れない。彼は「柿川宗一」という名前らしく、その言動は映画に出てくる英国紳士のようだ。

「母さんの親戚らしい」

「はは、そんなの嘘に決まってる。離婚した夫だろうよ」

 思わずむっとして、隼人を見る。彼は水色のカクテルを口に注いで、「冗談、冗談」と笑った。

「でもあいつ、来るたびに『愛子さんを預かります』って言って、しばらく車でどっかに出かけるんだ。母さんに気があるんだろうな」

 彼と同じように、カクテルを口にする。ソーダ味の飴玉のような甘みが広がった。

「それはな、悠介」

 途端にニタリとした笑みを浮かべた隼人は、そう言って、指をくいくいと曲げた。なんだよ、と不満そうに近づく悠介の首に手をまわして、隼人は囁いた。

「セックス、してるんだよ」

 気が付けば、隼人の胸倉を掴んでいた。両手を挙げて、困ったように眉を下げる隼人の顔の前に、灰皿にあった煙草をかざす。まだ火が燻っているそれを見つめて、隼人がひるんだ。

「さっきから何を言うかと思えば、くだらねえ。お前と俺は違う。下卑たことを言うのはやめろ」

 冷たく、表情を変えずに言い放つ。しばしそのまま見つめあった後、喧騒が蘇るように一斉に耳に飛び込んできた。誰もこちらになど注目していなかった。悪かったよ、と隼人が呟く。どうしようもなく苛々して、矢を二本掴むと、腕を大きく振りかぶって矢を放った。勢いよく、矢が飛んでいく。

コーン。ダーツボードの大きく外れたところに当たり、矢は呆気なく跳ね返って落ちた。

「あーあ、酷いねえ、きみ」

 ふと、すぐ後ろから低い声が聞こえた。息を荒らげる悠介を、煙草を口の端に咥えたまま、男が見下ろしていた。黒いVネックシャツに、ジーパン。鼻の頭まで伸びた前髪の間から、じっとりとした双眸が覗いている。二十代にも、三十代にも見えた。

「なんだよ、おっさん」

 苛立たしげにそう言い放つ。ふ、と口だけ歪ませて笑った男は、煙草をはずし、悠介のカクテルを手に取った。おい、と止める間もなく、男はカクテルを飲み干していく。呆気にとられる二人を前に、男はグラスを置き、今度は煙草をずいと悠介の前にかざして見せた。

「なに、」

 怯む悠介の唇に、煙草がぐいぐいと押しつけられる。恐怖を感じた。なんだ、この男は。

「吸えよ。お前の肺がぼろぼろになったって、誰も悲しまねえ」

 ずきり。胸が急に痛くなる。なぜ。なぜそんなことを言うのか。苦しくなって、歯を食いしばる悠介を、男は無表情で見つめる。耐え切れず息を吐くと、それはするりと唇の間に入ってきた。

「…苦い」

 煙を吸い込んだ悠介がそう呟くと、男がまたふっと笑った。そしてまた言った。

「やっと見つけた。俺と一緒に来てくれ、菱田悠介」


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