人とコミュニティ
人は群れでいることの多い動物である。
例えば貴方の友人だとか、親だとか。とにかく必ず周りに他者という存在を抱えて生きている。
だが、人は必ずしも全ての人と馴染み親交を深めることの出来るという訳では無いらしい。他者を虐げることで生まれる友情もあるのかもしれない。
これらの事は「学校」という小さな社会で顕著に現れる。学校で生徒達は「群れ」すなわち食事を一緒にしたりだとか、休憩時間に過ごしたりだとかするコミュニティを作り生活している。ここでコミュニティに入りそびれた者は「ぼっち」などと呼ばれ虐げられたすることもある。これらの事は面白いことにだいたいどこの学校を覗いても同じらしい。
私はこの社会のコミュニティの様子を一つのもので表した。それが、三階建てのマンションである。まず、私は学校に存在する生徒を3つの種類に分けた。まず、積極的に他社との関わりを持つ者。次に周りを取り繕う者。最後に他者との関わりを積極的に持たない者である。そして、これらの3種類の人をマンションの各階層に割り当てる。最初の種類を最上階、2番目を中間層、最後を1階とする。
まず、最上階の住人は他者との関わりを積極的に持つ者、マンションのエレベーターを思い浮かべてもらいたい。当然、より、上の階層から乗っている人の方が多くの人と出会うだろう。そして、1階の住人は精々フロントで出会う程度であろう。この様に、三階建てのマンションを使うことで、学校の人間の種類を表せるのである。この、「三階建てのマンション」の住人達には当然、ご近所も存在する。その付き合いをとても上手くやるのが3、2階の人。不器用なのが一階の人とでも考えていただきたい。これらのように、当てはめればキリがないほど「三階建てのマンション」と「学校のコミュニティ」との共通点は多くあるのだ。
そして最後に、コミュニティで生きていくためには何が重要かを述べさせてもらおう。それは、一言で言えば「隣人にとっていい人であることを常に意識する」事だ。少なくとも私はそうだと思う。「いい人」の定義には些か疑問を持つ方もいるかもしれないが、その不確定要素も含めてのいい人という表現である。常に自分の行動を客観的に見て、誰かにとってのはいい人であることを意識して生きていれば自ずと何処かの集団に所属できるだろう。