インスタント櫻
「桜の写真を撮ろうと思うの」
彼女が突然そう切り出したのは、大学三年の三月の末の春休みのことだった。
その日は朝から天気が良かった。ひとりにひとつ良いことが起きても良さそうな天気だった。満開の桜は世界を祝福するみたいに咲いていた。凍てつく冬の寒さはついに過ぎ去り、地上世界はまるで名医に根治を告げられた患者のように、明るくなった。
「ねぇ、これからいっしょに桜を撮りに行こうよ」
彼女はそう言った。
その日僕と彼女は大学の喫煙所でたまたま出会った。本当にたまたま会ったのだ。
喫煙所に一時間ばかり並んで座り、なにをするともなく無意味な時間を過ごした。喫煙所のベンチの下には一匹の野良猫が丸くなって眠っていた。僕たちはその野良猫を間違えて蹴ったりしてしまわないように注意しなければならなかった。僕たちは短くて実りのない会話をしたり、また思い出したように時間をかけて煙草を吸ったりした。
春休みの大学にはほとんど人はいなかった。本来の静けさを取り戻した大学のキャンパスは普段と違って居心地がよかった。
僕は新しいピース・ライトを開封して、煙草に火をつけた。
「ねぇちょっと聞いてる?」
「うん、撮ればいいじゃん」
「あっさりしてるわね、長年の友人が突然写真を撮ろうと言い出したっていうのに」
「いつ撮りにいくつもりなの?」
「これから、今すぐにでもいいよ」
「カメラは?」
「これから買いに行くわ」
「わざわざ買うのかよ」
「インスタント・カメラよ」
「携帯で撮ればいいじゃん」
「そういうことじゃないのよ、ちゃっと行ってちゃっと撮ってなんてそういうんじゃないのよ、だからわざわざ桜を撮るって宣言したんじゃない」
僕と彼女は煙草を一本吸ってから、桜を撮りに出かけることにした。ベンチの下の野良猫は寝ぼけた顔で僕たちを見送ってくれた。
まずは購買部に行き、インスタント・カメラを二つ買った。購買部は節電中のため店の中は薄暗かった。
「まさかその商品がはけてくれるとはね」と店員は言った。
確かにそのインスタント・カメラはずいぶん前から陳列されていたもののようだった。よく見るとパッケージの色が日に焼けて薄れていた。
「未開封のまま壊れちゃってるってことはないですよね?」と彼女は言った。
「うん、インスタント・カメラってそういうものでもないしね、とにかくすっきりした気分だよ、ありがとう」
彼女がお金を支払うと、店員は素早く会計を済ませた。レジを打つ指先も軽やかだった。僕たちも店員も、気が変わらないうちに、と思っていた。
購買部を出て、駅に向かって歩きながら次の予定を話し合った。
「あの店員、壊れてたら承知しないからね」と彼女は言った。
「それより、ここからどこに向かうのかは決めてあるのかな、桜といったってそこら中に生えてるわけだしさ、何なら喫煙所のそばにだってあったわけだし」
「まだ何も決めてないのよ」
「そんなことだと思ってたけど、どうするの?」
「わたしは桜が撮りたいの、正真正銘・ど真ん中ストレート・王道中の王道、そういう桜を撮りたいのよ」
僕にはさっぱりわからなかった。だが、彼女の瞳の輝きは確かに何かに燃えている人のものだった。何より僕は彼女の友人だった。協力してあげたいと思っていた。だから具体的に提案することにした。
僕は携帯電話でニュース・サイトを一通り調べ上げた。
「桜の開花宣言は三日前にされた、今ではもうこの街の桜はほとんど満開状態らしい」
「ふむふむ」
「ところで新幹線に乗って日本有数の観光名所の桜を撮りたいとか、あるいは飛行機に乗って世界一の桜木を撮りたいとか、そういうことではないよね?」
「当たり前でしょう、そんなお金ないもの、そんな中でもこれだっていう桜が撮りたいのよ」
「うん、わかったよ、ってことは近所の桜で一番のやつってことでいいのかな」
「まぁ最初はそうなるわね」
「じゃあそこに向かってみよう、電車に乗ってすぐだよ、出だしはこれでいいかな」
「上出来じゃないの」
僕と彼女はICカードにチャージをして改札に入った。途中の駅の売店でよく冷えたフルーツ・ジュースを買って、目的地の駅で降りた。
グーグル・マップと音声ガイドを駆使して僕たちはまず一本目の桜の前にたどり着いた。
「うーん」
「どう?」
「そうねぇ」
「綺麗に咲いているね、満開だ」
「それはそうなんだけどねぇ」
「どうやらお気に召さない様子だね」
「なんていうかこう、これだって、感じが必要なんだけど、それが何なのかわからないのよね」
「じゃあ次だ」
「じゃあ次ね」
僕たちはフルーツ・ジュースで喉を潤しながら、電車を乗り降りして、道路を行ったり来たりして、近場の桜を点検して行った。
だが、一向に彼女の不満は解消されないままだった。
手に持った買ったばかりのインスタント・カメラはその出番を待つばかりだった。このカメラは待たされることにも慣れているはずだが、僕はもう待っていられなかった。ずいぶん歩いて足も疲れたし、彼女につきあうのもお腹いっぱいだった。ゴールの見えない旅だった。まるで砂時計をひっくり返したみたいにICカード残額が音も無く目減りしていくのは悪夢のようだった。僕はさえない居酒屋のアルバイト店員なのだ。
「そろそろ決めちゃおうよ」
「そうよね、わかっているんだけどね」
「これだって相当綺麗だぜ? 満開だし、日のかげり具合とか青空の色味とかさ、なんかそれっぽいの撮れそうじゃん」
「何も芸術的なものを撮りたいとかっていうんじゃないのよ、これだって思ったやつを撮りたいのよ、だからわざわざ桜を撮ろうとするんじゃないの、洒落てる桜とかプロが撮ったような桜が見たいなら画像検索したら済む話でしょう? わたしが求めているのはある意味でわたしだけを呼んでいる桜なのよ、その場の空気を含んだひらめきをわたしはずっと待っているのよ」
「で、それはあったの?」
「ない」
「今に日が暮れるぜ」
「そうね、ごめんなさい、わたしだってもっと簡単に見つかると思ってたの、まさかこんなに迷うとは思わないじゃない」
「同じく」
「ごめんなさい、でも、ここは突っぱねさせてよ、妥協したくないのよ、わかるでしょう?」
「わかった、とりあえず休憩しよう」
「そうね、それがいい」
僕と彼女は喫煙所を探して歩いた。とりあえず一服すれば何かが動き出すと喫煙者はどこかで信じている。
だが、どこまで歩いても喫煙所は見あたらなかった。
煙草はぐんぐん値上げしているはずなのだが、煙草が吸える場所はぐんぐん消滅していた。そういう時代に喫煙者として生きていくことは簡単なことではない。
「わたしたちの払った税金は何に変わっているのかしら?」
「喫煙所を撤去するための人件費じゃないかな」
僕たちがようやく個人経営の煙草屋を見つけたときにはもう日が傾きはじめていた。下校する子どもやサラリーマンも増えていた。黄色いランドセルのふたが開いたり閉じたりするのを見つめながら、僕と彼女は屋外の喫煙所で煙草を吸った。
「大学を出てもうかれこれ三時間は経ってるわね」
「そうだね、バイト入れてなくて良かったよ」
僕は、彼女がそうまでしてこだわる何かを、ここまで来たらきちんと理解したいと思い始めていた。
「ねぇ」と彼女は言った。
「なに?」
「あんだけ歩いて運動したあとってさ、あんまり煙草って美味しく感じないのね」
「やめどきじゃないのか?」
「そうかもね、もう大学四年だもんね」
彼女は煙草を半分だけ吸って、灰皿でもみ消した。それから煙草屋の壁にもたれかかって、ふくらはぎをマッサージした。
「どうやら、いつの間にか、もう若くないみたいね」
「足痛いの?」
「ううん、痛くなりそうだなってわかるだけ」
「大人になるってそういうことだよ、それは決して後退じゃないさ」
「でも、もう卒業だわ、こんな風に思いつきで桜を撮りに歩き回ったりもできなくなる」
「そんなこと一生に一度でじゅうぶんだと思うけどね、僕からすると」
「わかってないわね」
「なにがだよ?」
「わたしはさっきからずっと可能性の話をしているのよ」
僕は、可能性、と何回か声に出して反復してみた。口に馴染む感じはなかった。ずいぶん長く可能性から遠ざかっていたからかもしれない。
「ところでさ、なんで煙草吸うようになったの?」と僕は言った。
「さぁ、忘れた」
「思い出せそうもないくらい?」
「きっかけって思い出さないほうが健全な気がするわ、どうせろくなことじゃないもの」
僕が二本目を吸おうか迷っているとき、彼女が突然こう言った。
「これ、これよこれ、見つけた、これ見に行こう」
彼女は煙草屋の壁に貼ってあるポスターを指さしながら言った。
そのポスターには、<桜イベント(川沿いの夜桜をライトアップ、日没より)>と書かれていた。
「見つかったの?」
「見つかりそうな予感はある」
「夜桜でいいの?」
「ひょっとしたら夜桜だったのかもしれない」
彼女はとても明るい表情に戻っていた。ふくらはぎを揉んでいたときの彼女とは別人のようだった。僕は軽く屈伸をして、歩き出す準備をした。煙草を吸うと動き出す類の何かは、実際にあるみたいだ。
その川は煙草屋から歩いてしばらくしたところに、ひっそりと流れていた。
「なんだかすごい川ね」
「そうだね」
近づいてみると、それはほとんど用水路みたいなものだった。夏になればボウフラが出るような川だった。何度となく酔っぱらいが小便をしたり、点数の悪かった小学生のテスト用紙が投げ込まれたりする、そういう類の川だった。俺だって毎日しんどいんだよ、とか、私は何も悪くなんかないわよ、とか、誰もがこの川の前では強気になってしまう、そういう種類の川だった。
はっきり言って、運命を感じるような川ではなかったが、彼女の瞳はきらきらしていた。
「おそらく、ここだわ」と彼女は言った。
「もうわかっちゃったの?」
「うん、ここだって言ってる、うずうずしてるもの、このへんが」彼女は上着の胸元をぎゅっと握った。
「へぇ、こんなところがねぇ」
手すりにもたれかかりながら日が沈むまで待つと、用水路沿いの桜並木はある瞬間から突然、一斉に照らされた。
遠くのほうまで等間隔に設置された数十個ものライトが、桜の木や、枝や、花を下から鮮烈に照らした。
確かに美しかった。川が淀んでいるから余計に桜が美しく見えた。
いつの間にか増えていた大勢の見物人に混ざって、僕と彼女はその様子を眺めた。見物人があちこちで写真を撮ったり、どよめいたり、笑ったりした。
「どう?」と僕は言った。
「これだわ」と彼女は言った。
川を両側から挟むように立ち並んだ桜並木は、夜風に枝をわずかばかり揺らしながら惜しみなく花を咲かせていた。
僕は手すりから顔を出して川面を覗いてみた。
日が暮れたその川はまるで黒塗りの鏡だった。傷一つない夜を閉じこめた鏡のようだった。
そこには、夜空と鮮やかな桜が、はっきりと転写されていた。
水面の向こう側にもうひとつの世界があるみたいに、枝や花びらのひとつひとつまで精密に川面に映っていた。川は、のぞき込んだ僕や彼女をありのまま映し出した。
僕と彼女の背後には、満開の桜木と夜の闇が見えた。その桜と夜の色のコントラストが僕たちのこころをとらえて離さなかった。
桜をずっと眺めていると、まるで花びらが自ら発光しているかのようにも思えた。それはある種の生き物のようだった。枝を離れて川に着水した後も尚、花びらはおぼろげに明滅して、静かに回転しながら下降へ流れていった。
ふと気付くと、彼女はあの売れ残りのインスタント・カメラを片手に動き回っていた。
彼女は気持ちの向くままにしゃがんだり、立ち上がったり、腰をひねったり、背中をそらしたりしながら撮影していた。
僕は、この桜が昼間に見てきた桜と何が違うのだろう、と考えた。でもそれを彼女に訪ねることはしなかった。ようやく迷路の出口を見つけた子どものように、彼女は休むことなく手足を動かしていた。
インスタント・カメラのフィルムを巻きながら彼女は僕に笑顔を見せた。
僕は彼女がすべてのフィルムを使い切るまでの間、黙って彼女のことを見つめた。
「今日はありがとう」と彼女は言った。
「こちらこそ楽しかった」と僕は言った。
「すぐに現像に出すね」
「うん、できあがったら見せてくれよ」
「わかった、最初に見せるね」
「じゃあ、また来週」
「うん、また来週」
僕は上りで、彼女は下りの電車で帰ることになった。僕は下りホームで彼女を見送ることにした。
そのうち、電車が到着した。それに彼女は飛び乗った。扉が閉まり、電車が動いた。彼女は窓のそばに立ち、ホームに一人残された僕に向かって、小さく手を振った。
彼女に会えたのはその日が最後だった。
その日から彼女を学校で見かけなくなった。
僕は彼女の連絡先を知らなかった。恋人でもなく、恋人になるかもしれない予定もない友人の女性の連絡先なんて、知らないのが普通のような気もする。だから彼女に連絡したい気持ちをどうすればいいのかわからず困り果てることになった。そもそも彼女とは大学の喫煙室に行けばだいたい会えたのだ。そして僕はそういう待ち合わせ方を好んでいたのだった。わざわざ予定を決めて休日に会ったりするのは違う感じがした。僕は喫煙室に偶然彼女がいることそれ自体を喜んでいたし、望んでいた。
とにかく彼女は大学に来なくなった。
僕はそのことについてしばらく考えた。何かしたいと思った。何かするべきだと思った。ただ何をしたらいいのかだけがわからなかった。
友達が学校に来なくなったんですけど、という相談はどこの誰に向かってすればいいのかわからなかった。
彼女と僕との間に共通の知人はいなかった。共通の知人の存在ということが、こんなに重要だとは考えもしなかった。
僕と彼女は嫌煙家が熱を出すくらいの量の煙草を一緒に吸い、コンサルタントが貧乏ゆすりをはじめるくらい無駄な会話をしたりした。それは最高に楽しい時間だった。でも、彼女がどこから大学に通っているとか、将来どうするとか、そういう個人的な会話はまるでしなかった。どちらからでもなく丁寧に避けてきたんじゃないかとさえ思うほど、芯を食った彼女についての情報が何一つ僕の手元にはなかった。それがこんなに不便なことだとは思いもしなかった。一体どうしてだろう?
気乗りはしなかったが、彼女の名前でネット検索をかけたりもした。
何か事件や事故に巻き込まれたかもしれない、そういう心配もあった。だが表示されるのは同姓同名の別人のものばかりだった。彼女はSNSはやっていなかったし、これといって目立つ課外活動もしていなかった。
一度、休みの日を利用して、朝早くから日が暮れるまで、のぼせてパソコンに向き合い、彼女らしき人物を探そうとしたこともあった。だが成果はゼロだった。それで僕は疲れてしまった。それ以来、僕は彼女のことを考えるのを少しずつやめるようになった。
驚くべきことに、その日以来僕は煙草を美味しいと感じなくなってしまった。吸えと命令されたら吸える。でもさほど吸おうと思わない。自分でも不思議なくらい、ぱったりと煙草という文化にのめりこめなくなってしまった。
彼女が離れていくと同時に、煙草も僕から離れていった。決して僕が離れようと思ったわけではなかった。あくまで、どこまでも受動的なものだった。大げさな言い方をすれば、煙草に見捨てられたような気分にさえ僕はなっていた。
単位を取りきっていたけれど色々忙しい時間が続き、わざわざ大学へ行くことはなくなっていた。それでも時々、友人と大学に行くことはあった。そういうときは図書館で勉強したり教務課に書類を提出したりして、その足で喫煙所に向かった。そして黙ってベンチに座っていた。誰もいない喫煙所がこんなに煙草臭いのだと知った。
煙草の香りが、彼女を思い出させた。
彼女の薄い唇に挟まった白い煙草のイメージや、吸い終わったあとにリップ・クリームを塗る習慣や、そういうものを思い出した。思いだそうとしても思い出せないことがここに来ると立体的に立ち上がっていくようだった。だが現実的には彼女は僕の前には現れなかった。喫煙所に煙草を吸いにやってくる顔ぶれは明らかに変わっていて、僕はもうここを出て行く側の人間なんだと強く思うようにもなった。大学四年も半ばを過ぎて、内定者懇親会や職場の先輩との勉強会も始まった。気持ちはほとんど社会人だった。僕は間違いなく大人になろうとしていたし、それを求めていた。
あの日僕らのベンチの下で気持ち良さそうに眠っていた野良猫もあの日以来見ていない。一体どこに行ってしまったのだろう?
結局彼女は卒業式の日も大学へ来なかった。
卒業アルバムにも彼女の写真はのっていなかった。最初からそんな女の子はいないよ、と言われているような気がした。
卒業式が始まる直前のどさくさに紛れて、喋ったこともない男の荷物に自分の卒業アルバムを紛れさせてきた。彼が二冊の卒業アルバムをどう処理したのかは知る由もない。
そんなこんなで僕は大学を卒業した。大学時代の思い出は友人が一人いなくなって、煙草に嫌われたことだった。2011年3月だった。
震災の影響もあって、卒業式は大学内で簡単に行われた。講義を受けるノリで参加する同級生に紛れて、彼女がいないか目で探していた。でも見つからなかった。
式が終わって一段落した頃、僕はスーツ姿でいつもの喫煙室へ向かった。そして毎度のようにベンチに座って、他人の煙草の残り香を吸いこんだ。
ベンチの下から猫がのそりと這いだしてきたのは、僕が帰ろうとした丁度そのときだった。
「お前、久しぶりだな」
あの日の野良猫は変わらず眠たそうだった。猫に喋りかけるスーツ姿の男を、物珍しそうに上から下まで眺めた。
僕はそのとき、あの桜を見に行こうと決めた。
三月末日のその日、桜はまだ五分咲きだった。後少しで咲きそうだったが、まだ人は集まらない桜だった。例の煙草屋に張ってあるポスターによれば、ライトアップも来週からだった。それでも川まで歩いて、手すりにもたれかかりながら、五分咲きの桜を眺めた。そして何枚か携帯電話で写真を撮影した。ロックフォルダに入れて削除してしまわないように鍵をかけた。そして、また桜が咲いたらこようと思ってその日は帰った。
一週間後、僕宛に郵便が届いた。茶封筒に何かが入っていた。
開封すると、そこには写真が二枚入っていた。僕は彼女だと直感した。
一枚目の写真は、あの日、去年の春に二人で訪れた桜を撮影したものだった。インスタント・カメラには日付が出るのだ。そこには幻想的なまでの桜色と宇宙規模の孤独を思わせる夜の闇が、インスタント・カメラの性能を超えて映り込んでいるような気がした。
そしてもう一枚、写真が入っていた。
そこには、桜色に染まった川があった。
川面を埋め尽くすほど大量の桜が、風に散ったまま雪のように積もっていた。
桜色に発光する花びらが、どこかへ流されていく様子だった。こっちの写真には、日付がついておらず、いつ撮影されたものなのかはわからなかった。
僕は机の上に二枚の写真を並べ、何度も何度も交互に眺めた。
そうしていると、どこからか煙草の香りがして、無性に一服したくなった。
僕は引き出しの奥の奥まで探って、ようやく煙草を一箱とライターを見つけた。
だが、開けてすぐに湿気てだめになっていることがわかった。ライターもガスが切れて使い物にならなかった。それでも僕は煙草を諦められなかった。久しぶりに再会できた友人と心行くまで時間をともにしたかった。
一箱全部だめにして、ようやく一本だけ弱々しく火がついたが、消えるのは時間の問題という感じだった。風の吹き荒れる海を静かに流されていく灯籠のように。
僕は声を聞くように注意深く、煙を吸った。それから返事をするように明るく、煙を吐いた。
人工呼吸のような一服が、二度、三度、続けられた。久しぶり、お互い頑張ろうな、また会おう、会話になおせばそれくらいの時間だった。僕にとっては、それでもじゅうぶんだった。
僕は煙草から口を離し、できるだけ優しく灰皿にたてかけた。
煙草の火は、目を閉じるみたいにふっと消えた。そして途切れた煙は、スペース・シャトルのようにわずかに開けた窓の外へ流れて見えなくなった。
美しい灰になり損ねた煙草の先端を、僕はじっと眺めておいた。目に焼き付けておこうと思った。僕はもう煙草を吸うことはないだろう。コップの水を灰皿にかけて煙草を濡らした。真冬の墓石のように、灰皿の中の水はちっとも乾いていかなかった。
僕は写真の角をあわせて端をホッチキスでとめた。そして元の封筒に入れ直して、煙草とライターがあった場所にしまった。